****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

明確に二分される神の民の祝福と滅び

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64. 明確に二分される神の民の祝福と滅び

【聖書箇所】65章1~25節

ベレーシート

  • イザヤ書65章は、63章の「主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。」(17節)の祈りや、64章の「主よ。これでも、あたなはじっとこらえ、黙って、私たちをこんなにも悩まされるのですか。」(12節)という祈りに対する答えとして、主ご自身が語られている章です。
  • ここには羊飼いが「羊と山羊」を分けるように(マタイ25:31~46)、神の民が明確に二分されることが記されています。二分されるだけでなく、その先の祝福の約束と報復(審判)も示されています。

1. 「わたしの名を呼び求めなかった国民」と「反逆の民」

【新改訳改訂第3版】イザヤ書65章1~2節

1 わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、
わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。
わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。
2 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、
一日中、わたしの手を差し伸べた。

  • 1節の「わたしに問わなかった者たち」、「わたしを捜さなかった者たち」、「わたしの名を呼び求めなかった国民」とはだれのことでしょうか。それは、異邦人です。それは2節にある「反逆の民」と対比させるためです。神の民であるイスラエルに主は絶えず手を差し伸べたにもかかわらず、彼らは自分の思いに従って良くない道を歩む者となってしまったからです。

(1) 「一日中、わたしの手を差し伸べた」にもかかわらず

  • 「一日中、わたしの手を差し伸べた」となんという神の恩寵でしょう。途切れることなく、絶えず、「手を差し伸べ続けられた」主。その主に対して、神の選びの民は「いつも、逆らい続けた」のです。
  • イスラエルの民が長い暗黒の歴史を歩まなければならなかったのは、イスラエルの民が主に対して反逆し続けたことがその理由でした。その結果、異邦人らに主の恵みが向けられるようになるという預言こそ、1節が示していることです。このような解釈は使徒パウロによるものです。そのことを見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】ロ―マ人への手紙10章20~21節
20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現した。」
21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」

  • 神が異邦人に恵みを向けたのは、頑なになって悔い改めを拒んでいるイスラエルの民の心に妬みを起こさせ、彼らを奮起させるためであったことが以下に記されています。

【新改訳改訂第3版】ロ―マ人への手紙11章11~12節

11 ・・・彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
12 もし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

(2) イスラエルの残りの者たち

  • 置換神学が言うように、神のマスタープランにおける神の選びの民イスラエルの役割が、教会時代の到来によって取り替えられたり、終わったりしたのでは決してないことを使徒パウロは語っています。ただしその役割を担うのは、「イスラエルの残りの者たち(レムナント)」です。なぜなら、「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを見れば、『それをそこなうな。その中に祝福があるから』と言うように、わたしも、わたしのしもべたちのために、その全部は滅ぼさない。」と主が言われるからです(8節以降)。
  • 主はご自身の少数のしもべたち(残りの者たち)を他のイスラエルの民たちとは区別して、やがて、主の山々やシャロン、アコルの谷に住まわせることによって彼らに報いるのです。しかし逆に、「主を捨てる者」は剣に渡され、虐殺されて倒れると預言されています。
  • 二分された者たちの運命が、以下のように対比されています(13~16節)。

    A. 「主を求めた者たち」。「わたしのしもべたち」(9節)、「わたしを求めたわたしの民」(10節)、「わたしの選んだ者」(22節)、「主に祝福された者のすえ」(23節)とも呼ばれます。彼らの祝福は、食べる、飲む、喜ぶ、心の楽しみによって喜び歌う。

    B. 「主を捨てる者」(11節)。「わたしの聖なる山を忘れる者」(同)、「ガドのために食卓を整える者」(同)、「メニのために、混ぜ合わせた酒を盛る者たち」(同)とも呼ばれます。彼らに対する報復(審判)は、飢える、渇く、恥を見る、心の痛みによって叫ぶ、たましいの傷によって泣きわめく、主によって殺される。


    ●ちなみに、「ガド」「メニ」はバビロンの幸運の神で、前者は男神、後者は女神です。


2. 「新しい天と新しい地」の創造

  • イザヤ書65章17節以降にはメシア王国の祝福が記されています。「新しい天と新しい地」の創造は、神のマスタープランの最終ステージです。その前に置かれている「メシア王国」(千年王国)はその最終ステージの本質をかなりの程度啓示しています。いわば、千年王国は「新しい天と新しい地」のひな型(プロット)なのです。ただ「メシア王国」(千年王国)では、朽ちるものと朽ちないものが混然としてしますが、「新しい天と新しい地」においては、完全に朽ちるものは朽ちないものに変えられていることです。
  • 神の最終ステージにおいて最も重要なのは「エルサレム」です。ですから、18節と19節に二度も強調されているのです。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書65章18~19節
18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。


  • 新しい「エルサレム」は、回復された「エデンの園」と同義です。そのことについては別の機会に取り扱いたいと思いますが、「エルサレム」は神のマスタープランを貫いている中心的概念です。神の歴史の中にはそれが金太郎飴のようにいつも顔を出しているのです。「エデンの園」の本質と「エルサレム」の本質は実は同じなのです。その本質は神と人とが共に住む「家」「幕屋」「神殿」「都」「王国」「神の国」「御国」といった概念でも表わされるために理解されにくいのです。しかし、表現が異なったとしても本質は同じです。神が人を創造されたときに与えられた「地を支配する」という「王的概念」と、「地を耕す」という神に仕える「祭司的概念」がひとたび罪によって失われますが、歴史の中で「エルサレム」を舞台として啓示され、やがて神の主権によって回復されるという壮大なドラマです。その中に私たちは招かれているのです。
  • 「御国の福音」は、聖書の最初から終わりまでの神のご計画(ヴィジョン、マスタープラン)と深く関係しています。ですから、俯瞰的な視点なしにはこの福音を理解できません。十字架による「神の恵みの福音」の深遠さと豊かさは、この「御国の福音」の理解と密接にかかわっていると言っても過言ではありません。一見、「堅い食物」のように思えますが、ひとたびそのことに目が開かれはじめるならば、決して「堅い食物」とは感じなくなるはずです。みことばと聖霊の助けによって、預言者たちとイェシュアが語った「御国の福音」を、使徒パウロのように余すところなく論証できるかどうか、そこにこれからのキリスト教会の「いのちの回復」がかかっていると信じます。


2014.12.9


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