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時のしるし(再考)とパン種

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69. 時のしるし(再考)とパン種

【聖書箇所】マタイの福音書16章1~12節

【新改訳2017】マタイの福音書16章1~12節
1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。
2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、
3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。
5 さて、向こう岸に渡ったとき、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまっていた。
6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」
7 すると彼らは「私たちがパンを持って来なかったからだ」と言って、自分たちの間で議論を始めた。
8 イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。
9 まだ分からないのですか。五つのパンを五千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
10 七つのパンを四千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか。
11 わたしが言ったのはパンのことではないと、どうして分からないのですか。パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい。」
12 そのとき彼らは、用心するようにとイエスが言われたのはパン種ではなく、パリサイ人たちやサドカイ人たちの教えであることを悟った。


ベレーシート

●前回の箇所では、パリサイ人たちやサドカイ人たちがイェシュアのもとに寄って来て、「天からのしるし」を見せてほしいと頼んだ時、イェシュアは彼らに対して問われました。「空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか」。そして、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられていません」と断言しています。場面は変わり、向こう岸に渡った時、弟子たちはパンを持って来るのを忘れてしまいました。イェシュアが弟子たちに「パリサイ人たちやサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい。」と言われたので、弟子たちは「パン種」ということばを「パン」のことだと誤解して(勘違いして)、自分たちの間で議論を始めたと記されています。「自分たちの間で」という意味は、それぞれの弟子たちが、イェシュアの言われた真意を確かめることなく、自分たちの思いや考えを言い争っていたことを示しています。このような、ちぐはぐな議論や対話は、イェシュアとイェシュアに出会う人々の間でしばしば起こっています。聖書を読むと一目瞭然に分かることですが、イェシュアが霊的な真理を語っているのに、それを聞いた人々が、それを言葉通り(=文字通り)の意味で理解しようとすることから、会話が成り立って行かないという話です。例えば、ヨハネの福音書3章で、ユダヤ人の指導者であるニコデモという人がイェシュアを訪ねて来たとき、イェシュアから「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません。」と語られたニコデモは、「新しく生まれる」という意味が分からずに、「どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」と、とんちんかんな応答をしています。4章でも、井戸の水を汲みに来たサマリヤの女に、イェシュアが「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」と話した時も、女は「ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言って、便利な水を求めています。このような話ばかりです。イェシュアが天の事柄、つまり霊的な話を語っているのに、人々はイェシュアのことばを霊としてではなく、肉(=人間)のことばとして聞いているからです。

1. 「時のしるしを見分けられない」ことと「パン種」は同義

●マタイの福音書16章1~4節の「時のしるしを見分けることができない」という話と、5~12節にある「パン種」という話は実はひとつに繋がっています。つまり、この二つの話は、同義的パラレリズムになっているのです。前回のメッセージでも「時のしるしを見分ける」ことの大切さを学びましたが、今回もこのことを再び、別の視点から考えてみたいと思います。「時のしるし(前兆、兆候)」というのは、神がすでにイスラエルの歴史的出来事によって啓示していることなのです。このような歴史観は聖書独自のもので、私たちもこの歴史観を身に着ける必要があります。イェシュア来臨当時のユダヤの社会では、そのことが全く教えられていませんでした。ですから、イェシュアは、「パリサイ人たちとサドカイ人たちのパン種に用心しなさい」と言われたのです。

●「パン種」のことをギリシア語では「ジュメー」(ζύμη)、ヘブル語は「セオール」(שְׂאוֹר)です。「セオール」の文字を見ると、人間を意味する「スィン」(שׂ)という文字に、「光」を意味する「オール」(אוֹר)という語彙が結びついています。つまり、パン種とは神にとっては邪悪なものなのです。ですから、神へのささげものは、「パン種の入らないパン」でなければなりませんでした。ちなみに、「パン種の入らないパン」のことを「マッツァー」(מַצָּה)と言い、「パン種の入ったパン」のことを「ハーメーツ」(חָמֵץ)と言います。その動詞も同じく「ハーメーツ」で、「発酵させる、すっぱくなる、腐敗する」ことを意味します。

●マタイの福音書16章での「パン種」とは「時のしるしを正しく教えていない教え」のことで、こうした教えを聖書は「悪い教え」としているのです。神の民として「時のしるし」について知ることはとても重要です。なぜなら、それは、神のご計画とみこころ、御旨と目的を知ることと密接に結びついているからです。しかも、それはすでに神の民の歴史的出来事の中に、また「モーセ五書」の中にそれを記念する主の例祭の中に啓示されているのです。それゆえ、当時の宗教指導者たちであるパリサイ人たちとサドカイ人たちに対して、イェシュアが「時のしるしを見分けることはできないのですか」と言ったことは、とても辛辣であったのです。

2. 時のしるしを見分けさせる「光る物」

●前回の礼拝メッセージで「最近、私は、創世記1章の中に『神の創造における時のしるし』を知ることの重要性が預言されていることを教えられています(1:14~19)」と書き記しました。これは今も私の頭を駆け巡っています。
神は創造の第四日に「光る物」(「マーオール」מָאוֹרの複数形「メオーロート」מְאֹרֹת)を天の大空に置かれましたが、その目的は何かというと、それは、「昼と夜とを分け」て、神のご計画を示す「時のしるしとする」ということです。

●イェシュアがパリサイ人たちとサドカイ人たちに対して、「時のしるしを見分けることはできないのですか」と問いかけたのには、実は深い意味があります。それは、彼らが共通に大切にしている「モーセ五書」にそのことが啓示されているからです。モーセ五書は「創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記」の五書からなっており、特に、創世記1章14節に「光る物」が造られ、それによって「定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ」と記されているからです。「定められた時々、日(複数)、年(複数)」は、すべて「時のしるし」で括(くく)ることができます。その「時のしるし」を説明するために、歴史的出来事である「過越と出エジプトの出来事」を取り上げてみたいと思います。特に、以下の太字の部分は注意すべき箇所です。

 【新改訳2017】出エジプト記12章1~20、50節
1 【主】はエジプトの地でモーセとアロンに言われた。(いまだなされていないことが、主によって語られています。)
2 「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ
3 イスラエルの全会衆に次のように告げよ。この月の十日に、それぞれが一族ごとに羊を、すなわち家ごとに羊を用意しなさい。
4 もしその家族が羊一匹の分より少ないのであれば、その人はすぐ隣の家の人と、人数に応じて取り分けなさい。一人ひとりが食べる分量に応じて、その羊を分けなければならない。
5 あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない。
6 あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り
7 その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない。
8 そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。
9 生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。
10 それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。
11 あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは【主】への過越のいけにえである。
12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人から家畜に至るまで、エジプトの地のすべての長子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下す。わたしは【主】である。
13 その血は、あなたがたがいる家の上で、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたのところを過ぎ越す。わたしがエジプトの地を打つとき、滅ぼす者のわざわいは、あなたがたには起こらない。
14 この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない
15 七日間種なしパンを食べなければならない。その最初の日に、あなたがたの家からパン種を取り除かなければならない。最初の日から七日目までの間に、種入りのパンを食べる者は、みなイスラエルから断ち切られるからである。
16 また最初の日に聖なる会合を開き、七日目にも聖なる会合を開く。この期間中は、いかなる仕事もしてはならない。ただし、皆が食べる必要のあるものだけは作ることができる。
17 あなたがたは種なしパンの祭りを守りなさい。それは、まさにこの日に、わたしがあなたがたの軍団をエジプトの地から導き出したからである。あなたがたは永遠の掟として代々にわたって、この日を守らなければならない。
18 最初の月の十四日の夕方から、その月の二十一日の夕方まで、種なしパンを食べる。
19 七日間はあなたがたの家にパン種があってはならない。すべてパン種の入ったものを食べる者は、寄留者でも、この国に生まれた者でも、イスラエルの会衆から断ち切られる。
20 あなたがたは、パン種の入ったものは、いっさい食べてはならない。どこでも、あなたがたが住む所では、種なしパンを食べなければならない。」

51 まさにこの日に()、【主】はイスラエルの子らを、軍団ごとにエジプトの地から導き出された
つまり、「15日に」、イスラエルの民は、エジプトの地から導き出されたのです。

●この箇所で最も注意してほしいのは、「過越」と「出エジプトという解放」の出来事の日時です。

(1) 神が「この月()をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ」としたこと。
第一の月は「アビブの月」(3~4月頃)と言われます。

(2) 10~14日の5日間、羊に傷や欠陥がないかをよく見守り、14日の夕方に()その羊を屠る。
イェシュアは十字架にかけられる5日前の日曜日にエルサレム入りして、金曜日の午後の夕方に死なれました。 つまり、過越の羊がほふられる時刻に、イェシュアも神の子羊として神の「定められた時」にほふられるのです

(3) 15日の真夜中、エジプトに神のさばきが行われ、エジプト中の初子が殺されます。そのとき、羊の血を家のかもいと門柱に塗ったイスラエルの家はさばきを過ぎ越されました。そして、その日(15日)のうちに、イスラエルの子らはラメセスからスコテに向かって旅立ちました。女、子どもを除いて、徒歩の壮年男子は約六十万人。さらに、入り混じって来た多くの異国人と、羊や牛などおびただしい数の家畜も、彼らとともに上った。

●14節で、主が「この日は、あなたがたにとって記念となる。あなたがたはその日を【主】への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟として、これを祝わなければならない。」と言われたように、イスラエルのすべての祭り(=主の例祭)は、神がイスラエルに対して創造的な救いのわざをなしてくださったという歴史的事実に基づいています。それを記念するのは、単に過去の出来事としてではなく、むしろ、神が「定められた時」に、再び、神が新しい創造的な救いをなさる時を見分けることができるためなのです。これがイェシュアの言われた「時のしるし」であり、「ヨナのしるし」もイェシュアの復活のことを指し示すしるしであることを語ったのです。それらはすでにイスラエルの歴史的出来事の中に啓示され、そして今、イェシュア自身によってその「定められた時」が成就されようとしているのです。そうしたことを聖書それ自体が語っているのに、パリサイ人やサドカイ人たちがそれを理解していないこと、そして彼らの教える教えを「パン種」だとして、彼らの教えにくれぐれも注意するように弟子たちを諭したのでした。

●聖書で意味する「時のしるし」とは、救いの歴史における神の「定められた時」を意味し、それは神の新たな創造があることを示しているのです。「定められた時々」と訳されたヘブル語は「モーアディーム」(מוֹעֲדִים)で、「一定の時、会合、例祭」を意味する「モーエード」(מוֹעֵד)の複数形です。それらは、神のご計画の実現の予型となっているのです。この「定められた時」を指し示すことが「光る物」(創世記1:14)の存在目的だとしたら、その「光る物」は、太陽や月、そして星々と言い換えられたとしても、それを示すのはイスラエル以外にはないのです。ですから、イスラエルという存在を無視して、神のご計画の時を示すものは他には皆無なのです。天体にある「光る物」、あるいは太陽と月、そして星々は、イスラエルを象徴していると言えます。それらは、常に、神のご計画を実現する媒体的存在なのです。しかもそれは、神の御子キリストであるイェシュアの栄光を示す媒体でもあるのです。そのことを預言的に啓示しているのが、ヨセフの見た夢です。

3. ヨセフの夢に啓示されているイェシュア

【新改訳2017】創世記37章5~11節
5 さて、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げた。すると彼らは、ますます彼を憎むようになった。
6 ヨセフは彼らに言った。「私が見たこの夢について聞いてください。
7 見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」
8 兄たちは彼に言った。「おまえが私たちを治める王になるというのか。私たちを支配するというのか。」彼らは、夢や彼のことばのことで、ますます彼を憎むようになった。
9 再びヨセフは別の夢を見て、それを兄たちに話した。彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。
10 ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」
11 兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。

●ヨセフは二つの夢を見ています。一つは「私たち(ヤコブの子どもたち)は畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだ」という夢です。もう一つの夢は「太陽と月と十一の星が私を伏し拝んだ」という夢です。二つの夢ですが、いずれも「私を拝んだ」という点で一致しています。ヨセフが見た夢によって、彼はますます兄弟たちから憎まれるようになります。イェシュアが長老たち、祭司長たち、律法学者たちから憎まれて多くの苦しみを受けたと同じように、ヨセフの生涯とイェシュアの生涯は驚くほどよく似ているのです。そしていずれも最後は、イスラエルの子らが憎んだヨセフによって、またユダヤ人が憎んだイェシュアによって救われるという構図になっています。つまり、ヨセフはイェシュアを啓示しているということです。このことを説明するまえに、ヨセフの夢で見落としてはならないのが、「太陽と月と十一の星」が意味するものです。

●それは、父ヤコブが解き明かしています。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか」という言葉に言い表されています。つまり、「太陽と月と十一の星」とは、イスラエルの全家を意味しているのです。創世記1章10節にある「乾いた所」が地におけるイスラエルの象徴であったように、14節の「光る物」も天におけるイスラエルの象徴と言えるのです。

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●なぜなら、天と地は、幕屋の構造で言うならば、聖所と大庭に相当します。聖所にある「燭台」の「ともしび」が、「光る物」を意味する「マーオール」(מָאוֹר)です(出25:6)。天は霊であり、地は肉です。イェシュアがニコデモに「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です」と言われたように、人は肉である地から、霊である天、すなわち聖所へと行かなくてはなりません。当時のパリサイ人たちとサドカイ人たちは、律法の文字(もんじ)にこだわり、天に属するものではなかったがゆえに、聖所にある燭台の灯火(ともしび)が示す「時のしるしを見分けられなかった」のです。

●「光る物」、すなわち、太陽や月、そして星々といった天体に象徴されるイスラエルは、神のご計画を実現するイェシュアの栄光を示す証言的媒体です。これが「光る物」(複数)の正体なのです

ベアハリート

●「時のしるしを見分けることができない」ということは、神のご計画を知らないということを意味します。そしてそれを含まない教えを「パン種」とイェシュアは言っているのです。それゆえに、ユダヤ人の宗教指導者たちを「わざわいだ」(マタイ23:13, 15, 16, 23, 25, 27, 29節)と七回も断罪しています。イェシュアの初臨の時のしるしはすでに実現しましたが、イェシュアの再臨はこれからのことです。世の終わりのしるしについて弟子たちはイェシュアに尋ねましたが、現代の私たちも「わざわいだ」と言われないように、以下の神の時のしるしを見分けられるようにならなければなりません。

【新改訳2017】ハバクク書2章3 節
この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。

●ここでの「定めの時」(「モーエード」מוֹעֵד)とは、神のご計画のマスタープランにおける最後の時、終わりの時についての啓示だということが明確にされています。イェシュアも以下のたとえでそのことを語っています。

【新改訳2017】マタイの福音書24章32~35節
32 いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかになって葉が出て来ると、夏が近いことが分かります。
33 同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。
34 まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません。
35 天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません。

●いちじの木の葉が出て(1948年のイスラエルの復興)、すでに夏が来ているのではないでしょうか。終わりの日の「定めの時」は秋です。

2020.1.19
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