恩寵用語Ps97
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詩97篇 「種を蒔く」 זָרַע ザーラー
〔カテゴリー統治〕
11節「神に従う人のためには光を 心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる。」(新共同訳)
11節「光は、正しい者のために種のように蒔かれている。喜びは心の直ぐな人のために。」(新改訳)
Keyword;「(種を)蒔く」 sow, 97:11/107:37/126:5
- 光や喜びを種のように「蒔く」と訳されたザーラー(זָרַע)は、旧約で56回、詩篇では3回のみです。そのうちのひとつ詩126篇5節では「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。」とあります。ここでの「種」とは、神のみことば(トーラー)を意味します。しかも主語は神ではなく人です。神の民はバビロン捕囚という憂き目を経験しながらも、彼らはそこで神のことばにしっかりと向き合い、その確かさ、豊かさ、恩寵を見出したのでした。そしてそれがやがて詩篇1篇2節にあるように、「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずざむ」というライフ・スタイルを生み出しました。彼らは自ら蒔いたものを刈り取ったのです。その間、70年という歳月が流れました。
- ちなみに、名詞形のゼラー(זֶרַע)は、「子孫」を意味します。旧約230回、詩篇では18回です(ただし126篇6節のみ「種入れ」と訳されています)。
- さて、この詩97篇11節は神の国(神の支配、神の統治)が到来する終末に向けた預言的な表現です。光と喜びが、種のように蒔かれているとはどういうことか。王である神の支配をやがて完全な形で現わされる時がまさに刈り入れの時だとすれば、すでにその種は蒔かれていたということになります。どこに、だれのために蒔かれているのかといえば、それは「正しい者」たちの心にです。詩篇97篇のことばで換言するならば、「シオン」「ユダの娘たち」「主を愛する者たち」「聖徒たち」「心の直ぐな人」たちてす。いうなれば、神に贖われた者たちの心の中に蒔かれています。
- ここでいう「光」(「オール」אוֹר)とは、光源としての光ではなく、おそらく、神との交わりとしてのいのちの光を意味すると思います。あるいは啓示の光、悟りの光、愛の光とも言えます。それが神に贖われた者のうちに種のように蒔かれているのです。
- 一方の「喜び」(「サーマハ」שָׂמָח)も、感情的な喜びというよりは、イエスのいう「わたしの喜び」であり、この世の喜びではありません。また弟子たちに「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と言われたように、いつも神に覚えられているという存在論的な意味での喜びを意味していると思います。
- イエスの語った「種蒔く人のたとえ話」で、良い地に落ちた「種」はやがて30倍、60倍、百倍の実を結ぶと言われたように、まことの王がその主権を完全に顕にする時、私たちの思いをはるかに超えた刈り入りの時、収穫の時が来ることを待ち望みたいと思います。