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慰めのメッセージの序曲(1)

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30. 慰めのメッセージの序曲 (1)

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【聖書箇所】40章1~11節

ベレーシート

  • イザヤ書1~39章の「心かたくなにするメッセージ」から、40章以降の「慰めのメッセージ」へと変わります。前者の「心かたくなにするメッセージ」に中にも神のさばきと回復(慰め)の預言がコインの裏表のように常に語られていましたが、後者の「慰めのメッセージ」は主のご自身の民に対する熱い思いが語られるだけでなく、それがどのようにして実現するのか、その担い手としての「受難のしもべ」としてのメシアがはじめて紹介され、単なるバビロン捕囚からの解放を超えた神の壮大な終末的救いのご計画が預言されています。
  • 「慰めのメッセージの序曲(1)」では、語られる人称の舞台設定にスポットを当て、だれがだれに対して語っているのかという点に注目したいと思います。翻訳文では人称について明確な情報を得ることができません。ヘブル語の原典から人称についての情報を確認してみたいと思います。とはいえ、人称の舞台設定はそう簡単ではありません。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書40章1~5節
1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」
3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。
5 このようにして、【主】の栄光が現されると、すべての者が共にこれを見る。【主】の御口が語られたからだ。」
6 「呼ばわれ」と言う者の声がする。私は、「何と呼ばわりましょう」と答えた。「すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。
7 【主】のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。
8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」


●上記を逐語的に訳してみると、以下のようになります。
1
「あなたがたは慰めよ。あなたがたは慰めよ。わたしの民を。」と
あなだがたの神は仰せられる。
2
「あなたがたは語れ。エルサレムの心に。
またあなたがたは呼びかけよ。彼女に。
まことに、彼女の労苦は満ちた(戦いは終わった)。
まことに、彼女の咎は償われた(その罪は赦された)。
まことに、彼女はそのすべての罪に対して二倍のものを主の手から受けた。」と。
3
呼ばわる一つの声
「荒野に備えよ。主の道を。
真っ直ぐにせよ。砂漠に私たちの神のための大路を。
4
すべての谷は高くされ、すべての山と丘は低くなる。
起伏のある地は平らになり、凹凸のある地は平原となる。
5
そのようにして主の栄光が現われる。
そして(彼らは)見る。すべての肉はこぞって。
なぜなら、主の口が語られたからだ。
6
一つの声が言う。「呼ばわれ」と。
すると彼(=他の者)が言う。「私はなんと呼ばわりましょう。」

すべての肉は草だ。そしてすべてその栄えは野の花のようだ。
7
草は枯れる。花はしぼむ。
主の息がそれに吹き付けるとき。

まことに民は草だ。
8
草は枯れる。花はしぼむ。
しかし私たちの神の言葉は永遠に立つ。


1. 人称の情報を整理する

  • 先程も述べたように、どこからどこまでの部分はだれが語っているのかという人称に基づく舞台設定をイメージすることは容易ではありません。
  • 1~5節に限るならば、1~2節の「人称なき存在」が語っている部分と、「呼ばわる一つの声」が語っている部分とがあることに気づきます。いずれも主が語ったことばを代弁して語っている存在であることは間違いありません。特に、「呼ばわる一つの声」はメシアの先駆者です。メシアの再臨時に現われる先駆者はエリヤであることはマラキ書4章5~6節で明言されています。しかし、キリストの初臨時に現われる先駆者がだれであるか、イザヤ書は明言していません。しかし新約聖書にはその「呼ばわる一つの声」がバプテスマのヨハネであることを明らかにしています。
  • 6節~8節では「一つの声」とそれに答える「私」という存在が登場して、語るべき内容を互いに呼応しながら、確認している様子が見られます。この舞台設定の中に、果たして預言者イザヤはいるのか、あるいはいないのか。もしいるとすれば、どれがイザヤの声なのか。おそらく、「私はなんと呼ばわりましょう」と尋ねている者がイザヤだと考えられます。なぜなら、イザヤの召命経験の時によく似ているからです。

(1) 1~3節にある五つの命令形はすべて二人称男性複数形・強意形のピエル態

1節「慰めよ」「ナハムー」(נַחֲמוּ)、基本「ナーハム」(נָחַם)。

●誰が、誰に、誰を慰めよと命じているのかと言えば、「あなたがたの神」が、「あなたがたに」、「わたしの民を」(主の民を)、「あなたがたが慰めよ」と命じているのです。そして、「神は仰せられる」と言っているのはだれかと言えば、ここでは人称なき存在なのです。

2節「語りかけよ」「ダッブルー」(דַּבְּרוּ)、基本「ダーヴァル」(דָּבַר)。

●直訳すると「あなたがたはエルサレムの心に向って語りかけよ。」で、ここでの語りかける対象は「エルサレムの心」です。訳文では「エルサレムに」ですが、原文では「エルサレムの心に」とあります。「心」は「レーヴ」(לֵב)の単数形です。それは何を意味するのでしょうか。もし、それがエルサレム(あるいはシオン)に住む者たちのことを意味しているとすれば、単にバビロンから解放された者たちだけでなく、反キリストから解放された後のエルサレム(シオン)を意味することにもなります。とすれば、終わりの時の反キリストによる大患難の後に訪れるメシア、そのメシアと共に生きることになる神の民たちに対して、あなたがたは「語りかけよ」という解釈になります。エルサレムはメシア王国における中心地なのですから。

2節「呼びかけよ」「キルウー」(קִרְאוּ)、基本「カーラー」(קָרָא)。

●直訳すると「あなたがたはエルサレムの心に向って呼びかけよ。」で、ここでの呼びかける対象が「これ」、すなわち「エルサレムの心」です。

3節「整えよ」「パンヌー」(פַּנּוּ)、基本「ファーナー」(פָנָה)。

●ここでは「呼ばわる声」が「あなたがたは整えよ」と命じています。問題は「荒野で」という部分です。新改訳では「荒野に呼ばわる者の声」と訳していますが、新共同訳では「主のために、荒れ野に道を備え」と訳されています。私も「荒野で」の位置は「主の道」に結びつけた方が良いように思います。なぜなら、6節にも「『呼ばわれ』と言う者の声」が登場するからです。「呼ばわる声」と「『呼ばわれ』と言う者の声」は別々の存在ではなく同じ存在だと考えられます。何れも単数です。
●ちなみに、「呼ばわる声」は「コール(קוֹל)・コーレー(קוֹרֵא)」で、「コール」は「声」(単数)、「コーレー」は動詞「呼ぶ」の分詞です。分詞は形容詞的用法として「呼んでいる」「呼ばわる者」の意味になります。この「呼ばわる(者の)声」はやがてバプテスマのヨハネによって実現したことを共観福音書とヨハネの福音書がそれぞれ記しています(マタイ3:1~3、マルコ1:2~3、ルカ3:3~6、ヨハネ1:23)。そこでは七十人訳聖書から引用していますので、いずれも一様に「荒野で叫ぶ者の声がする」と訳しています。
●「整える」とは、石などを取り除いて整地することを意味します。ここでは、主の道を荒野(「ミドゥバール」מִדְבָּר)にあなたがたは整えよ」と語っています。

3節「平らにせよ」「ヤッシュルー」(יַשְּׁרוּ)、基本「ヤーシャル」(יָשַׁר)。

●ここでは「私たちの神のための大路を」、荒地の中にまっすぐに造れと命じています。主の道とは、主の通られるハイ・ウェイと同義です。主が通られる道、その方の栄光にふさわしい道をあなたがたが造るようにということです。
●ここで呼びかけている存在(単数)は、「あなたがた」(複数)に対して、「私たちの神のための・・」と呼べるような立場にある存在です。


(2) 9節にある三つの命令形はすべて二人称女性単数形

【新改訳改訂第3版】イザヤ40章9節
シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」


(1) 「登れ」「アリー」(עֲלִי)、基本形は「アーラー」(עָלָה)
(2) 「(声を)あげよ」「ハーリーミー」、基本形は「ルーム」(רוּם)
(3) 「恐るな」「アル+禁止形」「アル・ティーラーイー」(אַל־תִּירָאִי)
(4) 「言え」「イムリー」(אִמְרִי)、基本形は「アーマル」(אָמַר)

●ここで命令されている「あなた」(単数)とは「良い知らせをシオンに伝える者」(単数)のことです。「良い知らせを伝える者」はヘブル語の「バーサル」(בָּשַׂר)のピエル態の分詞ですが、「バプテスマのヨハネ」はその「良い知らせを伝える者」の一人だと言えます。ではその「良い知らせを伝える者」にだれが命令しているのかといえば、6節に登場した「私」、すなわちイザヤです。「良い知らせ」については10節以降に記されています。「良い知らせ」のタイトルは「見よ。あなたがたの神を」です。その内容を一言で言うならば、それは「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。」というものです。これがやがてイェシュアが語ることになる「御国の福音」の内容なのです。


2014.10.1


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