恩寵用語Ps86(2)
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詩86篇(2) 「あわれむ」 חָנַן ハーナン
〔カテゴリー愛顧〕
3節「主よ。私をあわれんでください。」 15節「あなたは、あわれみ深く・・」
16節「私に御顔を向け、私をあわれんでください。」
Keyword;「憐れむ、情け深く・・施す」 show favor, have mercy,
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- 「あわれんでください」と嘆願する「あわれむ」ハーナンחָנַן(chanan)は詩篇特愛用語です。旧約では78回、詩篇では33回でほとんどが嘆願形で用いられています。その嘆願のほとんどが、「私を」と個人的です。神が主語でも、人が主語でも、「あわれむ」とか「情け深くして人に施しをする」という意味で使われます。反対に、「あわれまない」ことは「容赦しない」という意味になります。イスラエルの戦いにおいてカナンの民に「あわれみを示さずに聖絶する」とは、「容赦せず」と同義でした。
- ルカの福音書18章にイエスが語った「パリサイ人と取税人が神殿で祈った祈り」の話がしるされています。パリサイ人の祈りは「私が・・のような者ではないことを感謝します。私は・・のものをささげております」と祈りましたが、取税人は目を天に向けようともせず、「神様。こんな罪人の私をあわれんでください」と一言、祈りました。ところが、この取税人の方が義と認められて帰りました。このことはパリサイ人にとってまさに青天霹靂でした。それほどに「あわれんで下さい」という祈りは神を喜ばせる祈りだということが分かります。なぜなら、神のあわれみを求めることは、自分が罪のゆえに悲惨な状況にあることを認め、具体的な助けを神に要求することだからです。このことが神の「はらわた」を動かすのです。
- ちなみに、「主よ。あわれみたまえ」というフレーズは中世のカトリック教会の典礼においては、「キリエ・エレイゾン、クリスト・エレイゾン、キリエ・エレイゾン」(ラテン語)として常に(通常文として)歌われてきました。礼拝者にとって自分が神のあわれみなしには立つことができないことを表わす祈りとして、連綿と歌い続けられてきたのです
- 詩篇の中には主ご自身が「あわれもう」という言葉はありませんが、出エジプト記33章19節には「わたしは恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者あわれむ。」とその主権性を宣言しています。また、イザヤ書30章18節では「主は、あなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもう(חָנַן)と立ち上がられる。」と今にもその思いが行動であらわしたいという熱い心情を述べています。
- このように、神が「あわれむ」とは、単に心情だけにとどまることなく、必ず具体的なことが施されるのです。新改訳ではイエスのあわれみ(スプラングニゾマイ)は「かわいそうに思う」と訳されていますが、この動詞は「同情+具体的行動」をその内容としています。