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時のしるしを見分ける

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68. 時のしるしを見分ける

【聖書箇所】マタイの福音書16章1~4節

ベレーシート

●2020年新年礼拝の説教は、マタイ16章1~4節の「時のしるしを見分ける」という主題です。「時のしるし」という内容は、実は深く、かつ重すぎるためにテキストを短くしています。マタイの福音書には「しるし、前兆、合図」を意味する「セーメイロン」(σημεῖον)という語彙が13回出て来ます(新約全体では77回、ヘブル語では「オート」אוֹת)です。新約での「しるし」は、イェシュアがメシアであることの目に見える奇蹟、世の終わりに起こる前兆、そして、人に対する合図といった意味で使われています。この語彙が使われていない箇所でも、例えば、マタイの1章には「見よ、処女がみごもっている。そして、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。これはイザヤの預言ですが、もし、「処女がみごもって、男の子を産む」ことが起こったなら、それはメシアが誕生したという神からのサインだという意味なのです。つまり、「しるし」とは、神が私たち人間の目に見える形で示しているメッセージなのです。マタイの福音書は他の福音書よりも預言が成就したことを多く記していますが、それらも「時のしるし」と言えるのです。「時のしるし」は、神のご計画全体を知っていなければ、とても見分けることのできないものなのです。そして、今回のテーマは私たちクリスチャン一人一人にも問われていることなのです。

【新改訳2017】マタイの福音書16章1~4節
1 パリサイ人たちやサドカイ人たちが、イエスを試そうと近づいて来て、天からのしるしを見せてほしいと求めた。
2 イエスは彼らに答えられた。「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、
3 朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。
4 悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。


1. パリサイ人たちとサドカイ人たち

●ここに登場する「パリサイ人」と「サドカイ人」とは、本来、相対するグループです。それがここでは一緒になって、「イェシュアを試そうと近づいて来た」のです。この両者の組み合わせはマタイでは3回出て来ます(3章7節のバプテスマのヨハネの箇所と、そして今回の16章、および22章23節と34節)。彼らはいずれも当時の宗教指導者たちです。

●サドカイ人とはヘブル語の「ツァドク」(צָדוֹק)からきており、これはダビデ王に仕えた祭司の名前です(Ⅱサムエル8:17)。したがって、サドカイ人とはエルサレム神殿の祭司階級の人々を指します。レビ人(レビ族)の家系です。特に大祭司はアロンの家系しか就くことが許されませんでした。南ユダ王国はバビロンによりエルサレム神殿が破壊され、人々は捕囚の身とされましたが、捕囚から帰還した後はレビ族が霊的な指導権を握るようになります。祭司エズラはそのリーダーの一人です。彼らは当初トーラーライフスタイルを熱心に築こうとしたのですが、時代が経つとともに、彼らは保守的になり、儀式主義に陥りました。彼らはローマ帝国と妥協した道を選び、うまく世渡りをしていこうとする支配者的立場の人々だったのです。

●一方、パリサイ人たちはそのようなサドカイ人たちに反発した人々でした。パリサイとはヘブル語の「分ける」を意味する「パーラス」(פָּרַס)からきており、職業を持った一般の人々によって形成されていました。信仰を守るために、異邦の支配からの独立を求め、保守的な祭司たち(サドカイ派の人々)を非難し、自分たちはきよくあろうとしたいわば革新的な人々です。パリサイ派の中から、モーセの律法を学んだ教師、いわゆるラビと呼ばれる人々が現れて、さらに細かな「口伝律法」を定めて民衆を指導しました。自己保身を図るサドカイ人たちに対して、きよく生きようとしたパリサイ人たちは民衆から尊敬されましたが、イェシュアの登場によって彼らの偽善が暴き出されました。彼らは律法主義者で、おきてを文字通り忠実に守ろうと考え、また守ることができると思い、その結果、偽善に陥りました。なぜ彼らが偽善者と言われているのかと言えば、目に見えることにのみ体裁を整えようとしたからです。実際の行動と心は彼らにとって別物だったのです。目に見える行いだけで人を判断し、心の思いの罪は自分にも他者にも問わなかったのです。このことがイェシュアによって厳しく非難されています。

●彼らは、当時の人々を律法主義という闇の中に迷い込ませ、盲人が盲人を導いていることを知らずに、自分たちは見えている者だと考えていたのです。この律法主義の呪いは、創世記1章2節にあるように、「茫漠として何もなく」(「トーフー・ヴァー・ヴォーフー」תֹהוּ וָבֹהוּ)の霊的状況をもたらしたのです。この状況が地に満ちたまさに定められた時(「カイロス」καιρός)に、神は御子イェシュアをこの地に遣わされたのです。ですから、マタイ1章21節で、御使いがヨセフに「この方が、ご自分の民をその罪からお救いになるのです」(21節)と語りましたが、「ご自分の民をその罪からお救いになる」というその「罪」がいかなるものであったかを正しく理解しなければならないのです。それは出口のない、絶望的な状況をもたらしていました。出エジプトの時の「苦しみ」以上に、また出バビロンの時の「虚しさ」以上に、重い死のイメージがユダヤの民全体を覆っていたのです。もう人の力ではどうにもいかない、暗闇と死の状況だったのです。ところが、イェシュアの誕生は、「闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る」(マタイ4:16)のです。この「光」(「オール」אוֹר)は、「救い」(「イェーシャ」יֵשַׁע)と同義です。

●マタイ16章の後半は、「闇の中に住んでいた民に、死の陰の地に住んでいた者たちに」、神の偉大な光(=救い)がどのようにしてもらされるのかが語られています。それは旧約聖書の中に預言されているにもかかわらず、イェシュアの弟子たちも、また当時の宗教指導者たちも、誰一人として理解する者がいませんでした。それは、イェシュアが「エルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないこと」であったのです。このことがなければ、人々は神の偉大な光を見ることができず、救われることがないのです。これこそが福音書の後半のテーマです。その意味で、マタイ16章はとても重要な位置にあると言えます。 

2. 天からのしるし

●さて、サドカイ人たちは貴族階級、祭司階級からなる体制派のグループで、パリサイ人たちと共にイスラエルの支配階級を成していましたが、サドカイ人たちは以下の点においてパリサイ人たちと大きな違いがありました。それはサドカイ人たちが(1)死者の復活を否定していたこと。(2)モーセの五書(トーラー)の権威たけを認めていたこと。このような違いをもつパリサイ人たちとサドカイ人たちが、共にイェシュアを試そうと悪意をもって近づいて来たのです。「試そうと」は「試みる」(「ペイラゾー」πειράζω)の分詞で、サタンがイェシュアのところに「試みる」ために近づいた時と同じ語彙です。つまり、敵意と悪意をもって近づいて来たのです。普段生き方や考え方を異にしても、共通した敵が現われた時には協力するものです。

●イェシュアが果たして神から遣わされた者なのかどうかを試そうとして、イェシュアに「天からのしるし」を求めたのですが、それは信じようとしてではなく、むしろ信じない根拠を見つけ出すためでした。当時、自分はメシアだと公言する者が他にもいただけでなく、イェシュアがした奇蹟が、汚れた者に触れたり(マタイ8:3)、罪の赦しを宣言したり(同、9:2)、安息日を破る(12:10~12)といった律法違反を伴うものであったため、彼らはイェシュアの奇蹟をメシアのしるしとは見なさず、むしろ悪霊のわざとして見なしました。それだけに、イェシュアが本当に神から遣わされた者かどうか、いやむしろ神から遣わされた者ではないと分かる証拠となる「天からのしるし」を求めたのです。「しるし」はあくまでも人間の目にわかるものですが、本来は「しるし」は人間の目には見えない世界の事柄を示唆しています。ですから、信仰がないと見えない世界を理解することができないのです。どんなに彼らが「天からの」ということばを使ったとしても、たとえそれが「天からの」ものであっても認めることはできないのです。ですから、イェシュアは、すでに彼らが知っている預言者ヨナのしるし以外には、しるしはないと言ったのです。

3. 時のしるしを見分ける 

●「天からのしるし」について、イェシュアは彼らが目にしている天に関する「天候」について話を切り出し、空模様によって天気を予測するという「天のしるし」は理解するのに、神にかかわる「天のしるし」には全く理解がないことを告げています。

●「夕方になると、あなたがたは『夕焼けだから晴れる』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』と言います。」とあります。前半の『夕焼けだから晴れる』という部分は納得がいきますが、後半の部分の『朝焼けでどんよりしているから、今日は荒れ模様だ』というのはよく分かりません。いずれにしても、彼らが天気の予報もしていたことは事実のようです。しかしそのことを知っていながら、あなたがたは「時のしるしを知らずにいる」とイェシュアは言っています。天気予報の知識はこの世においてはきわめて重要です。しかし彼らは「時のしるしを見分けること」は知らずにいたのです。

●「時のしるし」とは、原文によれば、「時代の数々のしるし」のことです。つまり、霊的な特別な(特定の)「時」を示す「カイロス」(καιρός)の複数形の「カイローン」(καιρῶν)です。「しるし」も「セーメイオン」(σημεῖον)の複数形「セーメイア」(σημεῖα)となっています。これが見分けられないというのは、神のご計画を理解していないことを意味しています。こうした知識は聖書の中に記されているのです。それを正しく理解できないということは、指導者として、失格の烙印を押されたことに等しいのです。イスラエルの民に定められている数々の年ごとの例祭の中にも、また日ごとにささげられる幕屋(神殿)の礼拝とその器具一つひとつにも、また預言者たちが語った終末預言の中にも、すべて「時のしるし」が表わされているのです。

●最近、私は、創世記1章の中に「神の創造における時のしるし」を知ることの重要性が預言されていることを教えられています(1:14~19)。しかし、それらは「知恵と知識の御霊」の助けと信仰がなければ理解できないものです。この世の目に見える事柄は理解できても、神のご計画における霊的な「時のしるし」が理解できないというのは、指導者でありながら人々を導く霊的な知識がないことを意味しているのです。ですから、「空模様を見分けることを知っていながら、時のしるしを見分けることはできないのですか。」ということばは、実に辛辣なことばなのです。これはキリスト教会についても言えるかもしれません。

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●「時のしるし」とは、「神のご計画を啓示しているしるし」です。その中には「神の訪れの時」(初臨と再臨)も含んでいます。

【新改訳2017】ルカの福音書 19章41~44節
41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
44そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」

●これはイェシュアが都エルサレムのために泣いて語ったことばです。これは将来エルサレムが崩れ落ちる時のことを指して言っているのです。「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」とあります。「おまえ」とはユダヤの指導者たちのことで、「中にいるおまえの子どもたち」とはユダヤの民です。「彼ら」とはエルサレムを崩す異邦人(ローマ人)のことです。「時のしるしを知らない」ということが、どんなに悲惨な結果をもたらすかが分かります。

4. ヨナのしるし以外には与えられない

●「天からのしるしを見せてほしいと求めたパリサイ人たちやサドカイ人たち」に対して、4節でイェシュアは彼らの時代を「悪い、姦淫の時代」だと規定しています。なぜなら、「悪い、姦淫の時代はしるしを求め」るからです。これはマタイの12章39節にもあったことばですが、どういう意味でしょうか。「悪い、姦淫の時代」とは「ポネーロスロ」(πονηρός)で「モイカリス」(μοιχαλὶς)な時代という意味で、ヘブル語にすると「ラ」(רַע)と「メナーエーフ」(מְנָאֵף)となります。特に「メナーエーフ」(מְנָאֵף)の動詞「ナーアフ」(נָאַף)は「姦通する」という意味で、旧約の預言書に多く使われています。これは神に対するイスラエルの民の不誠実さを表わすヘブル的表現です。

●イェシュアの答えはいつものことですが、質問に対する直接の答えとはなっていません。そもそも話がかみ合わないのです。しかしイェシュアはその質問に潜んでいる、より重要な事柄に対して答えています。ですから、耳を傾けなければならないのです。「悪い、姦淫の時代」とはイェシュアの時代の、あるいはイェシュアの初臨から再臨までのイスラエルの状態を表していると考えられます。そして、「悪い、姦淫の時代」では、「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」と述べています。

●「ヨナのしるし」とは何でしょう。ヨナは神の命令に逆らったことで、海に投げ込まれ、大きな魚に呑まれてしまいました。それはヨナにとって暗闇、深淵そのものです。ヨナはその魚の腹の中に三日三晩いたのですが、神はヨナを魚の腹から陸地に吐き出させました。そしてヨナはニネベの人々に悔い改めのメッセージを伝えたのです。このヨナのしるしは、イェシュアの十字架の死と復活を指し示すしるしなのですが、これは当時のユダヤ人にはまだ示されていませんでした。しかしそのときは近づいていました。イェシュアは、自分の初臨から再臨まで、この「ヨナのしるし」、すなわち、イェシュアの十字架の死と復活以外には与えられていないと言ったのです。これこそが神の示す究極のしるしであることを予告して語ったのですが、イェシュアを信じようとしない者に、それは理解できないのです。この「しるし」が指し示す福音に心を開いて信じることがないならば、もはや救いはありません。パリサイ人たちやサドカイ人たちは、この「時のしるし」を見分けることができない代表的な人たちだということが明確になったことで、イェシュアは「彼らを残して去って行かれた」(4節)のです。

付記 「時のしるし」についてのサイトの紹介

●マタイの福音書の中で、今回、初めて「時のしるし」ということばに出会いました。これはとても深いことばです。このことに関して、Mission Emet(ミッション・エメット)が製作した「日本人の知らない聖書の真実」という、大変優れた動画をご紹介したいと思います。出典は神奈川県相模原市にある十字架福音キリスト教会(武藤和夫牧師)で、2018年10月からYou Tubeで「日本人の知らない聖書の真実」というタイトルで発信されています。よくまとまった内容で、聖書における神のご計画における「時のしるし」についてのメッセージが整理されています。内容的には、ある人にとっては堅い食物かもしれませんが、食べやすいようによく調理されています。聖書全体を把握する上でとても役立つ内容となっています。できれば、最初から聞くと良いでしょう。お勧めしたいと思います。

2020.1.5


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