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悪い時代にあっても父のみこころを行う家族

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52. 悪い時代にあっても父のみこころを行う神の家族

【聖書箇所】マタイの福音書12章43~50節

ベレーシート 

  • 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)。イェシュアの三年半におよぶ公生涯は、寝ても覚めても「天の御国」(神の国)のことだけでした。イェシュアのすべての行動(癒し、教え、宣教)はこのテーマに基づくものでした。イェシュアの来臨によって、罪は赦され、いやしの力が働く神の支配のデモンストレーションにもかかわらず、パリサイ人をはじめとする宗教指導者たちはそれを認めようとしませんでした。なぜなら、異邦人による長年の支配(バビロン、メディア・ペルシア、ギリシア、ローマ)から、自分たちの国を解放してくれる政治的メシアを待望してきたからです。マタイの福音書12章は、イェシュアがメシアであることをこれでもかと思わせる発言と行いをしているにもかかわらず、彼らはイェシュアがメシアであることを認めようとはしませんでした。彼らの思い込みがそうさせたのです。

1. イェシュアのメシアとしての自己証言

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  • イェシュアは以下の三つのことばで、自分がメシアであることを自己証言しておられるのです。

(1) 「人の子」という概念

  • イェシュアはご自分が政治的なメシアと混同されることを避けるために、自分について「人の子」という表現を用いました。だれかがイェシュアのことを指して「人の子」と言ったのではなく、自分自身のこととして用いられました。ですから、イェシュア以外にはだれも「人の子」という称号を使ってはいません。イェシュアは故意にこの表現で自分のメシア性を表したのです。「人の子」は福音書ではマタイ34回、マルコ18回、ルカ29回、ヨハネ14回と使われています。特にマタイは多く使っています。マタイの12章だけでも「人の子」という言葉が3箇所(8, 32, 40節)に出てきます。福音書の中でイェシュアが「人の子」と表現しているところをチェックしていくと、「人の子」の概念が浮かび上がってきます。大きく分けると以下の三つに分類できます。

①王的権威を発動するメシア
地上での働きにおいて、王的権威をもって人の罪を赦したり、救いを宣言したり、癒しの奇蹟をしたりする「人の子」の姿です。これはダビデの家系から王的権威をもった「ダビデの子」としてのメシアが来ていることを示しています。イェシュアの家系はダビデ王につながっているのです。

②拒絶される苦難のメシア
しかし「人の子」による王的権威は、人間の権威によって拒絶され、排斥され、やがて苦しめられて、殺されます。それがイザヤの示した「苦難のしもべ」としてのメシアです。「人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられる」ことが定まっていたのです。当時の人々には受け入れがたい概念でした。

③未来における審判者としてのメシア
死から復活する「人の子」は、やがて再臨され、すべての人をさばく審判者でもあります。これはダニエルが預言した「審判者」としてのメシアです。それは「復活」がなければあり得ないことでした。

(2) 油注がれた者としてのメシアの特性

  • マタイ12章では、イェシュアが6節で「ここに宮よりも大いなるものがある」と言い、41節では「見なさい。ここにヨナにまさるものがあります」と言い、42節でも、「見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります」と言っておられます。「宮」(神殿)を司るのは大祭司です。さらに「ヨナ」は神のことばを語る預言者です。そして「ソロモン」は知恵をもって治めるです。つまり、12章だけでも、イェシュアは自分が油注がれたメシアであることを自己証言しているのです。

(3)「ヨナのしるし」

  • イェシュアをメシアとして受け入れず、もっと大いなるしるしを見せてほしいとする者に対する唯一の確かな証拠は、「ヨナのしるし」だとイェシュアは言われました。「ヨナのしるし」とは、メシアが死んでよみがえることを意味するしるしです。これこそ、イェシュアがメシアである最終的な、決定的な、究極的なしるしだと言われたのです。しかし、このしるしで悟ることはできないことをイェシュアはご存じでした。なぜなら、この時代を「悪い、姦淫の時代」と呼んでいたからです。この「ヨナのしるし」でイェシュアがメシアであると信じた人はどれほどいたのでしょうか。以下に、①「ヨナのしるし」を見ずして信じた人、②「ヨナのしるし」を見て信じた人、③「ヨナのしるし」を見ても信じなかった人を挙げてみたいと思います。

① イェシュアの語る「ヨナのしるし」を見ずして(聞いて)信じた人々

a. ベタニアのマリア
【新改訳2017】ヨハネの福音書12章3節
一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(328グラム)取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
●足に香油を塗ったのは、イェシュアの葬りのためでした。よみがえりのときは、彼女は墓に行ってはいません。

b.十字架上の犯罪人の一人
【新改訳2017】ルカの福音書23章42~43節
42 そして言った。「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」
●彼はイェシュアがよみがって御国の王となることを信じたのです。「今日」というのは、神が定められた日という意味です。

② イェシュアの語る「ヨナのしるし」を見て信じた人々

a. 使徒(弟子)たちを含む120名の人々
b. マグダラのマリア
彼女は七つの悪霊をイェシュアによって追い出してもらった人です。これはイスラエルの残りの者の型と言えるかもしれません。彼女は十字架の時に墓にいて、よみがえったイェシュアに会った最初の人でした。
●彼女はイェシュアの十字架の時には最後に名前が出て来ますが、イェシュアの復活の時は筆頭に登場しています。ヨハネの福音書には、復活の朝、主が墓でマリアに個人的に顕現されています。なぜ彼女に顕現されたのでしょうか。それはマリアがイェシュアを愛し慕って、墓を離れなかったからです。箴言8章17節に「わたしを愛する者を、わたしは愛する。わたしを熱心に捜す者は、わたしを見出す」とあるからです。イスラエルの残りの者はそのような関係になるのです。

③イェシュアの語る「ヨナのしるし」を聞いても見ても、信じなかった人々

指導的階級にいた祭司たち、律法学者、パリサイ人たち、および群衆
彼らはイェシュアの多くの癒しと奇蹟を見ながら、もっと驚くようなしるしを求めただけでなく、十字架にかかったイェシュアに対してこうも語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書27章39~42節
39 通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。
40 「神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
41 同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。
42 「他人は救ったが自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。
43 彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

●つまり、自分たちの思う通りにするなら信じようというのが、「悪い、姦淫の時代」の人々の正体です。イェシュアがこの時代の人々の末路について語ったのが、今回取り上げる43~45節にあるたとえ話なのです。


2. 汚れた霊が戻って来るというたとえ話

【新改訳2017】マタイの福音書12章43~45節
43 汚れた霊(「ト・アカサルトン・プニューマ」τὸ ἀκάθαρτον πνεῦμα)は人から出て行くと、水のない地をさまよって休み場を探します。でも見つからず、
44 『出て来た自分の家に帰ろう』と言います。帰って見ると、家は空いていて、掃除されてきちんと片付いています。
45 そこで出かけて行って、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなると、その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです。この悪い(「ポネーロス」πονηρός)時代にも、そのようなことが起こります。」

  • 45節の終わりに閉じ括弧があります。これは39節の「悪い、姦淫の時代は・・」から始まっているイェシュアの言われた一連のことばの終わりです。43~45節にあるたとえ話は何を言おうとしているのでしょうか。イェシュアのたとえ話はすべて御国に関するものであることを思い起こしましょう。以上のたとえ話は、「悪い、姦淫の時代」に起こる話だと言えます。
  • ところで、「悪い、姦淫の時代」とは、いつからいつまでの時代のことを言うのでしょうか。それはイェシュアの初臨から再臨される前までです。より正確には、イェシュアの初臨からキリスト再臨前の七年間の反キリストによる大患難の終わりまで、つまり、ユダヤ人がイェシュアをメシアと信じて民族的に回心する時までです。もうすでに2千年近く経っているのですが、そこに至るユダヤ人の最後の状態は「より悪くなる」という話です。まさにユダヤ人はマグダラのマリアのように「七つの霊に支配された民」として、多くの苦しみを長年にわたって経験するのです。
  • すでにA.D.70年には、エルサレム神殿がローマ軍によって破壊され、多くのユダヤ人は殺され、あるいは離散を余儀なくされました。祭司制度も完全に破壊されました。それ以降も、ユダヤ人たちは離散した各国で迫害を受け続けます。1940年代に起こったドイツのヒットラーによるホロコーストでは600万人のユダヤ人が虐殺されています。1948年にイスラエルが復興してからは、わずかずつですが、ユダヤ人の中からイェシュアがメシアであると信じるメシアニック・ジューと言われる人たちが起こされて来ています。しかし未だに多くのユダヤ人はイェシュアがメシアだとは信じていません。パウロの言うように、彼らは依然と「つまずきの石(=イェシュア)につまずいた」(ローマ9:32)ままなのです。しかし、やがて定められた時に、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言する不法の人(獣と呼ばれる反キリスト)が現われますが、それまで「不法の人」の出現を引き止めているものがあるのです。その「引き止めているもの」とは教会です。しかしその教会が携挙される時、その時こそ不法の人が現われる時なのです。この不法の人の到来はサタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対する悪の欺きがおこなわれるのです(Ⅱテサロニケ2:3~10参照)。多くのユダヤ人たちはこの不法の人をメシアだと信じて、彼と契約を結ぶようになるのですが、契約を結んだ後に、反キリストはその本性をあらわにするのです。そして、自分を神として拝まない者はすべて殺されるのです。
  • たとえ話に戻ります。イェシュアが来臨して汚れた霊が追い出される時代が来たのです。しかしイェシュアをメシアだと信じないでいるなら、家を空き家にしていることと同じなのです。ひとたびそこから出て行った霊が戻って来て、自分よりも悪い、七つのほかの霊を連れて来て、入り込んでそこに住みつきます。そうなるとどうなるか、「その人の最後の状態は初めよりも悪くなるのです」とあります。これが「悪い、姦淫の時代」(39節)、「悪い時代(新改訳第三版では「邪悪なこの時代」)」(45節)の姿なのです。この状態は未だに(今日においても)変わらないのです。
  • パウロはこれを「福音に覆いが掛かっている」状態だとしています。「滅び行く人々に対して覆いがかかっている」、それは「この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです(Ⅱコリント4:3~4)。」と記しています。しかし神はアブラハム契約を覚えておられ、やがて「終わりの日」にこの覆いは取り除かれるのです。
主の例祭.PNG
  • 旧約聖書に主が制定された「例祭」があります(レビ23章)。右図がそれです。主の例祭はすべて神の不変のご計画のマスタープランを啓示しています。春の四つの祭り(過越祭、種なしパンの祭り、初穂の祭り、七週の祭り)が示唆する預言的な意味は、メシア・イェシュアの初臨によってすでに実現しています。しかし秋の三つの祭りが意味する預言的出来事は、これから実現することです。つまり、秋の祭りが意味することはメシアの再臨によってはじめてこの地上に実現することを示唆しています。その秋の例祭に「贖罪日」(「ヨーム・キップール」יוֹם כִּפּוּר)があります。この「贖罪日」が指し示している預言的意味は、悔い改めによる全イスラエルの民族的回心の実現です。神の側では神の恵みによってそのお膳立てはすでに整っています。しかし、全イスラエルの民の方が未だ整っていないのです。そのことに気づかせ、全イスラエルの民を民族的に悔い改めさせ、主に立ち返らせることが、「贖罪の日」が意味していることなのです。
  • 神の民イスラエルが犯した最大の罪は、神の御子イェシュアを拒絶しただけでなく、スケイプゴートとしてイェシュアを十字架につけたことです。さらには、獣と呼ばれる反キリスト(不法の人)をメシアとして信じるようになります(姦淫の罪)。そうした罪に気づかせるために、神は彼らに反キリストによる大患難を通させ、未曾有の苦難をもたらします。しかしゼカリヤ書12~14章には、イスラエルの民がどのようにしてメシアを受容するかが語られています。12章10節と13章1~2節には以下のように記されています。

【新改訳2017】ゼカリヤ書12章10節
10 わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見て、ひとり子を失って嘆くかのように、その者のために嘆き、長子を失って激しく泣くかのように、その者のために激しく泣く

【新改訳2017】同書、13章1~2節
1 その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる
2 その日──万軍の【主】のことば──わたしはもろもろの偶像の名を、この地から絶ち滅ぼす。それらの名はもう覚えられない。わたしはまた、その預言者たちと汚れの霊をこの国から除く

  • この預言は「ダビデの家とエルサレムの住民の上に」となっていますが、他の預言書も加味合わせると、神はユダのみならず、イスラエルの全家を一つにされます。そして彼らは二度と身を汚すことがないようにされるのです。ここまでして、主はユダヤ人(イスラエル)を「悪い、姦淫の時代」から救い出されるのです。反キリストによる大患難をくぐり抜けた1/3のユダヤ人は、キリストの再臨の前に、聖霊の傾注によって、「自分たちが突き刺した者(イェシュア・メシア)」と「主を仰ぎ見」て、神とメシア・イェシュアが一体であったことに霊の目が開かれます。そしてメシアを拒絶したことがどんなに大きな罪であったかを示されて「激しく泣く」のです。尋常ではない「苦しみを伴ったひどい悲しみ」となります。そうした民族的回心があって、キリストの地上再臨が来るのです。こうしてイスラエルは、マグダラのマリアのように、主を愛するようになるのです。万軍の主の熱心さによって、将来必ず実現されるのです。

3. 「父のみこころを行う」神の家族

  • 「悪い、姦淫の時代」の中にあってもそれに流されることなく、父のみこころを行う主の家族がいるのは、御国の民にとって一縷の望みです。

【新改訳2017】マタイの福音書12章46~50節
46 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた。
47 ある人がイエスに「ご覧ください。母上と兄弟方が、お話ししようと外に立っておられます」と言った。
48 イエスはそう言っている人に答えて、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。
49 それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
50 だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」

  • 46節に「イエスがまだ群衆に話しておられるとき、見よ、イエスの母と兄弟たちがイエスに話をしようとして、外に立っていた」とあります。母マリアと兄弟たちとあります。イェシュアの兄弟たちとは、マタイ13章55節によれば、「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」です。姉妹たちもいましたが、ここでは同行していません。彼らはイェシュアに話をしようとしていたとありますが、マタイはその理由を記していません。いずれにしても、イェシュアの周りには群衆がいっぱいで、家に入ることができずに、外に立っていたのです。「外に立っていた」の「立っていた」は現在完了形で、中に入らず外で「ずっと立ち続けている」ニュアンスです。
  • そのときイェシュアは「わたしの母とはだれですか。私の兄弟たちとはだれですか」と思いがけないことばを突き返しています。一見すると、肉の家族を軽視するような発言です。しかしイェシュアは公生涯に入られた時から、彼の関心は「御国」のことだけでしたから、何よりも御国を第一にすることを教えていました。例えば、8章21節で「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください」と言ったひとりの弟子に、イェシュアはこう言われました。「わたしについて来なさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」とか、10章37節にあるように「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と教えていました。これらは、既成の家族よりも、御国のことを第一にすることを教えていたのです。ですから、ここで自分の家族に対しても同様だったのです。家族の絆を重んじる人たちにおいては、これはつまずきをもたらします。しかしイェシュアは自分の家族よりも御国の家族を優先することを教えられたのです。
  • 49節の「手を伸ばして」(新共同訳「を指して」)と訳されている箇所のギリシア語は「エクテイノー」(ἐκτείνω)です。という動詞です。8章3節でツァラアトの人に「イエスは手を伸ばして」とか、12章13節にも片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」とある言葉も「エクテイノー」(ἐκτείνω)です。ヘブル語で「(手を)伸ばす」は、普通「シャーラハ」(שָׁלַח)が使われるのですが、49節のヘブル語訳だけは「ナーター」(נָטָה)という動詞の未完了3人称単数「イェート」יֵט)が使われています。この動詞の初出箇所は創世記12章8節で「天幕を張る」という意味で使われています。「天幕を張る」のは家族が共に住むためです。つまり「イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた」とは、イェシュアが弟子たちと共に住むための天幕を張ること、すなわち、御国において共に住む家族を指して言われたことを意味しています。ですから、イェシュアは弟子たちのことを「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです」と言っているのです。
  • このことが天の御国について語っていることは言うまでもありません。それは「終わりの日」を意味する「見なさい」(「ヒンネー」הִנֵּה)という言葉があることからも分かります。46節である人が、「ご覧ください」(「ヒンネー」הִנֵּה)」と言ったことに対して、イェシュアはすかさず反応して、「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と問い返しています。公生涯に入られてから、イェシュアの関心とすべての働きは「御国」に注がれていることが、ここにも強調されています。そのことを決定づけるかのように、その家族とは、イェシュアの弟子であるもの、すなわち「天におられるわたしの父のみこころを行う者たち」のみであることを語っています。御国では父のみこころを行う者でなければ、主の家族にはなれないのです。
  • イェシュアの母と兄弟たちは、イェシュアの「外」にいました。それは彼らが「御国」の「」にいたことを意味しています。「外」ではなく、御国の民であるためには、御国の「」にいなければならないのです。イェシュアの母と兄弟たちはこのときは「外」にいましたが、イェシュアの復活後には弟子となっていたのではないかと思います。なぜなら、使徒の働き1章14節に「彼らはみな、女たちとイエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちとともに、いつも心を一つにして祈っていた」とあるからです
  • 天の御国における家族の概念は、私たちの血のつながりを越えた新しい世界における主にある家族です。なぜなら「血肉(生まれながらの)からだは神の国を相続することができない」とあるからです。キリストの花嫁である教会に属する者も死からよみがえり、生きている者は新しいからだに変えられなければならないのです。これを「第一の復活」と言います。反キリストが支配する大患難時代にイェシュアをメシアとして信じて殉教したユダヤ人や異邦人も、キリストの地上再臨の時にこの「第一の復活」にあずかることができます。「この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者です」(黙示録20:6)と言われます。ちなみに、御国の「外」にいる人もよみがえりますが、御国が完成する千年王国の時にではなく、それが終わった時に復活し、同時に「第二の死」が定められています。主を信じて「第一の復活」にあずかる者には、「第二の死」は何の力も持っていないのです(黙示録20:5~6)。あなたはその中に入っているでしょうか。入っていなければ、完全に御国の「外」にいることになり、永遠のさばきを免れることはできないのです。
  • 以下にあるイェシュアのことばを、しっかりと心に留めたいと思います。特に、「わたしにふさわしい者とはどういう者なのか」という点に注目してください。

【新改訳2017】マタイの福音書10章34~40節
34 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。
35 わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。
36 そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。
37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。
38 自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39 自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。
40 あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。

  • 家族を大切にする人にとっては上記の主のみことばはつまずきとなるかもしれません。特にユダヤ人の家族はそうです。家族の中にひとりでもイェシュアをメシアだと信じる者が出ると、その家では葬式がなされると言います。日本も家族の絆は強い国と言えます。しかし、この主のことばをそのまま信じて受け入れることが、「父のみこころを行う者」と言えるのではないでしょうか。この世における家族はやがて終わります。しかし御国に生きる者は、主にある新しい神の家族があることを心に留めたいと思います。

2019.4.7


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