****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

愛する方を夢見る花嫁

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

9. 愛する方を夢見る花嫁

【聖書箇所】 2章8〜17節

ベレーシート

  • 雅歌2章8~17節は、花嫁が愛する方である花婿を夢見ている場面です。その証拠に、この箇所(8~17節)の始まり終わりがそのことを物語っています。ただしそれには、少々、説明が必要です。

はじめ
【新改訳改訂第3版】雅歌2章8~9節
8 愛する方の声。ご覧、あの方が来られます。山々をとび越え、丘々の上をはねて。
9 私の愛する方は、かもしかや若い鹿のようです。ご覧、あの方は私たちの壁のうしろにじっと立ち、窓からのぞき、格子越しにうかがっています。

終わり
【新改訳改訂第3版】雅歌2章17節
17 私の愛する方よ。そよ風が吹き始め、影が消え去るころまでに、あなたは帰って来て、険しい山々の上のかもしかや、若い鹿のようになってください。


●17節はさまざまな解釈があって難しい箇所です。「そよ風が吹き始め、影が消え去るころ」とは「夕刻」のことで、一日の終わりを意味します。あるいは逆に、暁が息吹く早朝のそよ風が吹く頃と解釈する人もいます。

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●いずれにしても、その時までに「帰って来て、〜ください」とあります。「あなたは帰って来て」(新改訳)を岩波訳では「繰り返し」と訳しています。つまり、その時までに、かもしかや、若い鹿のように「なってください」というニュアンスで訳しています。しかし原文では「サーヴァヴ」(סָבַב)の命令形となっていて、それは「険しい山々の上へ向かってください」とも訳せるのです。とすれば、やがては夢が覚めて帰って行ってしまうときまで、愛する人よ、かもしかや、若い鹿のようで「いてください」というニュアンスになるのです。

●2章1~7節では、花婿のイメージは「りんごの木とその実」でしたが、8~17節では「かもしかや若い鹿」です。山々をとび越え、丘々の上をはねる華奢な姿、かつ力あふれる若さをイメージさせます。イェシュアの前に登場したバプテスマのヨハネは、イェシュアのことを「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。」(マルコ1:7)と宣べ伝えました。このイェシュアに花嫁の心は奪われなければなりません。

●一時の夢の中では、花嫁は家の中におり、花婿はその外にいるのです。したがってそれぞれ相手の顔をじっくりと見ることはできず、花婿の声だけが聞こえるという設定です。しかもそれを花嫁が歌っているのです。今日の花嫁なる教会も花婿の姿は見えませんが、花婿の声は聖書を通して聞くことが出来るのです。


1. 「愛する方の声」ー「立って、出ておいで」

【新改訳改訂第3版】雅歌2章10~14節
10 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。
わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで
11 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。
12 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。
13 いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。
わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
14 岩の裂け目、がけの隠れ場にいる私の鳩よ。私に、顔を見せておくれ。あなたの声を聞かせておくれ。あなたの声は愛らしく、あなたの顔は美しい。
15 『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕らえておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。」

  • この箇所には「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで」というフレーズが二回あります。最初のフレーズは、夏の季節が来て、やがて夏の終わりの婚姻が近づいていることを呼びかけている花婿の声です。これは、イェシュアが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4:17)と呼びかける声にも似ています。
  • そして二度目の「さあ、立って、出ておいで」という呼びかけについて考えてみましょう。「立って、出ておいで」と訳された部分はヘブル語では「クーミー・ラーフ、ウールヒー・ラーフ」(קוּמִי לָךְ וּלְכִי־לָךְ)となっており、「立つ、起きる」を意味する「クーム」(קוּם)と、「歩く」を意味する「ハーラフ」(הָלַךְ)の二つの動詞の命令形が使われています。つまり「起きて/立って、歩け」という意味です。イェシュアも「起きて、歩きなさい」と言われた奇蹟があります。

【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書5章5~9節
5・・・三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。
6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。

  • 今日のキリスト教会にはいのちの回復が必要です。しかしながら、この病人のようです。そんな病人に向かってイェシュアは呼びかけます。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」と。
  • 先ず、「教会」に対する考え方とアイデンティティを、主によって新たにしていただかなければなりません。花婿は花嫁に「わが愛する者、美しいひとよ。」と呼びかけています。教会にはさまざまな問題があって、「主よ。そんな! あなたが言われるようには美しくありません。」と思うならば、何かが間違っているのです。教会をキリストの花嫁として選んだのは花婿なるキリストです。その方が「美しい」と呼んでくださっているのです。今日、「ブライダル・パラダイム」へ転換することがなぜ重要なのでしょうか。それは花嫁が主によって「起きて、立ち上がって、歩き、出て行く」ための力の源泉となるパラダイムだからです。
  • 教会が問題から解放される糸口は、聖書そのものに語られている「はじめ」と「終わり」という神の目的論的・終末論的歴史観をもって、教会をキリストの花嫁として捉え直すことにあると信じます。今日、教会にとって必要なのは、「からだ」を一致・調和させるための努力ではなく、存在の目的論的視点です。もちろん、前者を否定するつもりはありません。ヘブル的に多少誇張して述べているにすぎません。

2. 相思相愛の美しさ

  • 2章16節の花嫁のことばに注目したいと思います。

【新改訳改訂第3版】雅歌 2章16節
私の愛する方は私のもの。
私はあの方のもの。

  • この表現は雅歌7章10節では、「私は、私の愛する方のもの。あの方は私を恋い慕う。」と表現されます。これは愛する二人が相思相愛の仲であることを意味します。これを使徒パウロのことばで言うならば、以下のようになります。

【新改訳改訂第3版】ガラテヤ書2章19~21節
19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法(=律法主義)に死にました。
20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法(=律法主義)によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

  • さらに、このことをボンフェッファーの言葉で表現するならば、「高価な恵み」に生きる者となることです。花婿と花嫁は「一心同体」であるべきであり、そこに向かって常に共に歩むべき自覚が求められます。特に、花嫁が「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。」と告白できるところに、はじめて花嫁の美しさがあります。なぜなら、ただただ花婿に対する純粋な心からすべてがなされるからです。

2015.8.18


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