新しいエルサレム神殿(6) いけにえ、例祭の回復
エゼキエル書の目次
43. 新しいエルサレム神殿(6) いけにえ、例祭の回復
【聖書箇所】 45章1節~46章24節
ベレーシート
- 40章から始まっている新しい神殿は、メシア王国、つまり千年王国において実現される「第四神殿」と考えられます。キリストの再臨を経て、神がイスラエルに約束されたことが実現するのです。その千年王国では、なんといっても中心はエルサレムの神殿が中心です。この地上のセンターとなる場であり、そこは最も聖なる場所で、異邦人の入ることのできない部分でもあります。
- 千年王国においては、旧約時代の踏み直しがなされ、祭司制度、いけにえ制度、主の例祭などが復活し、回復したイスラエルの全家(12部族)の土地の分割、その部族の長たちの土地、などが記されています。
- 「個人的な救い」の教えに育てられてきたキリスト者にとっては、理解しがたい箇所であり、異邦人クリスチャンにとって、イスラエルの家に対する神の民族的救いと回復、および全世界の支配国となるということは、つまずきとなるかもしれません。しかし主の計画がそうであるならば、何人もその計画とみこころにさからうことはできません。神の(主の)みこころとして受け入れ、信じるしかないのです。
1. 千年王国の舞台となるエルサレムの奉納地の区域
鷹取裕成著「エゼキエル書」より引用。
- 45章1~8節には、祭司、レビ人、および君主たちのための土地が取り上げられます。9節~17節にはイスラエルの君主の義務が記され、18~25節には主の例祭について記述されています。
- ここで気になるのは、「君主」の存在です。具体的な名前の記述がありません。44章では、すでに主の栄光が東門から入り、神殿は栄光で輝いています。この「東門は閉じたままにしておけ。だれもここからはいってはならない。イスラエルの神、主がここからはいられたからだ。」と命じられています(44:1~2)。そして次節に「ただ、君主だけが・・そこに(東門)すわることができる」とあります。この「君主」(単数)をイエス・キリストを指すと解釈する人もいます。しかし、王であり祭司な務めをしているこの「君主」は、よみがえったダビデだとも考えられます。その根拠は、ダビデは祭司的な王であったこと、またエゼキエル書34章23~24節に次のように記されていることです。
【新改訳改訂第3版】
23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
24 【主】であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。【主】であるわたしがこう告げる。
- エゼキエル書34章24節を文字通り受け取るならば、ダビデはメシア王国で君主として復活すると理解できます。そのように理解するならば、イスラエルの部族の長である「君主」の存在も理解できます。とすれば、その「君主」とはいったいだれなのでしょか。具体的な名前は記されていませんが、イエスが弟子たちの質問に答えて次のように言われたことばが気になります。
【新改訳改訂第3版】マタイの福音書19章28節
そこで、イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。(さばく=「支配する、治める」という意味のユダヤ的表現)
2. 礼拝の「踏み直し」
- これは仮説ですが、これまでのモーセの幕屋、ダビデの幕屋(仮庵)、ソロモンの神殿における礼拝の失敗が、千年王国時代において、踏み直されることが考えられます。ただし、ダビデが目指した音楽を用いた礼拝についての記述はエゼキエル書にはありませんが、詩篇の中には千年王国でなければ考えられないような礼拝風景が多くみられます。そこでは、喜びと賛美が満ち溢れています。たとえば、詩篇47篇がそうです。
新改訳改訂第3版
1 すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。
2 まことに、いと高き方【主】は、恐れられる方。全地の大いなる王。
3 国々の民を私たちのもとに、国民を私たちの足もとに従わせる。
4 主は、私たちのためにお選びになる。私たちの受け継ぐ地を。主の愛するヤコブの誉れを。
2013.7.24
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