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慈愛と忍耐と寛容の神

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6. 慈愛と忍耐と寛容の神

はじめに

  • パウロはローマ人への手紙1章16節において、「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」と述べました。神の福音、すなわち御子イエス・キリストによってもたらされたよきおとずれというのは、罪深い人間を救うことのできる神の力であるということです。神のダイナマイトです。ダイナマイトは破壊する対象が硬ければ硬いほどその効力を発揮すると言われているように、まさに人間の罪がどんなに深くあったとしても、神の福音はそれを解決して余りあるのです。パウロはそのことを確信していました。ですから、彼は「私は福音を恥とは思いません(むしろ誇りに思う)」と断言できたのです。
  • さて前回は、神を知らない異邦人がどのようにして神から離れたのかを学びました。神という存在を被造物によってうすうす知りながら、神をあがめることもなく、感謝もせず、むしろ被造物を神として拝むようになりました。その結果、神は「彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され」ました。人間はもともと神ご自身の栄光のために造られましたが、その人間が神の声よりもサタンの声に聞き従ったために、そのさばきとして人間の欲望、情欲、良くない思いに「引き渡され」たのです。
  • ルカの福音書15章にある「二人の息子を持つ父のたとえ話」を思い浮かべてください。父のもとにいた弟息子は、財産の分け前をもらうと、父のもとを離れ、できるだけ遠い国に旅立ちました。そして放蕩三昧の生活をしたのです。その結果はみじめなものでした。そのみじめな姿の中で、彼は我に返りました。つまり自分が父のもとから離れたことがそもそもの間違いであったことに気づいたのです。そして彼は、立って、父のところに帰って行ったのでした。このことは後で再度ふれたいと思います。
  • さて、今回の聖書箇所は2章です。1章では異邦人がいかにして「放蕩息子」の道を歩むようになったのかが扱われておりましたが、2章では、ユダヤ人がいかにして「放蕩息子の兄」の道を歩むようになったか、つまりいかに自分を義とするパリサイ人的な道を歩むようになったかを記しています。ユダヤ人は特別に神の恵みを受け、神から良いものを与えられた民です。それゆえに彼らは誇り、他の民族よりも優れているとうぬぼれてしまいました。そのようなユダヤ人に対して、パウロはユダヤ人と言えども、異邦人となんら異なることはない、神の前に謙遜にならなければ、神の救いを受けることはできないとしたのです。神の怒りとさばきが異邦人に対してだけでなく、ユダヤ人に対しても向けられていると警告しました。それが17節以降に記されています。

1. 人をさばく者は、神のさばきを免れない

  • さて、2章1節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙2章1節
ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。

  • 1節では「ユダヤ人よ」とは言われていません。「すべて他人をさばく人」に対して、あなたがたも例外なくさばかれると言っています。2章17節以降から、人をさばく代表として「ユダヤ人」が取り上げられていますが、それまで(1~16節)は、他人をさばくすべての者が対象とされています。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙2章3節
そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。

  • ある小学校で、先生と生徒がいっしょになって教科書を読んでいました。すると一人の子どもが、「先生。〇〇〇ちゃんがよそ見をしています。」と言いました(告発です)。するとその先生は叱りました。だれが叱られたでしょうか。「先生。〇〇〇ちゃんがよそ見をしています。」―これが人をさばくことですが、そのさばいている者が同じことをしているのです。真面目に教科書を読んでいる生徒は全くそのことに気づきませんが、よそ見をする者だけが、人のよそ見に気づくのです。「あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。・・人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。」(2:1, 3)というパウロのことばが納得できます。

  • イェシュアは山上の説教(マタイ5~7章)の中で、「さばいてはいけません。」と言われました。そこで言われている「さばく」ということばの意味は、私たちが人に対して、愛のない態度で人の人格や行為を非難したり批判したり、こうだと決めつけてしまう傾向を言っています。私たちは何と人をさばくことでしょうか。私たちのまわりにはこのさばきの霊が満ちています。ことばや態度、視線(目つき)等によって・・。
  • 聖書の中に「全き愛は恐れを締め出します」というみことばがあります。ところが、私たちは自分が人からさばかれているのではないかという恐れを持って生きています。このさばかれている(批判、非難されているという意識)恐れは非常に強いのではないでしょうか。人によってその意識の強弱があるとは思いますが、この恐れに耐えることができないと、人をさばくようになるのです。ですから、人をよくさばく人は、それだけ自分が人からさばかれているという恐れが強い人だということになります。この恐れから解放され、人をさばくことから解放される道はただ一つ、あるがままの自分が受け入れられているということ、愛されているということを経験することなのです。人がどんなに自分をさばこうと批判しようと、この私を神はあるがままに受け入れ、愛してくださっているという事実を信じるときに、人からさばかれているという恐れからも解放されるようになるのです。これが、「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(Ⅰヨハネ4:18)ということの意味です。しかし、こうした愛にふれたとしても、人をさばかないで生きるということは、息をしないで生きることができないように、不可能なのです。
  • イェシュアが「さばいてはいけません。」と言われたことをもう少し考えてみましょう。なぜさばいてはならないのか。その理由が三つ記されています。

(1) さばかれないためです

  • 「さばかれないため」というのは、人からではなく、神からさばかれることのないためです。この世の処世術において、人のことをとやかく言わないのは、自分も人からとやかく言われないためです。ですから面と向かって言うことはしないのです。しかし、心の中では何を考えているかは分かりません。神は私たちのことばや態度だけでなく、心の内側も見られる方です。たとえ人に面と向かって言わなくても、心の中で人をさばいているなら、神は私たちをさばかれるということです。

(2) あなたがさばくその基準でさばかれないため

  • 神が私たちをさばく場合に、どのような基準でさばかれるかと言えば、私たちが人をさばくその基準に従ってであるということです(マタイ7:2)。私たちが人をさばくときは非常に厳しい基準をもってさばきます。
  • ダビデ王が自分の家来であるウリヤの妻を奪い、自分のものとしたとき、預言者ナタンがダビデ王のところにやって来てこんな話をしました。
    “ある富んだ人が、自分の客をもてなすのに、自分の家畜を殺すのが惜しくなり、隣に住む貧乏な人の持っていた、たった一匹の小さな雌の子羊を盗み、それでお客に御馳走した”という話です。ダビデはその話を聞くと、とても怒って、そういうことをする人間は生かしておいてはならない。殺してしまわなければならない。子羊も四倍にして返すべきだと言い放ちました。ちなみに、神の律法によれば四倍は最高の保障です。すると預言者ナタンはダビデに向かって、そのようなことをしたのは「あなたです」と。ダビデは自分がさばいたその基準で神からもさばかれました。幸い、彼は神の前に自分の罪を認め、悔い改めたので、いのちは助かりました。しかし自分とウリヤの妻との間にできた子どもは生きることができませんでした。このダビデの罪は、私たちの罪でもあるのです。私たちの深い所に巣くっている罪なのです。ですからダビデを他人事のように思ってはなりません。ダビデの姿が私たちの姿であることを認める謙虚さが必要です。

(3) 自分の目には梁があるからです

  • 私たちが人をさばいてはならない理由の三つ目は、私たちにはさばく資格がないからです。というのは、私たちのさばきはどんな場合でも、いつも自分の目に梁を持ちながら、しかもそれに気づかないで人の目の塵を取り除こうとしているからです。人はだれでも攻撃され、批判され、さばかれると防御反応を起こします。そしてますます自分の正しさを主張し、自分の意志の純粋性を主張し、自己正当化します。ですから、人からさばかれることを通しては真の悔い改めに至ることは難しいのです。
  • 私たちは人の過ちを見つけて、その間違いを正してあげたいと思います。そして忠告をしたりして助けることができると考えています。それが私たちの目の中の梁なのです。ヨブの友人のことを思い起こしましょう。彼らは自分の目の梁に気づかず、ヨブをますます頑なにさせてしまいました。私たちの目の梁に気づき、悔い改めて、人のことを神にゆだねるときに、人は自分の目の塵に気づいていくのです。だから、「さばいてはいけません。」とイェシュアは言われたのでした。さて、人をさばきやすい私たちに対して、パウロは「神はひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。・・・神にはえこひいきなどはないからです。・・神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」(ローマ2:6, 11, 16)。

2. 悔い改めに導く神の豊かな慈愛と忍耐と寛容

  • ルカの福音書18章9~14節に「自分を義人だと自任し、他の人を見下している者たちに対して語られたたとえ話」があります。

前半の祈り・・自分が他の人たちのようでないこと(とりわけ取税人でないこと)を感謝する祈り
後半の祈り・・自分が特別な生き方をしていることを告げている祈り

  • ここにはパリサイ人の特質がよく表わされています。彼らは、神に対する自分たちの果たすべき責任は律法を守ることであり、それによって生活を聖別しなければならないと考えていました。彼らの仲間に入る時は、他の人とは分離して生きることを誓約させられました。その結果、自分は他の者とは異なる特別な存在であるというふうに考えるようになりました。しかし気をつけなければならないのは、私たちも「このようなパリサイ人でないことを感謝します。」と祈る者になる危険があるということです。キリスト者は必然的にそのような過ちを犯す危険性をもっているのです。
  • ルカ15章の「二人の息子を持つ父」のたとえ話では、兄息子が父に抗議しています。それは、一日中働いて疲労と空腹でへとへとになって帰ってきた兄が、最上の着物と履物と指輪をつけて、しかも子牛の肉を食べながら歌と踊りに興じている弟のことを聞いたからです。兄は父からそのような歓待を受けている弟に対して我慢なりませんでした。面白くなかったのです。ですから父にこう言ったのです。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書15章29~30節
29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

  • ルカ18章の「パリサイ人と取税人の祈り」において、取税人の方が義と宣言されて帰って行ったことはパリサイ人にとって青天の霹靂であったはずです。また、ルカ15章の兄息子のように、父のもとにいながら父の愛から「遠く」あったことは弟以上に大きな問題をかかえているのです。人をさばくことの中に、人間のうちにある深淵な闇があります。しかし同時に、悔い改めに導く神の豊かな慈愛と忍耐と寛容が注がれているのです。そのことを決して軽んじてはなりません。

    1994.10.23

2017.3.9


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