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教会における礼典(サクラメント)としての聖餐

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No.0 教会における礼典(サクラメント)としての聖餐

ベレーシート

  • 主の晩餐(聖餐)には深い意味が隠されて描写されているため、主の晩餐についての学びは魂を感動させる経験となります。イェシュアが主の晩餐を制定されたのは、昔ながらの過越の祭りの晩のことでした。これは最も高度なクリスチャンの礼拝表現なのです。 それは「イェシュアを覚える」ということばに集約されています。したがって、このことばにはイェシュアを通してなれる神の永遠のご計画、みこころ、みむね、目的のすべてがあります。神のご計画におけるイェシュアの十字架の死と復活を中心とした神の恵みの出来事を想起するのみならず、やがて主の来臨によって実現する神のご計画の全貌を含んだ御国を待ち望む瞑想の時、これが「主の晩餐」なのです。

1. 聖餐についての基本的な理解

  • 聖餐についての福音派の考え方は以下に述べられています。

●聖餐は、イエス・キリストのあがないのわざを示すパンとぶどう液(ぶどう酒)によって、私たちの罪のあがないの恵みを表わすものです。聖餐式はイエスさまが弟子たちと一緒に最後の過越の食事をなさったときに定められました(ルカ22:19)。過越の食事は、イスラエルの民がエジプトから解放されたことを記念するものでした。この過越の祭りに対して聖餐式は、新しい契約であると説明されています(ルカ22:20)。キリストを信じる者は、神との新しい契約に入れられますが、聖餐式はそのことを象徴的に表わしています。また聖餐式に使われるパンとぶどう液は、それぞれ十字架上で私たちの罪の身代わりとしてささげられたイエスさまのからだと、私たちの罪をおおうために流されたイエスさまの血を表わしています。聖餐式にあずかるとき、イエスさまの十字架のあがないのみわざを心のうちにしっかりと覚えるのです。そしてイエスさまの十字架のあがないによって、私たちの罪が赦されているのだということを確認するのです。また聖餐式に参加している兄弟姉妹とともに聖餐にあずかるとき、私たちは主にあって一つであることを体験するのです。

日本福音キリスト教会連合「クリスチャンハンドブック」より


札幌聖書キリスト教会 教会建築に表現された福音.JPG
  • 上記の事柄を、礼拝堂のデザインを通して現わそうとしているのが右の写真です。この写真は札幌聖書キリスト教会の礼拝堂です(HPより転載)。目に見える形を通して、教会の基礎がキリストの十字架の死と復活の出来事を表わす「聖餐」にあることが、見事に表現されています。普通、プロテスタント教会は説教が中心であると考え、説教壇が中心に置かれることが多いのですが、この教会では説教壇よりも聖餐台が中心に置かれています。そして、説教壇はその横にという位置づけです。また十字架と聖餐台を枠取りする縦の二本のポールはおそらくそのことをより強調しているようにも見えます。
  • 問題は、教会の土台である「聖餐」というサクラメント(秘儀)を、それにあずかる者たちがどのように理解するかにかかっています。サクラメント(秘儀、奥義)ですから、そこには言葉では十分に表わし切れない内容が含まれているのです。つまり「パンとぶどう酒」に象徴される事柄(主の現臨)は、言葉では十分に表わし切れないということです。しかしながら、それを敢えて言葉にして説明する必要があります。でなければ、それは単なる儀式と化してしまう懸念があるからです。

  • 日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団正教師である佐々木正明師は、聖餐式の基本的な意味について以下のように述べています。

1. 過越の祭りとの関係
●イスラエル人たちは奴隷の身分からの解放という歴史的事実を記憶し続けるために、わざわざ種を入れないパンを作って食べる祭りを毎年繰り返した。主は、その過ぎ越しの食事の場を選んで聖餐を制定されたことを通して、聖餐に過ぎ越しと同じ意義があることをお伝えになったと考えられる。小羊の血がイスラエルを救ったように、神の小羊イエスの血は、信じるすべての罪人を救うことになったのである。

2. 贖罪論的意味
●聖餐の最も重要な意義は、贖罪論的なものである。ぶどう酒は、キリストが罪人のためにお流しになった血潮を象徴し、パンは裂かれたキリストの肉体を意味する。聖餐における、「飲む」、「食べる」という行為は、信仰の象徴であり、信じるという内面の動きを、外面的行為をもって告白しているのである。

3. 教会論的意味
●同じ杯から飲むという行為は、同じキリストの血にあずかっているという霊的事実を象徴するものであり、同じ一つのパンから食べるという行為は、キリストを信じる者はすべて、同じキリストの体にあずかっているという、深遠な霊的事実を表現するものであり、さらにはキリストのみ体である、一つの教会に所属する者であるという、奥義を示すものだと教えている。

4. 宣教論的意味
●聖餐はまた、「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」ものである(Iコリント11:26)。これは、聖餐にあずかるたびに主を思い起こさせるという、教育的な機能を持った宣教論的意味と、さらに積極的に、聖餐の場に居合わせた未信者の人々にその意味を説明することによって起こる、伝道的な機能を持った宣教論的意味がある。

5. 終末論的意味
●聖餐は「主が来られるまで」主の死を告げ知らせるものである。ここに、聖餐の終末論的な意味がある。私たちは聖餐にあずかる毎に、「これは主が来られるまで」のことなのだと、主がおいでになるその時への期待を大きくする。このような期待を持つのは私たちだけではない。主ご自身が、大きな期待を持っていてくださるのである。


  • 「クリスチャンハンドブック」に見られるような福音派の「聖餐」の理解には、佐々木師のいう聖餐の終末論的意味がすっぽり抜け落ちています。聖餐式には、神のご計画における想起と展望がいつも明確にされる必要があります。特に、主の再臨(携挙と地上再臨)において、神が実現しようとされる神のご計画に対する期待(待望)はきわめて重要です。たとえどんなに土台がしっかりしていたとしても、その土台の上に建つ家がどんな家なのかが描けないような聖餐は、イェシュアが語り続けた「御国の福音」を正しく理解したことにはならないと考えるからです。それゆえ、聖餐の式においては、そのことが正当に扱われなければならないと考えます。

2. 聖書に記されている「聖餐」に関する箇所

  • 「聖餐」に関する聖書箇所は、以下のように、福音書と使徒パウロの書簡(Ⅰコリント書)の中にあります。

(1) 【新改訳改訂第3版】マタイの福音書26章26~29節
26 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
29 ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」


(2)【新改訳改訂第3版】マルコの福音書14章22~25節
22 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」
23 また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。
24 イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。
25 まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」


(3) 【新改訳改訂第3版】ルカの福音書22章14~22節
14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」
20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
21 しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。
22 人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」


(4) 【新改訳改訂第3版】ヨハネの福音書6章51~57節
51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。


(5) 【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント書10章16~17節、21節
16 私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。
17 パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。


(6) 【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント書11章23~29節
23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。
28 ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。
29 みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。

  • これらのテキストにおける「終末論的」意味を示唆するキーワードは、「主の食卓」と「主の晩餐」というフレーズ、および、「主が来られる」と「新しい契約」というフレーズです。

2016.10.12


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