****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それは誰

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

17. 旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。

【聖書箇所】 6章1〜10節

ベレーシート

  • 雅歌6章は「エルサレムの娘たち」(1節)、「花嫁」(2~3節)、「花婿」(4~10節)、「花嫁」(11~12節)、「エルサレムの娘たち」(13節前半)、「花婿」(13節後半)と語りの人称が次々と変わります。

1. 「私たちも、あなたといっしょに捜しましょう」(エルサレムの娘たち)

  • 5章9節で、エルサレムの娘たちが「あなたの愛する方は、ほかの愛人より何がすぐれているのですか」と尋ねたことに対して、10〜16節で、花嫁は花婿のすばらしさを語り、「これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。」と告白しました。それに対して、エルサレムの娘たちは「私たちも、あなたといっしょに捜しましょう。」(6:1)と応答します。花嫁の花婿に対するひたむきな愛がエルサレムの娘たちに大きな影響を与えたのです。
  • これはやがて終わりの時代に起こることの予表と言えます。イスラエル建国後、少しずつではありますが、イェシュアをメシアと信じる「メシアニック・ジュー」という人たちが起こされてきています。誕生当初の教会の構成員はユダヤ人だけでした。しかしエルサレムに起こった迫害によって教会の人々は各地に拡散し、次第に異邦人が教会に加わるようになってきました。教会(キリストの花嫁)は、メシアニック・ジューと異邦人の信者から成り立っている共同体なのです。しかし「エルサレムの娘たち」の多くはいまだイェシュアこそメシアであることを知りません。そのために花嫁は彼らのために祈る必要がありますが、何よりも、花婿に対する花嫁の燃えるような聖なる愛こそ必要なものです。

2. 花婿の居場所を知った花嫁

  • 6章2節で、花嫁は「私の愛する方は、自分の庭、香料の花壇へ下って行かれました。」と語っています。「庭」は「園」を意味する「ガン」(גַּן)という原語です。とすれば、やがてそれは花嫁と共に住むことになるパラダイスです。その園の中で花婿は自分の群れを飼い、ゆりの花を集めています。どうしてそのことを花嫁が知ったのかは記されていませんが、求める者にしか示されることのない幻を花嫁は見せられたのかもしれません。いまだ花婿を探し当ててはいないものの、花婿がどこにいるかがわかっただけでも花嫁にとっては大きな慰めなのです。
  • 花婿が自分の「庭の中で群れを飼い、ゆりの花を集める」とはどういうことでしょう。3節の後半でも花嫁は「あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。」と語っています。似たような表現が二度も記されているのは強調表現です。フランシスコ会訳は「庭の中で戯れ、ゆりの花を摘むために。」「あの方のゆりの花の間で戯れていらっしゃいます。」と訳しています。原語「ラーアー」(רָעָה)には、「群れを飼う」という意味と、「戯れる(=交わること)」という意味の二つがあります。新改訳は前者の意味で訳し、フランシスコ会訳は後者の意味で訳しています。が、ここはフランシスコ会の方が適訳のように思います。なぜなら、「ゆりの花」とは神に選ばれた者たちの象徴であり、その者たちと花婿が親しく交わっている情景を描いているように思えるからです。その幻を見た花嫁は安心したはずです。
  • 6章3節は2章16節と似ていますが、微妙に異なっています。

    【新改訳改訂第3版】雅歌 2章16節
    私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています(フランシスコ会訳「~の間でたわむれていらっしゃいます」)。

    【新改訳改訂第3版】雅歌 6章3節
    私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています(フランシスコ会訳「~の間でたわむれていらっしゃいます」)。

  • 微妙に異なっているのは、前半の部分が反対になっているということです。これはどういうことを意味するのでしょうか。雅歌の特徴である重複のフレーズはすべて強調表現ですが、前半の部分が反対になっているということは花婿と花嫁の親しいかかわりが常に柔軟性をもっているということだと思います。

3. 旗を掲げた軍勢のように恐ろしい

  • さて、6章4〜10節には花婿が花嫁の美しさをたたえるだけでなく、そのひたむきな愛が「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」と表現しています。このフレーズは4節と10節にありますが、二度も同じフレーズがあるのは、そのことを強調したいからです。今回はそのフレーズを中心にして、今日における花嫁のあり方を瞑想してみたいと思います。
  • このフレーズの最初(4節)は花婿が語っていることばですが、後(10節)は王妃たちとそばめたちが花嫁をたたえていることばの中にあります。

【新改訳改訂第3版】雅歌6章4節、10節
(花婿)
4 わが愛する者よ。あなたはティルツァのように美しく、エルサレムのように愛らしい。だが、旗を掲げた軍勢のように恐ろしい

(王妃たちとそばめたち)
10「暁の光のように見おろしている、月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの。それはだれか。」

  • 「旗を掲げた軍勢のように」(「カニドゥガーロート」כַּנִדְגָּלוֹת)を、岩波訳は「蜃気楼のように」と訳していますが、原語から見てもそのような訳には決してならないはずです。むしろ、際立っているのです。4節では、花嫁の美しさが「ティルツァ」(北イスラエルの主都サマリヤの前のバシャ王朝の主都)と「エルサレム」の美しさにたとえられていますが、10節では花嫁の美しさが「暁の光」と「月」と「太陽」にたとえられています。しかし、いずれの節にも後に「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」とあります。これはどういうことを意味しているのでしょうか。
  • 「ティルツァ」は王宮があった場所です(Ⅰ列王記14:17)。「エルサレム」は偉大な大王の都です。共通していることは、そこが天の聖所、神の御住まいの写しであるということです。本体は天のエルサレムです。天のエルサレムにおいてはすべてが美しく、そして輝いているのです。そこにおいて、やがて花嫁は最高に美しく輝くだけでなく、「栄光の勝利」を得ることが約束されているのです。
  • 軍勢が戦う時に必要なのは兵器ですが、それ以上に重要なものは旗です。戦いに負けるなら、旗は屈辱のうちに取り去られます。しかし、その旗が翻る時には勝利の栄光を表わします。花嫁はそんな存在であることをたたえています。花婿の前で美しく愛らしい花嫁は、天の都のように堅固でゆるぐことがない。そんな花嫁の存在を「恐ろしい」と表現しているのです。その「恐ろしさ」は、神の聖と密接に関連しています。もし花嫁がこの世に迎合し、世にこびるとすれば、神の聖を失い、同時に「恐ろしさ」も失うのです。このように、花嫁の霊性は「美しさ」と「恐ろしさ」を合わせ持つ存在でなければならないのです。
  • 旗を掲げた軍勢のように恐ろしいものそれはだれか。」ー花嫁しかいないのです。それは花婿を慕い、追い求める花嫁です。今日、そうした花嫁としての教会を建て上げる必要があるのです。キリストの花嫁である教会は、今日、自分に約束された将来を知らずに元の生活に戻ってしまったみじめなシンデレラのようです。シンデレラがお城の舞踏会で王子に見初められ、王子の側ではすでに結婚を決意しているように、教会もすでにキリストの花嫁として選ばれ、やがては花婿であるキリストとの親密な愛の交わりが確約されていることを、決して忘れてはならないのです。


2015.9.1


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