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愛の病に陥るほどの花嫁

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

8. 愛の病に陥るほどの花嫁(二つの季節)

【聖書箇所】 2章4〜7節

ベレーシート

  • 今回は雅歌2章4~7節に絞って瞑想をしたいと思います。
    ここでは、パレスチナの二つの季節を象徴する花と木の実、そして神のご計画における二つの時制について触れたいと思います。
  • 2章10~13節とも呼応しますので、まず、その箇所を見ておきたいと思います。

【新改訳改訂第3版】雅歌2章10~13節
10 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
11 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。
12 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。山鳩の声が、私たちの国に聞こえる。
13 いちじくの木は実をならせ、ぶどうの木は、花をつけてかおりを放つ。わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。


●花婿が花嫁に向かって「さあ、立って、出ておいで」と促すことばに挟まれて、夏の季節を象徴する、咲き乱れる「花」と実を実らせ花をつけてかおりを放つ「木」についての言及があります。主の定められた三大例祭(過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭り)も、
花が咲き乱れる春から、結実を迎える秋までの間にあります。

●「冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。」(2:11~12)とある雅歌が、ユダヤ教においては、過越の祭りの安息日に朗読されるのはそのためです。

●ところで、イスラエルの舞台となっているパレスチナにおいては、私たち日本人の言う「春」とか「秋」という季節を表わす語彙はありません。パレスチナにおける一年は、「冬」と「夏」しかないのです。このことは、一日を「夕があり、朝があった。」(創世記1:5)と表現する聖書の特異な時の概念とも連動しています。聖書はそうした時の概念をさまざまな自然の風物によって描き出していると言っても過言ではありません。聖書における季節は「四季」ではなく、「二季」なのです。

このヘブル人たちの時間感覚については、小河信一著「聖書の時を生きる」(1998, 教文館)という本の中に詳しく記されています。

  • 花婿と花嫁の出会いの時は「夏」の季節です。ですから、咲き乱れる「花」(サフラン、ゆり)は、夏のはじまりの時であり、多くの木の実(ざくろ、いちじく、ぶどうの実)は、「夏」の終わりの時を表わしているのです。
  • 「はじまり」と「終わり」を結ぶ直線的歴史観、聖書全体の終末論的歴史観を予感させています。この歴史観は「闇(混沌)」から「光」へ、「死」から「いのち」へ、「夕暮れ」から「朝明け」へ、「嘆き」から「たたえ」へという対極的リズムを持っています。これがヘブル人の時間感覚だと言えます。

1. パレスチナの気候は「冬」と「夏」

【新改訳改訂第3版】 申命記11章14節
わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。

  • 聖書で「先の雨」とか「後の雨」という場合、それは冬の季節のはじめ終わりを意味しています。「穀物」は冬の季節の恵みの賜物であり、「新しいぶどう酒」や「油(オリーブ)」は夏の季節の恵みの賜物なのです。冬は雨の季節であり、夏は乾季の季節です。
  • 雅歌2章1~6節においては、夏の始まりを示す(「サフラン」「ゆり」に代表される)「」と、夏の終わりを示す(「ぶどう」「りんご」に代表される)「木の実」によって、その季節における花婿と花嫁のかかわりが描かれているのです。

2. 神のご計画における「すでに」と「いまだ」の啓示

  • 雅歌2章4~6節には二つの時制があります。その一つは完了形で、もう一つは未完了形です。

【新改訳改訂第3版】雅歌2章4~6節
4 あの方は私を酒宴の席に伴われました(完了形)。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。
6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださる(未完了形)とよいのに。


原文では、4~6節にある動詞は四つですが、うち二つは5節にある「力づけよ」「元気づけよ」の命令形ですから、どちらかと言えば、すでに実現している事柄ではなく、いまだ実現されていない状況における願いを表しています。したがって、4~6節にある動詞は二つ、すなわち、「伴われた」と「抱く」です。

4節には「あの方は私を酒宴(原文は「ぶどう酒の家」)に伴われた。」とあり、使役形の完了形が使われています。「伴われる」の原語は「ボー」(בּוֹא)」で、「来る」とも「行く」とも訳されます。ヘブル語はある事が実現していなくても、やがてそのことが必ず実現する場合、完了形で表わします。そしてそれが可能であるのは「あの方の旗が愛」だからです。「酒宴の席」(=ぶどう酒の家「ベート・ハッヤーイン」בֵּית הַיָּיִן)とは「婚礼の宴会」を意味します。花婿が来られて「酒宴の席」に伴われたとは、やがて実現する婚姻のことを意味しています。

しかし、6節では「ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。」とは、いまだそのことが実現していないことを物語っています。すなわち、未完了形なのです。すでに確実な約束と、その実現を待望する中に置かれた花嫁の揺れ動く心情、それを「愛に病んでいる」と表現しているのです。

  • 今日のキリストの花嫁は「いまだ」と「やがて」という緊張に耐えなければなりません。しかし、そのためには「支えられ、力づけられる」(「サーマフ」סָמַךְ)こと、また「元気づけられる」(「ラーファド」רָפֲד)ことが必要です。なぜなら、花婿は必ず来られて、その右の手でしっかりと花嫁を抱く時が来るからです。それまでの緊張感の中に生きることこそが花嫁の霊性であり、花嫁の輝きです。そしてそれは時として花婿を慕う「病」(愛の矢に射貫かれた状態)のようにすら見えるのです。今日の教会はそのような花嫁であるかどうかを自ら吟味しなければなりません。しかしそのことは決して煽り立ててはならないことを花婿は望んでおられます。それが7節のことばです。

3. 愛の目ざめのときー愛の神秘

【新改訳改訂第3版】雅歌2章7節
エルサレムの娘たち。私は、かもしかや野の雌鹿をさして、あなたがたに誓っていただきます。揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。

  • 7節は花婿が語るリフレイン(反復句)です。というのは、2章7節の他に、3章5節、および8章4節にも繰り返されているフレーズだからです。繰り返されているということは、そのことが重要だからです。
  • 愛は、自分から、あるいは人から強制されてつくり出せるものではありません。「この人を絶対に愛して行きます。永遠に愛して行きます」と口で言ったとしても、そうすることはできないのです。愛には「目ざめ」(主体性・自発性)が必要なのです。といってもそれは花嫁自身の中からは出てきません。聖霊の助けと促しなしには「目ざめる」ことができないのです。それゆえに「愛の目ざめ」は尊いのです。しかもその愛が「目ざめる」ときには「強さ」を表します。8章6節に「愛は死のように強く」とあるとおりです。そして、その愛(=目ざめの愛)は「大水も消すことができない」(8:7)のです。


2015.8.15


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