****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

成熟を目指して進もう

第11日「成熟を目指して進もう」 

神との親しい交わりとしての至聖所の祝福

はじめに

  • へブル人への手紙6章から二つのキーワードを取り上げます。一つは<成熟>というキーワード、もう一つは<希望>というキーワードです。この二つのキーワードは全く別々のものではなく、密接な関係をもっているということがこれから話す中で理解されることと思います。まずは、そのキーワードのある聖書のテキストを読んでみたいと思います。最初の箇所は1節です。
  • 6章1 節 「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

1. 私たちの目指すべき方向 

  • 「成熟を目ざして進もうではありませんか」という呼びかけがあります。これが私たちが目指すべき方向であり、指針です。
  • <成熟>ということばを聞いてどのようなイメージを持たれるでしょうか。果物が熟すと糖の蓄積が高まって甘くなります。カロリーも高くなります。前に食べたなつめやしの実は甘かったです。果物は成熟しないと美味しく感じられません。果物だけでなく、とうもろこしやお米などの穀物類も十分に成長しないと甘くおいしいものにはなりません。味噌や酒なども熟成しないと美味しくなりません。食べ物の世界では成熟、熟成するということが大切です。私は半熟タマゴが好きですという人がいますが、その意味とは少し違います。
  • 芸術の世界でも、成熟するということばは使いませんが、円熟、熟練、練達ということばで言い表されます。円熟し、鍛え抜かれた芸、味わい深い表現、人生の機微に通じた味わいは一つの完成された域に達したときに見られるものです。私たちが感動する映画やドラマにはそうした円熟したものが根底にあります。
  • 人間的な成長、成熟には、熟知、熟考、熟慮、熟視、習熟するといった構え方と密接な関係があります。大人になるということはそういうことではないかと思います。
  • 信仰の世界、霊的な世界においても同様に、成熟が求められます。イエス様は「種蒔きのたとえ話」をされました。種を蒔く人が種蒔きにでかけました。ある種は道端に、ある種は岩地に、ある種はいばらの生える地に、ある種は良い地に落ちました。

① 道端に落ちた種とは、御言葉を聞くが、後からやって来た悪魔によって、信じて救われることのないように、その心から折角聞いた御言葉を奪い去られた人たちのこと。

② 岩地に落ちた種とは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのこと。

③ 茨の中に落ちた種とは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩い(妬みも含む)や富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちのこと。

④ 良い土地に落ちた種というのは、堅い心ではなく、やわらかな心でみことばを聞き、忍耐して実を結ぶ人たちのこと。ある者は百倍、ある者は60倍、ある者は30倍の実を結ぶとイエスは話されました。「実を結ぶ」ことの中に当然「実が熟する」ということも含まれています。

  • 神の子どもとされた私たちは、みことばとのかかわりによって、30倍、60倍、百倍の実りが約束された祝福の中に置かれているのです。ですから、私たちは、へブル人の手紙の作者が言うように、「成熟を目ざして」生きなければなりません。
  • 使徒パウロは愛弟子のテモテにこんなことばを書いています。
    「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう務め励みなさい。」(Ⅱテモテ2:15)
  • ここには、みことばを説き明かす熟練した者(「ドキモス」、試験ずみの定評のある者)となるように務め励みなさいとあります。つまり、熟練するためには、時間と努力、熱心さが必要だということです。ひとつの道の奥義に達するためには、どんな世界でも、どんな領域でも、日々の研鑽が求められているのです。
  • 今日、日本のキリスト教会において、ひとりひとりのクリスチャンの霊性(スピリチュアリティ)が問い直されてきています。そこには本当に何が大切で、何がそうでないかということを見極め、それが自分の生活の中で実現していくスピリチュアリティ(霊性)です。
  • 赤ちゃんがミルクから流動食にかわって少しずつ大人が食べているものが口にできるように成長していきます。ところが、へブル書の5章12〜14節にはこう記されています。

    あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかにおしえてもらう必要がある状態にとどまっている。堅い食物ではなく、お乳を必要とするようになっている。乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えには通じていません。幼子です。-義の教えとは、神との親しいかかわりの事柄を意味します。「堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちのものです。

  • つまり、成熟するとは、良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されることだ、としています。良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練される―これが「大人になる」ということです。これは単なる倫理的・道徳的な善悪の問題のことを言っているのではありません。霊的な世界における良い物とそうでないものとの区分け、判別です。
  • マルタとマリアの話を私は繰り返して語っていますが、とても重要なことがそこで語られているからです。マルタもマリアもそれぞれイエスとのかかわりを持とうとしています。マルタはもてなすという行為を通して、マリアはイエスの足元に座ってイエスの語るみことばに聞き入るというかかわりです。形態は異なっていても、かかわりという点では同じです。ところが、マルタは自分の思うどおり事が運ばなかったのでしょう。自分のかかわり方がうまくいくようにマリアにも手伝うようにと言ってくださいとイエスに願った時、イエスはこう言われました。「あなたはいろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです(One Thing)。マリアはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と。
  • 一見、どちらも大切だと思える私たちに、イエスは彼女たちに「良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練され」たのです。それは成熟への道です。大人になっていく道です。「成熟を目ざして進もうではありませんか」という勧めを心にとめましょう。私には成熟することはできないと言われる方がいるでしょうか。あるいはいつまでも子どもでいたい。大人になりたくない。成熟しないで、いつまでも子どものままでいたいと思われる方がいるでしょうか。私たちが大人になるということは、本来はとても自然なことなのです。自然界を見てください。実のなる木―なつめやしなどは十分な結実を迎えるまでにはなんと40年もかかるのだそうです。しかし一度実をつけると(一房には千粒の果実、一本の木には7~10房)、150年にわたって実をならせると言われます。
  • 信仰の世界、霊の世界で「実を結ばせ、成熟する」にはそれなりの秘訣があります。その秘訣は、すでに種蒔きのたとえでも、またマルタとマリアの話でもすでに語ってしまっているのですが、ヘブル人への手紙ではその秘訣をどのように語っているのかを学びたいと思います。その秘訣とは第二のキーワード「希望」にあります。

2. 至聖所における祝福

  • そこで第二のキーワードが記されているテキストをみたいと思います。まずは、6章11節です。
    そこで、私たちは、あなたがたひとりひとりが、同じ熱心さを示して、最後まで、私たちの希望について十分な確信を持ち続けてくれるように切望します。
  • このテキストから分かることは、まず、私たちには希望が与えられているということです。「私たちの希望について」とあります。その希望についての十分な確信を十分に持ち続けてくれるように、しかも熱心にその確信を持ち続けるようにと作者は語っています。「成熟」と「希望」にどのような関係があるのでしょうか。
成熟と希望の関係
  • 成熟すること、成熟を目ざして進むことと、私たちに与えられている希望についての十分な確信を持つこととは密接な関係にあるということです。希望についての十分な確信を持つことなしには、成熟を目ざして進むことができないという関係にあります。そんな関係にある「希望」とはいったい何なのでしょうか。
  • テキストの19と20節を見てみましょう。「希望」が「この望み」と言い換えられています。

    19 この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。
    20 イエスは私たちの先駆けとしてそこにはいり、永遠に・・大祭司となられました。

  • ここには、望みを持つ効果と、望みの実体について記されています。順序は逆になりますが、まず望みの実体とは何か。それは私たちが「幕の内側に入る」ことだとしています。「幕の内側に入る」とはどういうことでしょうか。この手紙はクリスチャンとなったユダヤ人に宛てられて書かれています。ですから、彼らの伝統、歴史、文化、習慣にふれるように、彼らが分かる領域でものを言っているわけです。ですから、私たちがその意味の本質を知ろうとするならば、それを理解する必要があります。
  • ここでいう「幕の内側」というのは、モーセに示された幕屋の中の最も奥にある「至聖所」のことです。

幕屋の構造

至聖所の中にある契約の箱 画像の説明

  • モーセの時代では聖所と至聖所との間には幕があって、その仕切りの幕を通って至聖所に自由に入ることが許されたのは、モーセだけでした。他に入ることが許されたのは大祭司です。しかも年に一度、大贖罪日と言われる日だけでした。神はその至聖所においてそこに入れた者と親しく語られました。イスラエルの民の罪が全国民規模で赦されるためには、動物の血を至聖所に置かれてある契約の箱の上に注がなければなりませんでした。それほどに幕の内側の至聖所に入ることは重要なことであったのです。神に近づいて、神の赦しを与えられ、神の語ることばを聞くには、そこに行くしかありませんでしたが、ごく限られた者しか入ることができなかったのです。
  • ところが、ダビデの時代には、新しい啓示が与えられます。ダビデがイスラエルの王となって神を公式に礼拝したときには、この至聖所にあった契約の箱の前で礼拝したのです。まさに、中核がむきだしにされたような形です。幕屋の中で最も重要な部分がだれの目にもふれることができるようになりました。これがダビデの幕屋といわれるものです。
  • 実は、このダビデの幕屋はイエス・キリストによってもたらされる救い、私たちが大祭司キリストによって、自由に至聖所に入ることができるようになる示しだったのです。ダビデの幕屋の新しい礼拝形式―賛美を伴う礼拝、動物ではなく、霊的なささげものーはやがてモーセの幕屋と合体して、ソロモン時代に神殿となります。そこではモーセの幕屋でなされた礼拝と、ダビデがなした新しい礼拝の形が総合されたわけです。このあたりの話はじっくりと学ばなければならないのですが、その機会が与えられるようにと祈ります。
  • 話の要点は、イスラエルの歴史の中で大切にされてきた幕屋礼拝、神殿礼拝の中核である至聖所にキリストにあって、いつも自由に入ることができるということなのです。そこでは、主の臨在が満ちていて、その主の臨在による喜びの祝福に満たされるというリアリティが絶えずあることなのです。そのリアリティにあずかることができる保障こそ、まさに「希望」なのです。この希望は決して理想郷のものではなく、現実に経験できる神の約束なのです。
  • 「この望み」の効果は何でしょう。19節によれば、「私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役割を果たす」とあります。錨とは、船が潮の流れに流されることがないように、嵐などで沈没しないためのものです。私たちが昔の大祭司のように年に一度ではなく、あるいは一週間に一度ではなく、いつでも、日ごとに、24時間、「幕の内側に入る」ことができて、神との親しい交わりを豊かに経験することを通して、「前に置かれている望みを捕らえる」(18節)ことができるということなのです。そして、そのことが、いつも、どんなときにも、私を支える力強い励ましとなるということなのです。それがここでいう希望であり、その希望をもって生きることが、言葉を換えると、「成熟を目ざして進むこと」なのです。
  • 成熟を目ざして進もうと言われても、実際、どうすればいいのかと問われれば、私たちがいつも大祭司キリストとともに、至聖所に近づき、そこで神との親しい交わりを楽しみつつ、前に置かれている望みを捕らえることなのです。そこに霊的な円熟が約束されているのです。「死んだら、天国に行く」と言いますが、聖書が約束している天国とは、まさに神の御顔を仰ぎ見る世界のことで、顔と顔を見合わせるそんな親しい愛のかかわりを永遠にもたせていただけるという世界なのです。これはまだキリストの再臨と最後の審判が来なければ最終的には実現しませんが、その前味は味わうことができるのです。
  • 前にも言いましたが、マタイの福音書では救いとは「天の御国に入る」という言い方をします。ヨハネの福音書、あるいはヨハネの手紙の救いは「永遠のいのちを得る」という言い方をします。ペテロの手紙の救いは「生ける望みを持つ」、そしてへブル人への手紙の救いは「近づく」という言い方をします。救いとは、大祭司キリストによって神に近づくことなのです。いつも神と親しく生きる現実です。
  • 当教会の日毎のサムエル・ミニストリーの目的はここにあります。その時間だけが神に近づく時ではなく、いつでも神に近づいて、神を知るための日毎の入り口のようなものです。サムエルで瞑想したことが、一日中、心の中を支配すること、それを持続させる力を養うことが求められているのです。
  • 今日、さまざまな情報が特別得ようとしなくても入ってきます。この世で何が起こっているのかを、いつも十分に知らなくても生きていくことができます。むしろ霊的な生活にとって、多くの情報がよりすばらしい神とのかかわりを犠牲にしているかもしれません。自分の中になにを取り入れるか、「良いものと悪いものの区別ができること」が大切です。テレビの情報がすべて悪いものでありません。しかし、私たちは良い方を選ぶべきです。そしてそれによって得られる祝福は、その人にとって、ある者にとっては、30倍、60倍、百倍の収穫が得られるのです。その収穫とはモノではありません。不動産ではありません。霊的なものです。
  • イエスさまはそれをもっておられたので、どんな危険や嵐の中でも熟睡しておられました。成熟のしるしは、安眠、熟睡と言えます。いつでも、主にあって、安眠できる、熟睡できる、そんな成熟を目ざして、神との生きたかかわりを熱心に求めていきましょう。それは絵に描いた餅ではなく、確かに経験できる望みなのです。望みが望みで終わることなく、その望みがやがて私たちのうちに豊かな実を結ぶことを信じつつ・・・。


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