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捕らえられたイェシュア(受難の開始)


114. 捕らえられたイェシュア(受難の開始)

【聖書箇所】マタイの福音書26章47~56節

ベレーシート

●前回は「ゲツセマネのイェシュアの祈り」を学びました。この出来事は、イェシュアの贖いの一連の出来事からすると、イェシュアの地上の33年半に及ぶ「罪なき生涯」(=御父のみこころに従って歩む)の総括的位置にあり、御父のみこころを貫き通すための最後の内なる戦いでした。33年半とは受肉から公生涯に入るまでの30年と公生涯の3年半です。以下、イェシュアの贖いの一連の出来事の概観を見ながら、今回の「捕らえられたイェシュア」のマタイの福音書における位置づけを考えてみたいと思います。

画像の説明

1.受肉・・・・・1章
2.罪なき生涯・・公生涯以前 2章~4章16節
公生涯以降 4章17節(天の御国を宣べ伝える)~26章46節(ゲツセマネの祈り)
※「罪なき生涯」とは、贖いの土台となるもので、「完全に神のみこころに従う」こと。
3.受難・・・・・26章27節(逮捕、不当な裁判)~27章26節(十字架につけるために引き渡された)
4.・・・・・・27章33~56節(ゴルゴタでの十字架)。受難と死と葬りは別々の事柄ではなく一つです。
5.葬り・・・・・27章57~66節(イェシュアが死んだことの証明)
6.陰府
7.復活・・・・・復活と顕現も一つです。
8.顕現・・・・・28章1~15節、16~20節(大宣教命令)
9.昇天
10.着座(御父の右の座に着くこと、イェシュアの御名という権威ある名が賦与されたこと)
11.いのちを与える御霊となられたこと
マタイの福音書に記されているのは、太字の部分だけです。

●今回の「捕らえられたイェシュア」から「不当な裁判」を経て、十字架刑が宣告されて引き渡されるまでが本格的な「受難」の部分と言えます。

1. イェシュアの時

●ゲツセマネの祈りが終わった後で、イェシュアは弟子たちに「時が来ました」と言われました。

【新改訳2017】マタイの福音書26章45~46節
45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。
「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます
46 立ちなさい。さあ、行こう。見なさい。わたしを裏切る者が近くに来ています。」

●ここで言われている「時が来ました」の「」とは、冠詞付きの「時」(「ヘー・オーラ」ἡ ὥρα)ですが、「その時」とは人の子であるイェシュアが罪人たちの手に渡される時を意味しています。つまり、「まな板の上の鯉」のように、イェシュアが敵であるサタンの手中に置かれ、翻弄されることを意味しています。これが「受難」と言われるある限られた時なのです。「へー・オーラ」(ἡ ὥρα)は、同じく「時」を表わす「カイロス」(καιρός)と共に、贖いを成し遂げる定められた「時」を指すとともに、御国の福音における重要な「時」でもあるのです。

●「渡される」(引き渡される)と「裏切る」は同じ語彙「パラディドーミー」(παραδίδωμι)で、ここでは同義になっています。イェシュアが「ヨハネが捕らえられた(παραδίδωμι)と聞いて、ガリラヤに退かれ、・・この時から宣教を開始した。」(4:12, 17)とマタイは記しています。そしてイェシュア自身も、繰り返し、「自分が人々の手に渡されようとしていること」(17:22)、「祭司長たちや律法学者たちに引き渡されること」(20:18)、「彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるため」( 20:19)と述べています。これらはいずれも一時サタンの手中に置かれることを意味しますが、私たちを贖うために通らなければならない必然的な出来事なのです。そのことがヘブル人への手紙2章に記されています。これが受難の意味する結論的フレーズです。

【新改訳2017】ヘブル人への手紙2章14~15節
14 そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、
15 死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

●すなわち、ここにはイェシュアの受肉と受難の目的が「死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するため」だということです。悪魔の力である最後の砦である「死」のただ中から復活によってそれを打ち破り、人々を死から解放するためです。そのために、イェシュアは敵(サタン)の手中に陥らなければならなかったのです。これが受難の意義です。前置きが長くなりましたが、この視点から今回の箇所のテキストを味わってみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書26章47~56節
47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二人の一人のユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちから差し向けられ、剣や棒を手にした大勢の群衆も一緒であった。
48 イエスを裏切ろうとしていた者は彼らと合図を決め、「私が口づけをするのが、その人だ。その人を捕まえるのだ」と言っておいた。
49 それで彼はすぐにイエスに近づき、「先生、こんばんは」と言って口づけした。
50 イエスは彼に「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われた。そのとき人々は近寄り、  イエスに手をかけて捕らえた。
51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。
52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」
55 また、そのとき群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。わたしは毎日、宮で座って教えていたのに、あなたがたはわたしを捕らえませんでした。
56 しかし、このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するためです。」そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げてしまった。


2. 偽りの「口づけ」(47~50節前半)

●12人の弟子の一人ユダがイェシュアに近づき、「『先生、こんばんは』と言って口づけした」とあります。この「口づけ」は偽りの口づけであり、「引き渡す、裏切る」(παραδίδωμι)ための合図としての行為でした。イェシュアはすでにそのことを見通していました。ですからユダに「友よ、あなたがしようとしていることをしなさい」と言われたのです。「あなたがしようとしていること」とは、イェシュアを「捕らえる」ことです。

●「口づけする」と訳されたことばは「フィレオー」(φιλέω)です。このことばをどこかで聞いたことはありませんか。

【新改訳2017】ヨハネの福音書21章15節
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」

●イェシュアがペテロに対して「わたしを愛していますか」の「愛する」は「アガパオー」(ἀγαπάω)であるのに対し、ペテロの「愛している」は「フィレオー」(φιλέω)です。この会話が三度なされたことをヨハネは記しています。一度主を裏切ったペテロが「アガパオー」ではなく、「フィレオー」で答えることが精いっぱいだったと言えます。「フィレオー」だけでも立派な友情を示す愛といえるのです。それが「口づけする」本来の関係です。イェシュアが「先生、こんばんは」と言って近づいて来たユダに対して「友よ」と言ったとありますが、ここでの「友」と訳された語彙は単なる「仲間、同僚」を意味する「ヘタイロス」(ἑταῖρος)で、ヨハネ15章15節で語っている「フィロス」(φίλος)とは異なります。イェシュアは「友」(「フィロス」φίλος)を以下のように定義しています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書15章15節
わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたをと呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。

●イェシュアはここで弟子たちを「友」(「フィロス」φίλος)と呼んだのは、「父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせた」という関係の深さを意味しているのです。そのような者がイェシュアと口づけすることは理にかなっています。「口づけする」というヘブル語は「ナーシャク」(נָשַׁק)です。これは花嫁が花婿に求める行為で、神を知るために神のことばを語ってもらう関係を表しているのです。

【新改訳2017】雅歌1章2節
あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛は、ぶどう酒にまさって麗しく、

●「口づけする」とは神のみおしえ(トーラー)、あるいは花婿をとおして語られる神のことばが啓示されることの比喩的表現です。そもそも「口づけする」ということは、花婿と花嫁が顔と顔を合わせてする行為です。花嫁がその熱い口づけを求めているのは、花婿の心と思いを知ろうとする熱意のためです。花嫁の唯一の希求は花婿を知ることなのです。しかし今、花嫁はぼんやりとしか見えていません。一部分しか知っていないのです(Ⅰコリント13:12)。しかしやがて花婿が来られて顔と顔を合わせる時には、すべてをはっきりと完全に見る(知る)ことができるのです。花婿に対する愛は神のことばの開示を求めることであり、それを切望することこそが花嫁の霊性です。また、「あの方が私に口づけしてくださったらよいのに」という花嫁は、「堅い食物を必要とする成熟した人」を象徴しています。乳ばかり飲んでいる幼子は、神とのより深いかかわりを意味する義の教えに通じていません。それを求めようともしないのです。とすれば、雅歌の冒頭にある花嫁の言葉の中に、神のみことばの開示を切に待ち望んでいる花嫁の姿が浮かび上がってくるのです。ここにある花嫁の霊性を持っている人こそ、「」(「フィロス」φίλος)と呼ぶのにふさわしいのです。しかし、ユダはその行為をしながら、主を裏切る行為をしたのです。

●日本の一万円札にある福沢諭吉、その福沢諭吉が語った「世の中で一番悲しいことは、うそをつく事です」という名言があるそうです。これは普通に親が子どもに教える最初の教育レベルですが、それが名言だとして挙げているのはこの世の中がうそに満ち満ちているからです。「うそをつく」のは、「いつわりの神」であるサタンの常套手段であり本性です。この世を支配しているのはサタンです。ですから、この世はうそだらけと言っても過言ではありません。サタンのうそに多くの人がだまされているのですが、そのうそに気づきません。イェシュアのことばを信じないユダヤ人たちに対して、イェシュアはこう言っています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書8章44節
あなたがたは、悪魔である父から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は、偽りを言うとき、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。

●世の終わりが近づくにつれて、サタンのうそはより力を増してくることを忘れてはなりません。そのサタンのうそを根底から打ち破るためにも、イェシュアは彼らに(サタンに)「引き渡され」なければならなかったのです。

3. 「剣を取るものは剣で滅びる」(50節後半~54節)

【新改訳2017】マタイの福音書26章50b~51節
50 ・・・・そのとき人々は近寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
51 すると、イエスと一緒にいた者たちの一人が、見よ、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした。

●50節と51節には(訳されたことばだと分かりませんが)、実は同じ語彙があります。50節の「手をかけて」と51節の「手を伸ばして」がそれです。ギリシア語ではそれぞれ別のことばが使われていますが、ヘブル語訳ではいずれも同じ「シャーラハ」(שָׁלַח)です。興味深いことに、この語彙の初出箇所は創世記3章22節です。

【新改訳2017】創世記 3章22節
神である【主】はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」

●●特に後半の部分、「今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう」という神の独白の部分です。原文では「人が自分の手を伸ばさないように、そしてまたいのちの木からも取らないように、そして食べないように、そして永遠に生きないようにしよう」となっています。つまり、人が勝手に「その手を伸ばさないように」(פֶּן־יִשְׁלַח יָדֹו)しようと神は考えて、それでエデンの園から追い出した(שָׁלַח)のです(23節)。赤で記したのが「シャーラハ」(שָׁלַח)です。それはなぜかというと、神が定めた方法で「いのちの木」に近づかせようとする神ご自身の計画があるからです。興味深いことは、イェシュアの受難の出来事のはじめに、二つの「シャーラハ」(שָׁלַח)という語彙があることです。「手をかけて捕らえ」ることも、また「手を伸ばして剣を抜」くことが否定されることも、いずれも神が定めた方法で「いのちの木」に近づかせるための神のご計画なのです。

●人々が近づいてイェシュアに「手をかけて捕らえた」のは、イェシュアがサタンの支配の中で弄(もてあそ)ばれることを意味しています。実はこれが神のみこころなのです。それに対して、イェシュアと一緒にいた者たちの一人が「手を伸ばして剣を抜いた」ことは、イェシュアに手をかけて捕らえたことに対するリベンジであり、神のみこころではありませんでした。「手をかける」ということ、「手を伸ばす」ということ、それはいずれもサタンがユダヤの宗教指導者たちを通して、自分の領域・勢力・テリトリーの中にイェシュアを取り込もうとする行為を意味します。一見、創世記で神がしようとした逆のことが起こったかのようですが、これが神の定めた方法であり、人がいのちの木に近づいてそれを食べるための神の隠されたご計画であったのです。

●人々が近づいてイェシュアに「手をかけて捕らえた」ことも、またイェシュアの弟子の一人が「手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに切りかかり、その耳を切り落とした」ことも、いずれも「肉」から来たにすぎません。それは「されたこと」に対する「報復行為」です。そうした人間的な報復行為に対して、イェシュアは52節のことばを語られました。

52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます
53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

●仕打ちに対する報復は互いに滅びをもたらすこと、暴力による革命は暴力的な体制(粛清)を生み出し、その新しい体制も新たな暴力的革命をもたらすようになることを教えたものです。人間による共産主義の歴史はその最たる例です。しかしイェシュアの語った「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」ということばは、単なる教訓的、格言的知恵ではなく、ユダヤ人に対する預言のことばであったと言えます。事実、A.D.70年のエルサレム陥落は、ユダヤ人がローマに対して「剣を取った」ために滅ぼされ、そのために彼らは世界離散し、流浪の民となったのです。イェシュアの預言がまさにそのときに実現したのです。

●なにゆえにイェシュアは「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」ということばを語ったのでしょうか。それはイェシュアの受難は神とサタンとの戦いであるからです。神の戦いは人間のような戦い方ではありません。「剣を取る」者は「肉の戦い」となり、サタンはそれを用いて互いを滅ぼすのです。ですからイェシュアは以下のように言っているのです。

53「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか。
54 しかし、それでは、こうならなければならないと書いてある聖書が、どのようにして成就するのでしょう。」

●「こうならなければならないと書いてある聖書」とは、ここでは特に記されてはいませんが、メシアが受難と死を受けるという預言であることはうなずけます。その箇所の一つとして、ゼカリヤ書13章7節、イザヤ書53章を挙げることができますが、ここでは前者を挙げたいと思います。

ベアハリート

●ゼカリヤ書13章では、メシアの初臨に起こる事と再臨に起こる事が7節と8節で隣り合わせにして語られています。ここでは、7節のメシアの初臨に起こる預言を見てみましょう。

【新改訳2017】ゼカリヤ書 13章7節
剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ──万軍の【主】のことば──。
羊飼いを打て。すると、羊の群れは散らされて行き、わたしは、この手を小さい者たちに向ける。

●ここにある「剣」は神の民を正しく指導しない指導者たちの象徴です。「わたしの羊飼いに向かい、わたしの仲間に向かえ」にある「わたしの羊飼い」とはメシアのことで、「わたしの仲間」も同義です。原文では「向ける」(立ち向かう)という動詞はありません。「剣よ、目覚めよ。わたしの羊飼いのうえに、わたしの仲間の上に」となっています。「わたしの仲間」と訳された原文は「ゲヴェル・アミーティ」(גֶּבֶר עֲמִיתִי)で「同僚」を意味します。口語訳は「わたしの次に立つ人」、新共同訳は「わたしの同僚であった男」、聖書協会共同訳は「私の仲間の男」と訳しています。神の最も身近な人、神と一体となっている人、神の分身とも言える存在といえばメシア・イェシュア以外にはいません。イェシュアも「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と宣言されました。

●驚くべきことに、ここで「万軍の主」がユダヤの指導者たちである「剣」に対して、「羊飼い」であるメシアを打ち殺すように命じているということです。これはやがてメシア・イェシュアが十字架の死によって死ぬことを預言したものです。ですから、もし彼が死ぬことがなかったとしたら、彼はメシアではなかったことになります。この預言は、御子イェシュアがユダヤ人の指導者たちによって十字架で死ぬことによって、人類の贖いのわざを成し遂げるというご計画が隠されて語られているのです。ですから、復活されたイェシュアが、失望してエマオに帰る二人の弟子たちに対して、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」(ルカ24:25~26)と述べています。その論証としてゼカリヤ書13章7節も含まれていたはずです。しかもその7節には、ユダヤ人の指導者とその民たちがメシアを拒絶し殺したことで世界に離散することも語られています。それが「わたしは、この手を小さい者たちに向ける」(聖書協会共同訳「私は怒りの手を小さな者に向ける」)という意味です。「小さい者たち」とはイスラエル人のことですが、9節には、試練の後に、「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは『これはわたしの民』と言い、彼らは『【主】は私の神』と言う」という回復(のこと)が語られているのです。

●いずれにしても、このようにイェシュアは神の御子として、聖書にあらかじめ預言されたように生きることで神のみこころを実現される方なのです。私たちは、この方がしてくださったことを土台として贖われた者として生きることです。具体的にはイェシュアの「受肉からいのちを与える御霊となられたまで」の贖いの一連の出来事を信じて生かされることです。しかもその信仰さえも神から来るのです。なぜなら、信仰は「いのちを与える御霊となられた」方が、私たちの霊のうちに働きかけてくださることによって働くからです。その意味では、Jesus is All なのです。

【新改訳2017】ヨハネの福音書6章28~29節
28 すると、彼らはイエスに言った。「神のわざ(複数)を行うためには、何をすべきでしょうか。」
29 イエスは答えられた。「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざ(単数)です。」

神のわざ(単数)とは、私たちのために一連の贖いをなしてくださったイェシュア・メシアを、私たちが「信じること」だけなのです。

2021.10.2
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