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慰めのメッセージの序曲(2)

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31. 慰めのメッセージの序曲 (2)

【聖書箇所】40章1~31節

ベレーシート

  • 慰めよ。慰めよ。わたしの民を」で始まるイザヤ書40章はイザヤ書後半の序曲です。そこで語られている「慰めのメッセージ」とは何かを考察します。「慰めのメッセージ」は「エルサレムの心に」対して語られなければなりません。新改訳は「エルサレムに優しく語りかけよ」と訳していますが、原文では「あなたがたはエルサレムの心に語り、彼女に呼びかけよ。」です。心と訳された「レーヴ」(לֵב)は、日本語の「心」のように必ずしも感情や情緒を意味するものではありません。むしろ理解力を意味します。イザヤ書6章に「この民の心を肥え鈍らせ(かたくなにし)、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。」(10節)とあるように、ヘブル語の「心」(レーヴ)の働きは理解力や悟る力を意味しています。したがって「慰めよ」とは、決してセンチメンタルな呼びかけではなく、悟りが開かれること、理解力が与えられることを意味するのです。ですから、40章12節以降では、神がどのような方であるかを知らないのか、聞いていないのか「エルサレムの心」に問いかけているのです。
  • 1節の「慰める」ということが、9節では「良い知らせを伝える」という言葉に置き換えられます。動詞の「良い知らせを伝える」は「バーサル」(בָּשַׂר)、その名詞は「バーサール」(בָשָׂר)で、良き訪れ、すなわち「福音」を意味します。慰めることとは良き知らせを伝えることなのです。ではその良き知らせとは何か。イザヤ書40章では三つの要素があることを示唆しています。


主の慰めの要素.JPG

1. 咎と罪の赦し

  • 2節には「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けた。」とあります。「その」とは、エルサレムのことを指しています。「労苦」と訳された原語は「ツァーヴァー」(צָבָא)で、本来的には「戦い」という意味です。その「戦いが終わった」という意味になります。その意味で訳されるならば、バビロン捕囚の経験を越えた意味となります。それはやがて反キリストによる大患難における信仰の戦いの意味合いも帯びてきます。なぜなら、10節にあるように「良い知らせ」は「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」ことだからです。メシア王国の預言としても考えられます。しかし、その前に神の選びの民であるイスラエルは、大患難という試練を経験します。それは、反キリストを自分たちのメシアとして迎え入れたがゆえの神のさばきであり、神への立ち返りの最後の機会となるからです。精錬的な意味としてのさばきがもたらされます。
  • しかし、そのような神の民の心のゆがみを表わす「「咎」(「アーヴォーン」עָוֹן)と「罪」(「ハッタート」הַטָּאת)が赦されるときが必ず来るのです。それがバビロン捕囚からの解放の出来事でもあり、キリストの地上再臨の出来事でもあります。イザヤ書40章では民の「咎」が償われ、民の「罪」に引き替えて二倍のものを受けることができることを、預言的完了形で表わしています。二倍のものとは、長子に与えられる特権です。神の長子はイスラエルの民です。

2. 民に対する養育

  • 神は、神の民の咎と罪を赦すだけでなく、羊飼いのように、みことばをもって神の民としてふさわしく養育されるいつくしみに満ちた愛の神の姿が示されます。それが10節です。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書 40章11節
    主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

  • 慰めは、赦しと解放のみならず、神のみこころにふさわしく生きるために子羊たちを群れとして集めてその懐に抱き、「乳を飲ませる」その母親たちを導かれます。「養い」「集め」「抱き」「導かれる」という一連の動詞の中に神の愛が現わされています。


3. 力の賦与(刷新)

  • 「慰め」の第三の要素は、力の刷新です。このことが語られる前に、神の偉大な力をいかんなく語られていきます。それが12節~26節にあります。そこでは神の創造性、全能性、無比性、至高性、無限性、無窮性、不変性、完全性、永遠性が語られます。しかし、当時のユダの人々(バビロンの捕囚となった人々)は、「私の道は隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と解決の見通しのない深刻な行き詰まりの中で生きる力を失い、疲れを覚えていたのです。
  • しかしそんな彼らに預言者は語りかけます。「あなたは知らないのか。聞いていないのか。」とたたみかけます。そして、主はご自身を待ち望む者に驚くべき力を与えて下さるというよきおとずれが語られるのです。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書40章28~31節
    28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
    29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
    30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
    31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

  • この箇所で注目したいのは、「【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。という部分です。実際にそんなことがあるでしょうか。常識的には無理です。ところが、「神である主が力をもって来られ、その御腕で統べ治めるときになれば可能なのです。
  • バビロン捕囚からの解放の時は、そのような「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」というような力は与えられていませんでした。事実、帰還したユダの周辺の人々から神殿建設に対する妨害が起ったり、自分たちの生活が苦しくなったりすることで、すぐにその気力は喪失しています。エズラなどの指導者たちの呼びかけによって霊が奮い立たせられて、再び、神殿建設に励みましたが、ここのイザヤ書40章で語られているような力は与えられていません。
  • 主を待ち望む者に与えられる力は、私たちの想像を越える力です。今ある力にプラスされるような力ではなく、全く異なる力、刷新された力が身を支配するのですから、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」のです。このことを文字通り信じなければなりません。
  • 「新しい力を得」(新改訳)、「新たな力を得る」とありますが、原文には「新しい」ということばそれ自体はありません。ここでの「力」と訳された「ホーアッハ」(כֹחַ)は「力、権力、能力、富」を意味します。それが刷新するのです。今ある力ではなく、刷新された、これまでとは全く異なる力を意味します。それが「ハーラフ」(חָלַף)の使役形が意味することです。「ハーラフ」(חָלַף)は、着物を着替えるように取り替えてしまうという意味の語彙なのです。私たちの想像するような制限された力ではない、刷新された力であるゆえに、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」のです。
  • しばしば天国では何をするのか。そこへ行ったとしてもヒマでしょうがないのではと考える人がいるようですが、全くイメージは逆です。想像をはるかに越えた力を着せられているのに、ヒマで退屈でということはありません。やる気が起らない、生きる目標がないといううつ的症状は天の御国では考えられないのです。
  • 主が力をもってこの地上を統治されるのは、キリストの地上再臨後です。そのときには、すでに携挙されて天にいるキリストの花嫁である教会はキリストとともに地上に来ます。そのときにはすでに朽ちないからだを与えられているので、病気になることもなく、また死ぬことさえありません。患難時代に信仰のゆえに殉教した人々はキリストの再臨の時によみがえり、やはり復活して朽ちないからだになっています。ただ、千年王国では生きたまま復活のからだをもたずに流れ込む人々がいます。しかしそのような人々も病気になることはほとんどないはずです。地には平和が訪れ、神の教えによって人々が愛し合って生きるようになるので、ほとんどストレスのない健康な身体を与えられます。ですから、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」のです。それはまた「聖霊に満たされた姿」とも言えます。「聖霊に満たされる」というと、なにか特別な人の事を言っているように思われますが、御国の世界ではそれが普通であり、標準なのだということです。
  • メシア王国(千年王国)は「新しい力」を持って生きるきわめて活動的な世界と言えます。そんな世界がやがて来ることを信じて待ち望む者は、なんと幸いでしょう。


2014.10.3


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