****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

最後の晩餐における『キリストの最後の教え』の瞑想の視点


「はじめに」 私の瞑想の方法として

  • 瞑想の方法は人によってさまざまですが、カソリックの瞑想法の一つとして、ある聖書のことばを一字一句を正確に書き写して、そこから受ける全体のイメージを、一つの名詞、あるいは一つの動詞で表現するという「サダナ瞑想法」というのがあります。たとえば、「せせらぎ」(名詞)とか、「流れる」(動詞)といった感じでイメージ化する方法です。イメージ化されたことばにはその人のもっているすべての感性が集約されています。そのようにして神のことばを味わうわけです。ですから、カソリックの書籍にはとても味わいのある「詩的なことば」が多く見られるのはこうした瞑想の訓練の賜物といえるのかもしれません。神を味わうために、感性を豊かにする一つの瞑想法といえます。
  • ところで、今回の「四旬節の瞑想の旅」をするに当たって、私は自らに課していることがあります。それは、特にキーワードとなる聖書のことばを、常に原典であるギリシア語、あいるはヘブル語で調べてみるということです。これは私自身の瞑想の訓練として課すものです。神のみことばを説く者であるならば、それは当然のことだと言われる方もいるとは思いますが、私は長い間、そのことをせずにやってきました。しかし、神のことばの瞑想をし続けていくうちに、その「ことば」の理解において、聖書の意味していることばの意味が何かをできるだけ正しく把握したいという思いが日増しに強くなってきました。もしそうした努力を怠るなら、おのずと「神のことば」というものに対するイメージが自らの偏見と独断に偏って行くことに気づかされました。ですから、偏見と独断を土台した瞑想に陥らないために、また自らを戒める意味でも、「気になることば」は原語で調べ、その意味するところを、そしてその「ことば」と関連する箇所や思想とのつながりに、極力、目を留めて、立体的な理解ができるようになりたいと願っています。
  • 来年、私は還暦(60歳)を迎えますが、残された生涯をできる限りにおいてみことばを原語で味わい、そして瞑想する方向へと向けていきたいと思っています。そのためにはそれなりの準備が必要です(原語の基礎的な学び、学びのためのツールを揃えることなども含みます)が、50代最後の年をこれからの準備の時としたいと願っています。したがって、私の瞑想は一見ことばの注解書的なものに見えるかも知れません。しかしそれは神のみことばを瞑想するための私の土台作りの面も含んでいます。もし、こうしたことに同じく関心を寄せる信仰の仲間たちが、共同で取り組み、情報を交換して、共有することができるなら、神のことばへの関心はますます高まり、より深まっていくのではと考えています。


  • さて、今回の瞑想の聖書箇所は、イエスが十字架にかかられる前の晩、最後の晩餐の席での出来事からはじまります。ヨハネ福音書における「最後の晩餐」(13~17章)は、共観福音書のような食事そのものについての関心は一切ありません。足を洗うという象徴的な「行為」と、そのあとに続くイエスの長い「訣別説教」、そして、その説教を締めくくる「祈り」が含まれています。この部分はヨハネの福音書だけに見られるきわめて独自の箇所で、ヨハネ福音書を特徴づける言葉と主題を含んでいます。
  • ヨハネの福音書13~17章の箇所は、きわめて深遠な内容が盛り込まれているように感じます。その箇所を瞑想することは、まるで小さな舟が大海原に乗り出していくようなもので、少し勇気が必要です。あるいは、何が待ち受けているのかも分からずに無謀にも深い森の中に分け入っていく冒険のようなもので、緊張感があります。ともあれ、今回の40日間にわたる瞑想において、新しい発見、新たな気づきが多く与えられるように、ウキウキ、ワクワク、ドキドキしながら、神を知る喜びにあずかっていきたいと願っています。

2011.3.9


a:2951 t:1 y:7

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional