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恩寵用語Ps99

詩99篇 「赦す」 נָשָׂא ナーサー

〔カテゴリー愛顧〕

8節「・・あなたは、彼らにとって赦しの神であられた。しかし、彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」(新改訳)

Keyword;「赦す」 forgive, 25:18/32:1, 5/99:8

  • 8節には対極的な動詞があります。それは「赦す」という動詞と、「報いる」という動詞です。一般的に「赦す」の反対は、「さばく」と考えますが、旧約聖書の「さばき」はシャーファトで神のすべての統治用語を括る語彙です。したがって、詩99篇8節では、「赦す」ナーサー(נָשָׂא)の反対語は、「さばく」ではなく、「罰する、罰を下す、仕返しする、報いる、復讐する」と訳される動詞ナーカム(נָקַם)が使われています。面白いことに、どちらも頭文字がヌン(נ)で始まっています。
  • 「赦す」と訳されたナーサー(נָשָׂא)は、本来、手や目を上げる(rise up, lift up)、重荷を負う(bear)、荷物を持ち運ぶ(carry)という意味ですが、ここでは神が人の罪の重荷を負う、取り去ることから、「赦す」と訳されています。「赦す」の類義語には、サーラハ(סָלַח)がありますが、こちらは完璧に「赦す」forgiveです。エレミヤ31:34では「二度と思い出さない」という意味での「赦し」です。イザヤ55:7では「赦し」は主に「立ち返る」ことが条件です。詩篇25:11/103:3も参照。
  • 神である王としての統治において、イスラエルの民はこの「赦し」を何度も経験したことにより、「赦しの神」と告白しています。と同時に、「彼らのしわざに対してはそれに報いる方であった。」とあります。これはどういうことでしょうか。
  • かつて出エジプトしたイスラエルの会衆が金の子牛を造って拝んだ事件の後、再び、シナイ山に登ったモーセに神がこう語りました。「主、主はあわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち。咎とそむきの罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者、父の咎は子に、子の子に三代、四代に。」(出34:6)と。
  • その後、約束の地へ斥候として遣わされた者たちの報告によって、全会衆はモーセとアロンに対して「エジプトの地で死んでいたらよかったのに」「荒野で死んだ方がましだ」「エジプトに帰ろう」などと口ぐちにつぶやきました。そのため、会衆に悪く言いふらした者たちは疫病で死に、ほかの者たちは40年間の荒野の放浪生活を余儀なくされました。それは自分たちの神に対する背信の罪を負う旅であり、ヨシュアとカレブを除く第一世代はその荒野で死に果てました。これが神に対する反抗の「報い」です。民は、赦されたにもかかわらず、荒野の放浪という罰は下されたのです。罰は罰ですが、これはある意味で神の民としての「訓練・懲らしめ」でもあります。
  • 「赦す」ことと「正当な罰を下すこと」は、イエス・キリストの十字架の死においてクライマックスを迎えます。御子はその十字架において、私たちが性懲りもなくしでかした罪を一身に背負い、その当然の報いである刑罰を受けると同時に、「赦し」もなされたのです。不可解なことですが、このことによって神ご自身が「聖」であることを明らかに示されたのでした。


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