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権威を行使するイェシュア(1)「ツァラアト」

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27. 権威を行使するイェシュア(1)「ツァラアト」

【聖書箇所】マタイの福音書8章1~4節

ベレーシート

  • これまで24回にわたって「山上の説教」を学んできました。イェシュアが語る御国の憲章となる教えは、当時の律法学者たちやパリサイ派の人々が教える教えとは異なる解釈でした。イェシュアは彼らを偽善者とし、彼らの教えを「にせ預言者」の教えとし、彼らに「気をつけなさい」と諭しました。それを聞いていた群衆はイェシュアの教えに驚きました。というのは、イェシュアの教えが、権威ある者のように教えられたからです。この時代に当時の律法学者たちを越えて「権威あるメシアとしての教え」を語る者など一人もいなかったからです。果たしてイェシュアが権威ある者なのかどうか、単なる教えの権威だけでなく、実際にイェシュアが力を持った天の御国を統治支配するメシアなのかどうかを人々にデモンストレーションする必要があったと思われます。
  • ここでいう「権威」とは、メシア王国における王的支配の概念です。すでにイェシュアの教えを聞いた人々は、イェシュアのうちにメシア的権威があることを、驚きをもって感じ取っていました。その権威の行使が、力ある数々のわざ(奇蹟)の中に示されています。マタイの福音書には「五つの説教」がまとまった形で、イェシュアの公生涯の中にサンドイッチのように置かれていますが、同時に、イェシュアがメシアとして10の力あるわざ(奇蹟)を行なわれたことがまとまった形で配置されているのです。マタイの福音書8~9章がそれです。①ツァラアトのきよめ(8:2~4) ②百人隊長のしもべの中風のいやし(8:5~13) ③ペテロの姑の熱病のいやし(8:14~15) ④ガリラヤ湖の嵐の静止(8:23~27) ⑤悪霊に憑かれた二人の人の悪霊追放(8:28~34) ⑥中風の人のいやし(9:1~8) ⑦長血の女のいやし(9:20~22) ⑧会堂管理者の娘の生き返り(9:18~19/23~26) ⑨二人の盲人のいやし(9:27~31) ⑩悪霊に憑かれた人のいやし(9:32~34)。モーセもエジプトにおいて10の奇蹟を行ないました。イスラエルの預言者エリシャも10の奇蹟をしています。そしてイェシュアも10の奇蹟を行なっているのです。つまり、イェシュアがイスラエルの歴史を踏み直そうとしておられることを、マタイは数々の力あるわざの中から選んでいるように思われます。
  • 今回は、最初の「ツァラアトに冒された人のきよめ」(8:1~4)のみを取り上げたいと思います。マタイの福音書で「ツァラアトに冒された人」の話はこの箇所のみですが、なぜこの話が主のみわざの最初に置かれているのでしょうか。最初に置かれているということはそれなりの理由があると考えられます。そのような突っ込みをしながら、共に考えてみたいと思います。まずは聖書のテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書8章1~4節
1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。
2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。
3 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。
4 イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」


1. ツァラアトに冒されたひとりの人

(1) 山から降りて来られたイェシュア 

  • イェシュアが「山に登る」という行為は預言的であることをマタイ5章に入ったところで学びました。へブル語で「登る、上る」という動詞は「アーラー」(עָלָה)ですが、この動詞は単に「登る」という意味の他に、「(いけにえを)ささげる」とか、「反芻する」という意味があります。「反芻する」動物はきよい動物であり、全焼のいけにえや罪のいけにえとして祭壇にささげられる牛や羊です。つまりイェシュアが「山に登る」という行為は、やがて聖なる山エルサレムにおいて、ご自身が神にささげられるべき神の子羊であること、そしてイェシュアが御国の憲章によってメシア王国を治められることを預言的に象徴している行為と言えます。
  • 逆に、イェシュアが「山から降りて来られた」とは、イェシュアがこの世の罪の現実に悩んでいる者たちに寄り添いながら、天の御国がいかにすばらしい祝福をもたらすかを力ある権威によってデモンストレーションするためです。それは力の誇示というよりは、むしろ神のあわれみによるものでした。

(2) 「ツァラアト」(צָרַעַת)に冒された者の登場 

画像の説明
  • 「ツァラアトに冒された人のきよめ」の話は共観福音書に(マタイ・マルコ・ルカのいずれにも)取り上げられています。「いやし」と言わず「きよめ」としているのは、この「ツァラアト」(צָרַעַת)が他の病とは異なり、宗教的な汚れ(不浄)であるからです。モーセの姉がツァラアトに冒された時、皮膚が雪のようになったとあります(民数記12:10)。つまり、ツァラアトは人の目には白いカビのように見えるようです。それに冒された者は、神にも人にも近づくことができない「隔離されるべき者」とされたのです。簡単に言っていますが、これは大変なことで、病をいやされた人々とはその点が異なっているのです。この「ツァラアト」の判定に至っては、祭司たちによって入念に、かつ厳密になされました。ひとたび「ツァラアト」だと判定された人は、家族からも、親しい者たちからも隔離され、社会的に完全に疎外されるという境遇に置かれることを余儀なくされました。

(3) ツァラアトは神と人との交わりを疎外される「型」 

  • 人々との接触が一切許されないという心痛は計り知れません。それはツァラアトに冒された人しか知り得ない苦しみです。そもそも人間は関係性の存在です。ツァラアトに冒されて、汚れていると見なされれば、神との関係においても、人との関係においても隔離されるだけでなく、社会からも完全に疎外されてしまうのです。しかもモーセの律法によれば、彼らは人々に「自分は汚れている、汚れている」と叫んで、人々が自分に近づいて触れないようにしなければならなかったのです。これは神によって造られた人間が神との交わりを完全に断たれ、神に近づくことなどできない最も深い罪の「型」なのです。
  • 「ツァラアト」(צָרַעַת)のことを、以前の訳では「らい病」とされていました。日本ではこれを「ハンセン病」と誤解されてしまいました。聖書で言われている「らい病」と「ハンセン病」とは本来異なるものだということが分かって来て、今は「らい病」という訳ではなく、新改訳では原語のヘブル語の「ツァラアト」をそのまま使うようになりました。新共同訳は「重い皮膚病」と訳しています。ギリシア語では「レプラ」(λέπρα)と言いますが、ヘブル語の「ツァラアト」ではなく、ギリシア語の「レプラ」を用いる方もおられます。
  • 「ツァラアト」にしても、「レプラ」にしても、それに冒された人に実際会ったこともないと思います。ですから、イメージが湧かないという人がいるかもしれません。自分とは全く関係のない話だと思っている方も多いと思われます。なかには、「ツァラアトに冒された人はかわいそう」と同情する人もいるかもしれません。あるいは、自分はそれに冒されなかったのでありがたいと思っている方もいるかもしれません。ところが、「ツァラアトに冒された人」の存在はひとつの「型」なのです。どんな「型」なのかと言えば、自分が神の前に汚れた者であるということを自覚させられた人の「型」なのです。聖書によれば、すべての人は神の前に罪人です。罪の汚れのゆえに神に近づくことができません。ところが、それを明確に自覚する人としない人がいるのです。
  • イスラエルで「ツァラアトに冒された人」は多くいたようです。イェシュアはこんな話をしています。

【新改訳2017】ルカの福音書4章27節
「・・また、預言者エリシャのときには、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなく、シリア人ナアマンだけがきよめられました。」

  • イェシュアのこの話を会堂で聞いていたカペナウムの人たちは、このイェシュアの発言によってみな憤りに満たされ、立ち上がってイェシュアを町の外に追い出しただけでなく、丘の崖の縁まで連れて行き、そこから突き落とそうとしたのです。それは異邦人のナウマンだけがきよめられたという話を聞いて、そのことがユダヤ人にとっては受け入れ難い話だったからです。しかしその話は今横に置いて、預言者エリシャの時代、イスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいたという事実、しかもその中でだれひとりとしてきよめられる者がいなかったという事実です。つまりひとたびツァラアトに冒されたならば、生涯、神とも人々とも隔絶されて生きることを余儀なくされたのです。そこにツァラアトの恐ろしさがあります。
  • 聖書で最初にツァラアトに冒される経験をした人がいました。それはモーセです。神である主は、エジプトのパロのもとに遣わすモーセに、神が遣わされたことをイスラエルの人々にあかしする二つのしるしを見せました。ひとつは杖が蛇になるというしるし。もう一つは懐に入れた手を出すとツァラアトに冒されて雪のように白くなり、その手を再び懐に入れて出すと元に戻るというしるしでした。神は前者のしるしを信じなくても、後のしるしは信じるだろうとしています。というのは、ツァラアトに冒された手が元に戻るというようなことは、神にしかできない奇蹟だと考えられていたようです。イスラエルの民はこのしるし(複数)を見て、主がモーセに告げられたことばをみな信じたとあります(出4:30~31)。
  • 聖書において、「ツァラアトに冒された人」の存在は、自分の罪と汚れの深刻さを突き付けられた人、あるいは、それに気づかされた人の「型」です。聖書には自分の罪や汚れに気づかせられた人の例があります。その例としては、モーセの姉ミリアムとユダの王ウジヤがそうです。ミリアムはモーセのとりなしによってきよめられましたが、ウジヤ王はきよめられることはありませんでした。他には、

①ペテロの例
●イェシュアの弟子のペテロがそうです。ルカの5章でペテロは「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言っています。なぜ彼がそのような告白に導かれたかと言えば、自分が最も得意とする分野において、彼の鼻がおられたからです。イェシュアはペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われ、「おことばどおり、網を降ろしてみましょう。」と言ってそのとおりにすると、なんとたくさんの魚が網にかかり、網は破れそうになったのです。ペテロは言われるとおり従ってみましたが、本当はそんなことにはならないと高をくくっていたのです。ところが結果は大漁だったのです。そのあとに彼が発した言葉が、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」でした。ペテロがそのように自分の罪を正直に告白した時、イェシュアは「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言って、ペテロの罪(ツァラアト)をきよめたのです。そんな話がまずあって、ルカの福音書の場合、「全身ツァラアトに冒された人」の話が登場するのです(ルカ5:12~)。つまり、ペテロの罪の自覚と「全身ツァラアトに冒された人」の話が繋がっているのです。

②イザヤの例
●旧約では預言者イザヤがペテロと同じような経験をしています。イザヤは「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た」のでした(イザヤ6:1)。そのときイザヤはこう言ったのです。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから。」と(新改訳2017イザヤ6:5)。ここでイザヤも自分の汚れを自覚したのです。自分には何も良いところがなく、自分が語る唇が汚れていること、それゆえ自分はもう滅びるしかないと自覚させられたのです。この汚れの自覚の「型」が、「ツァラアトに冒された人」の存在が示していることなのです。この罪と汚れは自分が言わない限り、だれにも気づかれないかもしれません。しかし主はすべてをご存じです。しかし人には言えない自分の罪と汚れを自覚することは、祭司によってあなたは「ツァラアトに冒された人」だとはっきりと宣言されたようなものなのです。それは、いわば、神から直接示されたことを意味するのです。しかし自分の汚れ(ツァラアト)を認めた者は幸いです。イザヤの場合も、ペテロと同様、ただちにきよめられて、神からの使命を授けられたからです。

③ダビデの例
●詩篇51篇の背景にはバテ・シェバ事件がありました。ダビデはこう言っています。「まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも自分の目の前にあります。・・、ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私を身ごもりました。」(詩篇51:3, 5)。このように、「ツァラアトに冒された者」とは、神(イェシュア)によって、自分が罪深い者であること、汚れた者であること、それゆえ神に近づくことができないばかりか、滅びるばかりの者であることを気づかされた者、自覚させられた者の「型」だということです。逆に言うならば、ツァラアトに冒されなかった者たちは、自分が罪深い者であることに気づいていない者たちかもしれません。それゆえ、「ツァラアトに冒された者」がイェシュアのもとに来てきよめられるという話が、マタイにおいていやしのみわざの筆頭に置かれているのは決して偶然ではなく、必然的なことなのです。

(4) 「すると見よ」 

【新改訳2017】マタイの福音書8章1~2節
1 イエスが山から下りて来られると、大勢の群衆がイエスに従った。
2 すると見よ。ツァラアトに冒された人がみもとに来て、イエスに向かってひれ伏し、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言った。

  • イェシュアが山から下りて来られると、大勢の群衆がイェシュアに従いました。「すると見よ」(「カイ・イドゥー」καὶ ἰδού)と続きます。新改訳第二版ではそのように訳されておりませんでした。「見よ」ということばが訳されていなかったのです。しかしギリシア語の「イドゥー」(ἰδού )ではピンと来ません。ヘブル語の「ヒンネー」(הִנֵּה)の「見よ」ならピンと来るはずです。これはある重要な事柄や出来事を人々に喚起する間投詞ですが、事実、喚起されるべき出来事が起こったのです。ツァラアトに冒された人が叫びながらイェシュアのみもとに近づいて来たのです。おそらく、この時、水の上に油が浮いた皿に洗剤を数滴入れると油が一瞬にして外側に寄ってしまうように、群衆は彼から身を引いたと想像してみてください。なぜなら、律法によれば、ツァラアトに冒された人は必ず自分が「汚れている」ことを周囲に知らせなければならなかったからです。そのことがレビ記13章に記されています。

【新改訳2017】レビ記13章45節
患部があるツァラアトに冒された者は自分の衣服を引き裂き、髪の毛を乱し、口ひげをおおって、『汚れている、汚れている』と叫ぶ。

  • ここでツァラアトに冒された者が、なぜ「汚れている、汚れている」と叫ばなければならなかったのでしょう。それはツァラアトが道徳的な罪ではなく、神や人々に接触することが許されない宗教的な汚れ(=儀式的な汚れ)であるとされていたからです。イェシュアのもとに「ツァラアトに冒された人」が、(私は)『汚れている、汚れている』と叫びながらイェシュアに向かって、しかも、しきりに「ひれ伏しながら」近づいて来たのです(「ひれ伏す」の原文は未完了形で、しきりに繰り返される行為を意味します)。このとき、おそらくイェシュアの後に従って来た群衆は感染することを恐れて、みな彼から身を引いたと思われます。身を引くことをしなかったのはただひとりイェシュアだけでした。そんなイェシュアに向かって、彼は「主よ。お心一つで私をきよくすることがおできになります。」と言ったのです。「きよくしてください」ではなく、「主よ。(あなたの)お心ひとつで私をきよくすることがおできになります」と言ったのです。ギリシア語原文では「もし、あなたが意思を働かせてくださるなら、私をきよくすることができます」という意味です。「お心一つで」と訳された原語はギリシア語の「セロー」(θέλω)ですが、その動詞を受けてイェシュアは3節で同じ動詞を用いて、「わたしの心だ」と応答しています。その部分をいろいろな聖書で比較してみましょう。

(5) 「わたしの心だ」とは

【新改訳2017】「わたしの心だ。きよくなれ」
【新共同訳】 「よろしい。清くなれ」
【口語訳】 「そうしてあげよう、きよくなれ」
【回復訳】 「わたしは良しとする。きよくなりなさい。」
【新和訳】 「そうなれ! 浄くされよ!」

  • 「セロー」(θέλω)をヘブル語にすると「ハーフェーツ・アーノーヒー」 (חָפֵץ אָנֹכִי)となります。
    あるいは「ローツェ・アニー」(רוֹצֶה אֲנִי)となります。前者の動詞の「ハーフェーツ」(חָפֵץ)は「欲する、気に入る、愛する、喜ぶ、好む」という意味があり、その名詞の「ヘーフェツ」(חֵפֶץ)は、人が神に何かを願って求めることに対して、神が喜んで良いものを惜しみなく与えようとする愛です。そもそも天の父はその子どもたちに良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。人が自分の欲望や私利私欲のために求めるものに対してではなく、神のみこころにかなって願い、求めることに対しては、神は黙っておられない方なのです。与えることを何よりも喜びとされる神、この神の惜しみなく与えようとする愛こそ「ヘーフェツの愛」です。
  • 後者の「ローツェ・アニー」(רוֹצֶה אֲנִי)の「ローツェ」(רוֹצֶה)は、「喜ぶ、愛する、喜んで受け入れる、償いをする」を意味する動詞「ラーツァー」(רָצָה)の分詞で、その名詞は「恵み、好意、願い、受容」を意味する「ラーツォーン」(רָצוֹן)です。したがって「ローツェ・アニー」のニュアンスは「わたしの喜びとするところだ」です。「ハーフェーツ・アーノーヒー」 (חָפֵץ אָנֹכִי)にしても、「ローツェ・アニー」(רוֹצֶה אֲנִי)にしても、イェシュアの惜しみなく与えようとする愛と喜びが含まれた表現なのです。それゆえに、イェシュアはツァラアトの汚れを自ら引き受けられる方なのです。

(6) 手を伸ばして彼にさわり

  • おそらく「ツァラアトに冒された」彼は、イェシュアこそ自分をきよめることのできる権威をもったメシアだと確信して近づいたのではないかと思います。それは神が喜ばれる大胆な信仰だと言えます。そんな彼に対して、イェシュアは手を伸ばして彼にさわり(手を置き)、「わたしの心だ。きよくなれ。」と命じました。ここで驚くべきことは、イェシュアが「手を伸ばして彼にさわった」ということです。旧約聖書にもツァラアトに冒された人々がいました。しかしその人に直接近づいて「さわった」という人は誰一人としていません。エリシャも「アラムの王の軍の長ナアマン」に対して、使いの者を通して、「ヨルダン川へ行って七回あなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだは元どおりになって、きよくなります。」(Ⅱ列王記5:10)と言っただけでした。それを聞かされたナアマンは激怒して去り、そして言いました。「何ということだ。私は、彼がきっと出て来て立ち、彼の神、【主】の名を呼んで、この患部の上で手を動かし、ツァラアトに冒されたこの者を治してくれると思っていた。」のです。預言者エリシャが語ったことは、きわめて預言的でした。「なにゆえにヨルダン川なのか」とナアマンは思ったことでしょう。またなぜ七度身を洗わなければならないのか」とも思ったことでしょうか。これらの一つ一つがイェシュア・メシアを指し示す預言的行為だったのです。
  • ちなみに、ヨルダン川の「ヨルダン」とは「降りる、下る」を意味する「ヤーラド」(יָרַד)が語源です。つまり、「天から下って来られるイェシュア」を指し示しているのです。そこに行って「身を洗う」のはその方によってのみ「ツァラアト」がきよめられるからです。七度とは、完全にきよめられるために神が設けられた期間(七日間)です(レビ13章)。エリシャがナアマンに指示したことは、後に登場する御子イェシュアをあかしする預言的行為だったと言えます。エリシャの場合はただナアマンに命じただけですが、イェシュアの場合には「ツァラアトに冒された人」に直接に触れています。これはイェシュアがその汚れをご自身の身に負ってくださることの予表的行為と考えられます(イザヤ53:4)。ただ、そのことが実際に示されたのは十字架の出来事です。その出来事の中心にある神のあわれみをイェシュアは「わたしの心―喜びー愛」と表現されたのです。

(7) 「すると、すぐに」

  • 彼のツァラアトはすぐに、一瞬にして「きよめられました(アオリスト)」。「ツァラアトがきよめられた」ということは、やがてキリストが再臨して地上にメシア王国が実現する時には、たとえどんなに汚れた者であったとしても、神のあわれみによって一瞬にしてきよめられることを示唆していますが、現在においても、そのことが起こっているのです。誰にも言えない罪と汚れの象徴としての「ツァラアト」が、すでにイェシュアの十字架の死によって消え失せて、きよめられているからです。
  • ユダにウジヤという王がいました。彼は有能な王でしたが、晩年、神殿の中で「香をたく」という罪を犯しました。これは祭司たちにのみ許されている務めで、たとえ王であったとしてもしてはいけない越権行為でした。禁じられていた祭司の務めをしたことによって、彼はツァラアトにされてしまいました。そしてどうなったのでしょう。

【新改訳2017】Ⅱ歴代誌26章21節
ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔離された家に住んだ。彼が【主】の宮から断たれたからである。その子ヨタムが王宮を管理し、民衆をさばいた。

  • ●モーセの姉ミリアムはモーセのとりなしによって彼女のツァラアトがきよめられて宿営の中に戻ることができましたが、ウジヤのツァラアトは決してきよめられることがありませんでした。ウジヤの越権行為に彼の高ぶりが表されました。そのさばきとして彼はツァラアトに冒されました。「ウジヤ王は死ぬ日までツァラアトに冒され、ツァラアトに冒された者として隔離された家に住んだ。彼が【主】の宮から断たれたからである。」(Ⅱ歴代誌26:21)とあります。ウジヤは永遠に隔離された家に住む者の「型」です。それは、彼が悔い改めることをしなかったからです。それゆえに、彼は永遠に交わりのない隔離された家に住んだと記されていますが、これは預言です。「ツァラアトに冒された者として隔離された家に住む」ことは、 (家)から断たれた「永遠の滅び」を象徴しているのです。

2. 完全な回復の手順を示す「ツァラアトに関する律法」

【新改訳2017】マタイの福音書8章4節
イエスは彼に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ行って自分を祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」

(1) メシアの秘密 

  • イェシュアは「ツァラアトに冒された者」がきよめられた後に、彼に「だれにも話さないように気をつけなさい」と言われました。イェシュアは繰り返し、力あるわざ(いやし)をした後に、そのわざにあずかった者たちに、自分のことを知らせないように「気をつけなさい」ときびしく戒めています。その箇所は、マタイの福音書だけでも4回。8章4節を始めとして、9章30節、12章16節、17章9節にあります。ただし、それは最終的に自分がメシアである決定的なあかしが立つときまでです。人々に誤ったメシア観を抱かせないためです。

(2) 自分を祭司に見せる 

  • イェシュアは「ツァラアト」がきよめられた者に対して、人々へのあかしのために、「行って、自分を祭司に見せなさい。」と命じています。それはモーセの律法に基づいた勧めです。きよめられたとしても、彼が再び社会に受け入れられるためには、それなりの手続きがありました。その手続きについてはレビ記14章に詳しく記されています。その手続きなしに再び彼が受け入れられることはないからです。

 【新改訳2017】レビ記14章4~9節
4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるように命じる。
5 祭司は、その小鳥のうちの一羽を、新鮮な水を入れた土の器の上で殺すように命じる。
6 そして、生きている小鳥を、杉の枝と緋色の撚り糸とヒソプとともに取り、それらをその生きている小鳥と一緒に、新鮮な水の上で殺された小鳥の血の中に浸す。
7 それを、ツァラアトからきよめられる者の上に七度かけ、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。
8 きよめられる者は自分の衣服を洗い、その毛をみな剃り落とし、水を浴びる。こうしてその人はきよくなる。その後で、宿営に入ることができる。しかし、七日間は自分の天幕の外にとどまる。
9 七日目になって、彼は髪の毛、口ひげ、眉毛など自分のすべての毛を剃り落とす。すべての毛を剃り落とし、自分の衣服を洗い、からだに水を浴びる。こうしてその人はきよくなる

  • この箇所には深遠なキリストの贖いが啓示されています。「二羽の生きているきよい小鳥」とはメシア・イェシュアを表す型であり、十字架の死と復活の型があります。詳しくはここで述べませんが、この箇所は深く研究する価値があります。
  • 不思議に思うのは、ツァラアトになっている患部が治って、レビ記14章に記されているきよめのための儀式を行った後、自分の宿営に戻れる人がどれほどいたのでしょうか。レビ記14章はツァラアトに冒された患部が治ることがあるという前提で記されています。実際のところ、どれほどの人がツァラアトの患部が治ったのでしょうか。エリシャの時代のイスラエルにはツァラアトに冒された人が多くいましたが、その中のだれもきよめられることはなかったとイェシュアは語りました。とすればツァラアトがきよめられて律法に記されていることが行なわれたという例は、旧約時代にはなかったのではないかと考えられます。
  • イェシュアは「行って、祭司に見せなさい。そして、人々への証しのために、モーセが命じたささげ物をしなさい。」と指示されました。普通では祭司が厳密に調べて「ツァラアト」であることを宣言した者の患部が消えることは考えられません。にもかかわらず、それが消えた時の規定が記されていることは実は不思議な事ではないでしょうか。レビ記14章にはメシア・イェシュアによるきよめが啓示されていたとしか言いようがありません。ダビデも詩篇51篇7節で「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私はきよくなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」と語っていますが、ここでの「ヒソプをもって」とは、おそらくレビ記14章の「ツァラアトのきよめ」のことを想起して語っていると思われます。

(3) モーセが命じたささげもの 

  • 最後に、レビ記14章には、祭司によるきよめの儀式に「七日間」、「七度」、「七日目」というように、「七」という数が多く見られます。そしてさらに「八日目に」という規定があります。23節以降に八日目の行為として規定されているささげものについて目を留めたいと思います。

【新改訳2017】レビ記14章10~14節
10 八日目に彼は、傷のない雄の子羊二匹と、傷のない一歳の雌の子羊一匹と、穀物のささげ物としての、油を混ぜた小麦粉十分の三エパと、油一ログを持って来る。
11 きよめを宣言する祭司は、これらのものとともに、きよめられる者を【主】の前、会見の天幕の入り口に立たせる。
12 祭司は雄の子羊一匹を取り、それを油一ログと一緒に献げて代償のささげ物とし、それを奉献物として【主】の前で揺り動かす。(※「代償のささげ物」=「罪過のためのいけにえ」)
13 その雄の子羊を、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物を屠る場所、すなわち聖なる所で屠る。罪のきよめのささげ物と同様に、代償のささげ物も祭司のものだからである。これは最も聖なるものである。
14 祭司は代償のささげ物の血を取り、それを、きよめられる者の右の耳たぶと右手の親指と右足の親指に塗る

  • 14節では血でしたが、15節以降には、油も同じようにしてきよめられる者の右の耳たぶ右手の親指右足の親指に塗るように指定されています。血はイェシュアの血潮であり、油はイェシュアの御霊、すなわち聖霊です。「右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指」は耳と手と足全体を表わしています。「右の耳」は「主の声を聞くため」の聖別であり、「右手の親指」は「主の働きをなすため」の聖別であり、「右足の親指」は「主に従って歩むため」の聖別の象徴です。「ツァラアトに冒された人がきよめられ」、それを祭司に見せるように言われたのは、彼の「右の耳たぶと、右手の親指と、右足の親指」が神にある新しい存在として、聖別された歩みをすることが求められていたからです。
  • 七日目までの儀式は、きよめられたことが確認され、主の宿営に戻ることができることを意味していました。しかし八日目があるのです。八日目は新しい週の初めであり、よみがえりの象徴です。つまり、死のからだを脱ぎ捨てることが重要なのです。あなたの耳は主の声を聞くために聖別されているでしょうか。あなたの親指は主の働きのために聖別されているでしょうか。あなたの足は主に従って歩むために聖別されているでしょうか。今日の「ツァラアト」のきよめの話は、単にイェシュアがメシアであることだけ理解すれば良いという話ではありません。確かに、イェシュアの再臨によって実現する御国ではすべての耳も手も足も完全にきよめられますが、それはすでに始まっているのです。
  • ですから最後に、以下のみことばをもって閉じたいと思います。

【新改訳2017】ローマ人への手紙 6章13節
また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。


2018.1.28


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