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権威を行使するイェシュア(2)「中風」

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28. 権威を行使するイェシュア(2)「中風」

【聖書箇所】マタイの福音書8章5~13節

ベレーシート

  • 御国の権威を行使するイェシュアの奇蹟を学び始めました。前回は、イェシュアが「ツァラアトに冒された人」に直接手で触れることによって即座に「きよめられる」という奇蹟でした。この奇蹟がなぜ最初 に置かれているのかということが重要です。そもそも、ツァラアトの汚れは、だれによってもきよめることができなかったからです。 「ツァラアトに冒された人」は、神のみならず、人とも社会とも隔絶されるという苦しみを余儀なくされました。しかしこれはあることを示そうとする「型」です。当時のイスラエル の民の状況はまさにツァラアトの状態だったのです。ただそれに気づかないでいるだけでした。前回でもお話ししたように、「ツァラアトに冒された人」は自分が神の前に汚れた者であるということを自覚させら れた者の「型」だということです。例えば、旧約では預言者イザヤがそうです。イザヤが神を見たとき自 分の唇が汚れていることを知り、「もうだめだ」と自覚しました。新約では漁師のペテロがそうです。大漁 の奇蹟を目の当たりにしたとき「主よ。私から離れてください。」と告白しました。しかし、イザヤもペテロも、すぐさまきよめられて(赦されて)、神の使命を担う者とされたのです。
  • マタイが「ツァラアトに冒された人」を最初に登場させているのは、指導者層も含めたイスラエルの民 に、自分たちがツァラアト状態にあることを自覚させるためであったと考えられます。と同時に、この汚れをきよめることのできる方は神の御子イェシュアしかいないことを知らせるためでもあります。さて、宣教の舞台は再びカペナウムに戻ります。すでにこのシリーズが始まった最初のメッセージで「カペナウ ム」についての霊的な意味についてお話ししたことがありますが、今回、改めてイェシュアがなにゆえにガリラヤでの宣教の拠点をカペナウムに定められたのか、という神の必然について考えてみたいと思い ます。

1. ガリラヤ伝道の拠点となった「カペナウム」

画像の説明
  • ヨルダン川においてバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたイェシュアは、御霊に導かれて荒野に上って行かれました。それは、そこで40日間、サタンの試みを受けるためでした。その後イェシュアは、 生まれ故郷であるナザレを去り、ガリラヤ湖の北に位置する「カペナウム」 に住まれたとあります(マタイ 4:13)。このことはイザヤが預言したことが成就するためだとマタイは記しています。異邦人の町と化したガリラヤ の湖のほとりの町「カペナウム」は、イェシュアのガリラヤ伝道の拠点となった町です。ちなみに、イェシュアの御国の福音の宣教の中心地は「ガ リラヤ」と「エルサレム」の二つです。前者は北イスラエル、後者は南ユ
    ダをそれぞれ代表しています。
  • 私は長い間、地名とか、名前とかに全く重きを置いてきませんでした。しかし聖書をヘブル的視点から 読みはじめるようになって、人の「名前」や「地名」の一つ一つにも、神のご計画における深いメッセー ジが隠されていることを次第に悟るようになりました。置換神学に浸っているうちはそのようなことはど うでも良かったのです。しかしこれからはそうはいきません。今日のテキストの冒頭にイェシュアが「カ ペナウムに入られると」(8:5)とあるのは、そこには神のメッセージが隠されているかもしれないと考えな ければならないのです。

(1) イザヤの預言の成就として

  • イェシュアはなぜ「カペナウム」をガリラヤ宣教の拠点としたのでしょうか。その必然性の第一は、イザヤの預言の成就ということがあります。

【新改訳2017】イザヤ書9章1~2節
1 しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
2 闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。

  • イザヤ書9章1節に「異邦の民のガリラヤ」とあります。この地域はかつてアッシリヤが侵入して来た 時、真っ先に滅んだ地域でした。アッシリヤの王ティグラテピレセルがガリラヤの地域をアッシリヤの属州としたため、そこに多くの異邦人が住むようになりました。ですからこの地域は特にエルサレムに住む ユダヤ人たちから蔑視されていました。神への不信仰のゆえに滅ぼされた北イスラエルの民を、神は滅ぼし尽すことなく、イェシュアによって彼らを回復しようとされたのです。つまり、罪のゆえに闇の中に置 かれた者たちに、神は大きな喜びをもたらしてくださろうとしていたのです。2 節にある「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」とあるように、必ずガリラヤに光である救い主が来られるとイザヤは預言しましたが、御子イェシュアが来たことでその預言は成就 されたかのように見えました(その当時)。しかし実際は、ガリラヤ宣教の拠点とされたカペナウムの人々 は、大きな光であるイェシュアを受け入れなかったのです。ヨハネも「すべての人を照らすそのまことの 光が、世に来ようとしていた。・・この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入 れなかった。」と記しているとおりです(ヨハネ1:9, 11)。

(2) ガリラヤの「カペナウム」は、神の戦略的な町であった

  • 新改訳は「カペナウム」と表記していますが、新共同訳は「カファルナウム」と表記しています。ギリシア語は「カファルナウーム」(Καφαρναοuμ)となっています。ヘブル語表記では「ケファル・ナフーム」(כְּפַר־נַחוּם)となり、「ナホムの村」(あるいは「慰めの村」)の意味だとされています。しかしそれだけでは、「カペナウム」という名前に隠されている神のメッセージは伝わって来ません。そこで、ヘブル語の語源からその意味を探ってみたいと思います。「カペナウム」は二つの語彙からなっている合成語です。一つは「ケファル」(כְּפַר)、もう一つは「ナフーム」(נַחוּם)です。いずれも名詞ですが、語源を掴むために、それらを動詞にしてみると、前者の「ケファル」は「カーファル」(כָּפַר)となり、後者の「ナフーム」は「ナーハム」(נָחַם)となります。

①「カーファル」(כָּפַר)の初出箇所は創世記6章14節で、そこはノアが主から箱舟を作るように指示された箇所です。ノアは箱舟の内と外の木に「タールを塗る」ように命じられます。この「塗る」という言葉が「カーファル」(כָּפַר)で、「タール」はその名詞「コーフェル」(כֹּפֶר)なのです。同じ語幹【כּפר】が動詞と名詞で使われています。箱舟の内と外の木に「タールを塗る」のは、箱舟に水が入ることを防ぐためです。確かに「カーファル」(כָּפַר)には「町、村」という意味がありますが、むしろその町に住む人々を滅びから救うために箱舟の内と外に「タールを塗る」という働きのために、神の戦略として、イェシュアはこの町をガリラヤ宣教の拠点とされたと言えます。

②もうひとつの「ナーハム」(נָחַם)の初出箇所は創世記5章29節で、「慰める、あわれむ」という意味を持っています。これはノアの名前の語源ともなっています。ヘブル語において「慰め」は「救い」と同義です。

  • このように解釈することで、イェシュアがなぜ「カペナウム」をガリラヤ宣教の拠点とされたのか、その町でなければならない神の必然性が見えて来るのです。神のさばきから救われるためにノアが神の指示に従って箱舟を作り、内と外にタールを塗って、洪水による神のさばきから免れたように、イェシュアも同じくその「踏み直し」をしようとしているのです。ガリラヤ周辺に住む人々を神のさばきから救い出して、本来、受けるべきであった神の民の祝福を回復させようとする神のあわれみによるご計画が、「カペナウム」という町の名前の中に隠されているのです。
  • ところが、ノアが当時の人々に神のさばきがあることを伝えたにもかかわらず、そのことを信じる人々がいなかったように、同じくカペナウムにおいてイェシュアの多くの不思議なわざ(いやしの奇蹟)と教えが語られたにもかかわらず、人々は悔い改めて神に立ち返ることをしませんでした。それゆえ「カペナウム」は、イェシュアから叱責され、以下のように断罪されてしまったのです。

【新改訳2017】マタイの福音書11章20~24節
20 それからイエスは、ご自分が力あるわざを数多く行った町々を責め始められた。彼らが悔い改めなかったからである。
21 「ああ、コラジン。ああ、ベツサイダ。おまえたちの間で行われた力あるわざが、ツロとシドンで行われていたら、彼らはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
(※「コラジン」、「ベツサイダ」はガリラヤの地域にある町の名前)
22 おまえたちに言う。さばきの日には、ツロとシドンのほうが、おまえたちよりもさばきに耐えやすいのだ。
23 カペナウム、おまえが天に上げられることがあるだろうか。よみにまで落とされるのだ。おまえのうちで行われた力あるわざがソドムで行われていたら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。
24 おまえたちに言う。さばきの日には、ソドムの地のほうが、おまえよりもさばきに耐えやすいのだ。」


2. 「権威」に対する正しい理解をもっていた百人隊長

  • さて、今回の「御国の権威を行使するメシア・イェシュア (2)」の内容について話を向けたいと思います。中風になった百人隊長のしもべのいやしです。「中風のいやし」の記事は共観福音書に数箇所あります。マタイ福音書でも8章と9章の二回。しかも9章の「中風のいやし」の記事は、マルコ福音書2章とルカ福音書5章に共通しています。共観福音書がこぞって扱っている「中風」という病気は、身体的な機能を麻痺させる脳の疾患です。中風になると、ある身体の部分(口、手、足)の機能が麻痺して、さまざまな行動において動きが制限されるだけでなく、それまでしていた仕事ができなくなり、生きる意欲がそがれてしまいます。また人の手を借りなければ生きていけなくなります。今回登場する百人隊長は、自分に仕えていたしもべのことを「中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と表現しています。「ひどく苦しんでいる」とは、単なる身体上のことだけでなく、精神的な苦しみも含まれていると考えられます。ひとたび中風になれば、それまでの自分の立場と働きを失いかねません。ですから、中風がいやされることは、生きる力を回復させられることにつながります。そこで百人隊長が自らイェシュアのもとを訪れたのだと考えられます。
  • しかし、「中風になった百人隊長のしもべのいやし」は単に「いやし」が主要点ではなく、むしろそれを「いやす」ことのできる「権威」に焦点が当てられているように思われます。つまり、異邦人である「百人隊長」が、イェシュアに与えられている権威について正しく理解していたことがきわめて重要な点なのです。まずはテキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書8章5~11節
5 イエスがカペナウムに入られると、一人の百人隊長がみもとに来て懇願し、
6 「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言った。
7 イエスは彼に「行って彼を治そう」と言われた。
8 しかし、百人隊長は答えた。「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。
9 と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」
10 イエスはこれを聞いて驚き、ついて来た人たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。
13 それからイエスは百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどそのとき、そのしもべは癒やされた。

  • この会話で興味深いことは、百人隊長がイェシュアのもとに来て、自分のしもべの病の状況を説明していることです。「いやしてください」とは一言も述べていません。前回のツァラアトに冒された人もそうでした。一言も「きよめてください」とは言っていないのです。ただ、「主よ、お心一つで私をきよくすることがおできになります」と言っただけです。百人隊長も「主よ、私のしもべが中風のために家で寝込んでいます。ひどく苦しんでいます」と言っただけです。それなのにイェシュアは、彼に「行って彼を治そう」と言われたのです。原文には「わたしは行って彼を治そう」となっています。つまり、「わたし」(ἐγώ)という言葉が強調されているのです。「わたしは行って」ということばの中に、イェシュアの強い意志が表明されています。ここにイェシュアのあわれみが発動されているのですが、このことは当時のユダヤ人の常識を根底から覆すものであったはずです。なぜなら百人隊長は異邦人であり、そのしもべも異邦人だと考えられるからです。百人隊長も「主よ、あなた様を私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」と言ってイェシュアの申し出を辞退していることは、当時の常識を知っていたようです。しかし彼は、「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます。」と嘆願しています。その理由を百人隊長は以下のように述べています。

【新改訳2017】マタイの福音書8章9節
と申しますのは、私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。

  • まず百人隊長は、自分も「権威の下にある者」であること。つまり命令を受ける立場にある身であることを表明し、さらに自分が命令する立場にあることも言っています。軍隊では、部下は上官に対する絶対的服従が求められます。これは古今東西変わりません。「権威」とは「高い立場に立つ者が行使する力」なのです。マタイではすでに「権威」ということばが「山上の説教」の最後に使われていました(マタイ7:29)。

【新改訳2017】マタイの福音書7章28~29節
28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
29 イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

  • イェシュアが「権威ある者として教えられた」ために、群衆はその教えに「驚いた」とあります。この「驚き」は尋常なものではありませんでした。腰を抜かすほどの驚き、人々を唖然とさせてしまったほどの驚きでした。イェシュアと律法学者たちの教えの違いとは何だったのでしょうか。イェシュアの教えの特徴は以下の通りです。

(1)「・・しかし、わたしはあなたがたに言います」という表現が6回も記されていること。(マタイ5:22, 28, 32, 34, 39, 44)

(2) これらの言葉の前には、昔の人々の解釈や言い伝えが記されています。それらは目に見える外側の行為における律法でした。しかも律法学者たちはただそれを解釈し、説明しているだけでした。
これに対して、イェシュアの教えは内側の心における律法について語られました。そのようなことは、当時の人々にとって前代未聞のことであったのです。長い間、律法の解釈と説明ばかりを聞かされてきた人々にとって、イェシュアがまさに権威ある者のように教えられたので、その教えに驚いてしまったのです。

(3) イェシュアに与えられている神の権威は、教えのみならず、目に見える奇蹟としても現されました。つまり、「命令する権威」「制御する権威」「審判する権威」「罪を赦す権威」として現されています。イェシュアの権威は敵であるサタンの権威を打ち壊す権威として、目に見える形で人々の病気をいやし、解放し、自由を与える力として証しされたのです。御国の福音はまさに神の権威による力の行使がなければ、「福音」(良きおとずれ)とはならないということです。当時の指導的な立場にあった人たちのイェシュアに対する決まり文句は、「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」(マタイ21:23)というものでした。

  • ローマ総督であったピラトもイェシュアに対してこう言いました。「私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか」と。それに対してイェシュアはこう言います。「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」(ヨハネ19:11)と。つまり、「権威」とは上(=神)から与えられるものだと言っているのです。
  • イェシュアに敵対する指導者たちは、神の権威ではなく、人間の権威、伝統の権威、それはすなわちサタンの権威と同じです。実は「神の権威」と「サタンの権威」は、天地創造の前から始まっていたのです。

3. イェシュアに与えられた神の権威

  • 私は今回のメッセージの準備のために、新約聖書に記されている「権威」について一つひとつ調べてみました。「権威」と訳されたギリシア語の「エクスーシア」(ἐξουσία)は、新約聖書で102回使われています。意味としては、「権威」だけでなく、「力」「特権」とも訳されます。

マタイ(10)、マルコ(10)、ルカ(16)、ヨハネ(8)、使徒(7)、ローマ(5)、Ⅰコリント(10)、Ⅱコリント(2)、エペソ(4)、コロサイ(4)、Ⅱテサロニケ(1)、テトス(1)、ヘブル(1)、Ⅰペテロ(1)、ユダ(1)、黙示録(21)。特に、ヨハネの黙示録には21回と、最も多くこの言葉が使われています。黙示録には「サタンの権威」に関するものが多いですが、そこでは「力と力」、つまり「神の権威」と神の敵である「サタンの権威」が激しくぶつかり合うことになるからです。

画像の説明

  • ギリシア語の「エクスーシア」(ἐξουσία)は「権威・力」を意味しますが、ヘブル語の「メムシャーラー」(מֶמְשָׁלָה)は、この語彙一つで「主権、統治、支配、王国、国土」を意味します。「メムシャーラー」の語幹は「マーシャル」(מָשַׁל)です。
  • 「御国の福音」とは、別の言葉で言い表すなら、「神と人とが共に住む永遠の家が、神の権威によって再建(回復)されるという良きおとずれ」です。「再建(回復)される」とは、本来、人間に与えられていた権威が神の敵によって喪失したために、再びそれが神の権威によって回復されることを意味します。御子イェシュアはその権威を御父から受けているのです。

(1) 神の権威とサタンの権威の相克 

  • 神の被造物で最高の知恵と美を備えられた大天使(「ルシファー」とも呼ばれている)が、なにゆえに神の敵となって「サタン」となったのでしょうか。霊的な存在として最高の地位にいた御使いが、なぜその地位を捨てて神に敵対するようになったのでしょうか。そのように駆り立てたのはいったい何だったのでしょうか。それは聖書には記されていません。しかし、それはおそらく神が人という新しい存在を造る計画を知ってしまったからかも知れません。そのことが彼を怒らせ、神の権威に従うことを拒絶して、自分自身の王国を造ろうとさせた唯一の原因ではないかと考えられます。いずれにしても、原因はどうであれ、最高の地位にいた御使いが神の敵であるサタンとなってしまったことは事実です。「神の権威」と神の敵となった「サタンの権威」との戦いは、天地創造の時からすでにはじまっていたのです。
  • 神の第二の地位に置かれた人間はすべての被造物の頂点に置かれただけでなく、すべての被造物を支配する権威をも与えられていました。その権威を与えられた人間に対して、サタンは狡猾にだましてその権威を合法的に奪ったのです。ですからイェシュアはこのサタンのことを「偽りの父」と呼んでいます(ヨハネ8:44)。実にすべての人間は、今やこのサタンの権威の支配の中にあるのです。
  • キリストの弟子となった使徒パウロが使徒となる前、だれの権威(ἐξουσία)の支配に服していたでしょうか。この世を支配する者たちの権威です。イェシュアに「何の権威によって、これらのことをしているのですか。だれがあなたにその権威を授けたのですか。」と言った指導者たちでした。

使9:14「彼はここでも、あなたの名を呼ぶ者たちをみな捕縛する権限(ἐξουσία)を、祭司長たちから与えられています。」
使26:10「そして、それをエルサレムで実行しました。祭司長たちから権限(ἐξουσία)を受けた私は、多くの聖徒たちを牢に閉じ込め、彼らが殺されるときには賛成の票を投じました。」
使26:12 「・・私は祭司長たちから権限(ἐξουσία)と委任を受けてダマスコへ向かいましたが」
使26:18 「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配(ἐξουσία)から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」

  • ここにはかつて祭司長、すなわちサタンの支配(権威)のもとに行動していたパウロ(その時は「サウロ」)が、天からの光によって目が開かれ、真の権威者であるメシア・イェシュアに従う者とされたのです。

(2) 神の権威を回復させた第二のアダム(イェシュア)

  • ●イェシュアは第二のアダムとなって死から復活したことによって、本来、人間に与えられているすべての被造物を支配する権威をサタンから取り戻して下さったのです。ですから今日においてもキリストにある者たちはその権威を行使することができます。しかもメシア王国においては、その権威を最大限に用いることができるのです。それは神の権威を与えられた復活のキリストから賜物として与えられるものです。私たちが神の子どもとしての特権(ἐξουσία)をもって生きるためには、その与え主であるキリストの権威についての正しい理解が必要です。御父は御子に、この世におけるありとあらゆる権威と力を与えただけでなく、すべての支配、権力、主権、王座の上に御子を置かれたのです。
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【新改訳2017】エペソ人への手紙1章20~22節
20 この大能の力(ἰσχύς)を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、
21 すべての支配(ἀρχή)、権威(ἐξουσία)、権力(δύναμις)、主権(κυριότης)の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。
22 また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。

  • このようにメシア・イェシュア(第二のアダム)に与えられた権威は、御父の右の座において今も働いているのです。

4. みことば信仰に立とう

  • 百人隊長がイェシュアに語った「ただ、おことばをください。そうすれば・・」という信仰は、権威の力を本当に知っているからです。これに対するイェシュアの驚きは以下のようでした。

【新改訳2017】マタイの福音書8章10節
「まことに、あなたがたに言います。わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」

  • 「わたしはイスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません。」というイェシュアの驚きは、「権威」に対する百人隊長の理解に対してでした。イェシュアが百人隊長に「行って彼を治そう」と言われたにもかかわらず、彼は「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒やされます」と言い、さらに、「私も権威の下にある者だからです。私自身の下にも兵士たちがいて、その一人に『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。また、しもべに『これをしろ』と言えば、そのようにします。」とその理由を語りました。これにイェシュアは驚かれたのです。この「驚かれた」と訳されたことばは「サウマゾー」(θαυμάζω)、群衆がイェシュアの教えに「(唖然として)驚いた」(「エクプレッソー」ἐκπλήσσωの未完了形受動態)とは異なります。イェシュアの「驚き」は、「イスラエルのうちのだれにも、これほどの信仰を見たことがありません」と「感嘆と賞賛に値する驚き」を意味しています。当時のユダヤ人のだれももっていなかった「イェシュアの権威に対する信仰」に対して、イェシュアが感心し称賛したことは、選民意識の強かったユダヤ人にとってはつまずきとなり、怒らせるのに十分だったのです。
  • 百人隊長の「おことば信仰」は、イェシュアに与えられている権威に対する信仰です。その信仰をイェシュアがご覧になったとき、すぐさま「しもべはいやされた」のです。この信仰を私たちも培う必要があります。つまり知識ではなく(正しい知識は必要です)、みことばの権威(力)を経験しなければなりません。その意味でも、どんなときでもイェシュアに対して、「主よ。おことばをください」と祈れる者になりましょう。

ベアハリート 「天の御国での食卓への招き」

  • 最後に、今日のテキストの最後の部分を読みたいと思います。イェシュアの以下のことばはどのように解釈されるべきでしょうか。

【新改訳2017】マタイの福音書8章11~12節
11 あなたがたに言いますが、多くの人が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと一緒に食卓に着きます。
12 しかし、御国の子らは外の暗闇に放り出されます。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

  • 11節の「多くの人」とはだれのことを言っているのでしょうか。おそらく、異邦人の百人隊長の信仰が賞賛されたことを契機に語られたことから、ここでの「多くの人」とは「異邦人」のことだと考えられます。天の御国の食卓とはメシア王国での祝宴のことです。しかしそこでは「御国の子ら」であるユダヤ人は、不信仰によって外の暗闇に(サタンの支配の中に)締め出される運命にあることを述べているのです。このことも当時のユダヤ人たちにとってはつまずきとなる衝撃的な言葉でした。なぜなら、当時のユダヤ人は異邦人と食卓を共にすることなど考えられなかったからです。天の御国における食卓に多くの異邦人が招かれ、同席するなどという考えは当時のユダヤ人には全くもって論外だったのです。このように、イェシュアの教えはまさにユダヤ人にとってスキャンダルな教えとして彼らに理解されたのです。それは彼らが、旧約にある神のご計画について無知であったからです。このことは今日の教会に属する者たちにも言えることではないでしょうか。イェシュアの教えは預言者イザヤと同じように、人々の心を頑なにするものでした。しかしその「頑なさ」は神のご計画における「奥義」でもあったのです。

2018.2.11


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