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権威を行使するイェシュア(3)「熱病」

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29. 権威を行使するイェシュア(3)「熱病」

【聖書箇所】マタイの福音書8章14~17節

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  • 御国の権威を行使するイェシュアの奇蹟を学び始めています。すでに、イェシュアが「ツァラアトに冒された人」に直接手で触れることによって、即座に「きよめられる」という奇蹟がなされています。また、異邦人である百人隊長の中風のしもべをことばをもって癒やしています。今回は、熱病で床に着いていたペテロの姑(しゅうとめ)をご覧になり、彼女の手に触れることで癒やされました。
  • イェシュアは数多くの奇蹟を行われましたが、しばしば奇蹟を懇願する人の信仰に強調点が置かれることがあります。しかしマタイはいやされた人にではなく、癒やし(不思議と奇蹟)を行われたイェシュアに焦点を当てています。このことはとても重要です。なぜなら、癒やしの奇蹟には神の権威があかしされているからです。つまり、イェシュアは預言されていたメシアであるという証しです。そのために、イェシュアは神から与えられた御国を支配する権威を行使されたということが、病の癒やしによって証しされているのです。四つの福音書には28の癒やしの記事がありますが、それはすべて神のあわれみ(お心)の現われです。
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  • 癒やしには身体的な癒やしと精神的(霊的)癒やしがありますが、身体的な癒やしは、右図のように10あります。病のそれぞれの記述には、御国におけるさまざまな特徴が見られます。今回は「ペテロの姑の熱病の癒やし」(マタイ8:14~15)からそのことを見ていきたいと思います。

1. ペテロの姑の癒やし

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  • 山上で御国の憲章を教えられたイェシュアは山から降りてきた後、「ツァラアトに冒された人」をきよめました。その後にイェシュアがカペナウムの町に入られると、そこに百人隊長がやってきて、自分のしもべが中風でひどく苦しんでいることを話したことで、しもべはいやされました。その後に、イェシュアはペテロの家に来られたのです。ペテロとその兄弟、およびピリポとその兄弟ヨハネもみな漁師でベツサイダ出身です。ちなみに、「ベツサイダ」(「ベート・ツァーイダー」)とは「漁獲の町」という意味です。なぜペテロの家がカペナウムにあったのでしょう。おそらくイェシュアと出会った後に、イェシュアの宣教の働きの拠点がカペナウムとされたために、そこに家を移したのかもしれません。いずれにしても、イェシュアはペテロの家を訪ねられたのです。ところが、その家ではペテロの姑が「熱病」にかかっていて、床に伏せっていたのです。まずは、テキストを読んでみましょう。

【新改訳2017】マタイの福音書8章14~15節
14 それからイエスはペテロの家に入り、彼の姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。
15 イエスは彼女の手に触れられた。すると熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。

  • この記事の並行箇所が、マルコの福音書1章29~31節とルカの福音書4章38~39節にあります。

【新改訳2017】マルコ1章29~31節
29 一行は会堂を出るとすぐに、シモンとアンデレの家に入った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30 シモンの姑が熱を出して横になっていたので、人々はさっそく、彼女のことをイエスに知らせた。
31 イエスはそばに近寄り、手を取って起こされた。すると熱がひいた。彼女は人々をもてなした。

【新改訳2017】ルカ4章38~39節
38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家に入られた。シモンの姑がひどい熱で苦しんでいたので、人々は彼女のことをイエスにお願いした。
39 イエスがその枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた。彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。

  • 記述が微妙に異なっています。マタイの特徴は、イェシュアとペテロの姑のかかわりに焦点を置こうとするために、それ以外の不必要な情報を一切記していません。きわめて簡潔です。ペテロの姑が「熱を出して寝込んでいる」のをイェシュアはご覧になりました。ルカは「その枕元に立って熱を叱りつけられると、熱がひいた」のに対し、マルコは「手を取って起こされた。すると熱がひいた」と記しています。マタイの場合は「手に触れられた。すると熱がひいた」とあります。癒やしのプロセスが微妙に異なっています。同じ出来事でも、見る人によって見方が異なるのは至極当然なことです。共通する部分としては、イェシュアによって彼女の熱がひいたこと(癒やされたこと)と、彼女がイェシュアをもてなしたこと(仕えるようになったこと)、このかかわりが重要なのです。それは御国における麗しいかかわりです。その麗しさに注目したいと思います。

(1) 直接、女性の手にふれられたイェシュア

  • 「熱を出して」と訳された「ピュレッソー」(πυρέσσω)は、高熱をもたらす病気です。例えば、肺炎は放置しておくなら、死に至ることもあり得る病です。イェシュアが高熱で苦しんでいる姑の手に触れた(さわった)だけで、熱は瞬時にひき、病はいやされました。現代の医療では触診というのは当たり前ですが、当時のユダヤ人の社会では男性が女性の手に直接触れたりすることはご法度でした。ところがイェシュアはそんなことは全く無視して、姑の手に触れて癒やしています。
  • 「手を触れる」「手でさわる」ことを、ギリシア語では「ハプトー」(ἅπτω)と言いますが、イェシュアは男性に対しても、女性に対しても「ハプトー・ミニストリー」をしています。例えば、ツァラアトに冒された人に対しても、女性であるぺテロの姑に対しても、さらには、二人の盲人に対して(マタイ9:29,20:34)も、「ハプトー」による癒やしは、神のあわれみとイェシュアの権威に基づくものです。イェシュアの方からさわらなくても、癒やしを求める者たちがイェシュアに近づいて、その衣に「ハプトー」するだけで、癒やしがもたらされています。近づいて「手でさわる」ということが、神のあわれみと権威の力が流れ出る通路となる象徴的行為となっているのです。

(2) 「癒やされた後で、起き上がった」

  • 新改訳は「彼女の手に触れられた」と訳していますが、彼女の「手をつかんだ」「手を握った」とも訳せます。「手をつかんだ、握った」のであれば、彼女はイェシュアの手につかまって「起き上がった」とイメージできます。文法的には、そこはアオリスト受動態となっています。マルコも同様に、「そばに近寄り、手を取って起こされた」と記しています(マルコ1:31)。この「起きる」と訳された(「エゲイロー」ἐγείρω)は、寝ていた者が起きるという意味だけでなく、死からの復活を意味する用語でもあるのです。ちなみに、ヘブル語では「アーマド」(עָמַד)、あるいは「クーム」(קוּם)です。

(3) 似た経験をした使徒パウロ 

  • ここで実際に「立つ」、あるいは「起き上がる」ということがどのような経験であるのかを、使徒パウロの回心と召命から検証してみたいと思います。使徒の働き9章、22章、26章にはパウロの回心の出来事が記されています。そこには「立ち上がる」ことについての語彙が多く出てきます。例えば、使徒の働き9章8節には次のように記されています。

【新改訳2017】使徒の働き9章1~8節
1 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅かして殺害しようと息巻き、大祭司のところに行って、
2 ダマスコの諸会堂宛ての手紙を求めた。それは、この道の者であれば男でも女でも見つけ出し、縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
3 ところが、サウロが道を進んでダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。
4 彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」
5 彼が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 立ち上がって(ἀνίστημιのアオリスト命令形)、町に入りなさい。そうすれば、あなたがしなければならないことが告げられる。」
7 同行していた人たちは、声は聞こえてもだれも見えないので、ものも言えずに立っていた。
8 サウロは地面から立ち上がった(ἐγείρωのアオリスト受動態)。しかし、 目を開けていたものの、何も見えなかった。それで人々は彼の手を引いて、ダマスコに連れて行った。

  • 6節の「立ち上がって」は「アニステーミ」(ἀνίστημι)のアオリスト命令形で、8節の「立ち上がった」が「エゲイロー」(ἐγείρω)のアオリスト受動態です。「アニステーミ」と「エゲイロー」、いずれも復活用語で、死んだ者がよみがえることに使われます。イェシュアもしばしば「わたしは殺されるが、三日目によみがえります」と語られました。その「よみがえります」が「エゲイロー」なのです。ちなみに、9章8節にある「サウロは地面から立ち上がった」が、なぜ「アオリスト受動態」なのかという問題です。本来、自分で起き上がるならば能動態で、人によって起こされるならば受動態と考えます。調べてみると、このなぞは「エゲイロー」(έγείρω)という動詞そのものがもっている性格のようで、この動詞は通常他動詞として「~を起こす、(死から)生き返らす」という意味で使われますが、ここではアオリスト受動態で「立ち上がった」という能動的な意味になるようです。

(4) 癒やしの恵みは、彼女をしてイェシュアをもてなした 

  • 話を元に戻しましょう。ペテロの姑は癒されたことで、すぐさまイェシュアをもてなし始めました。「もてなす」(接待すること)と訳された「ディアコネオー」(διακονέω)は「仕える、奉仕する」という意味ですが、この動詞が動作の開始を表す未完了形で使われています。ということは、ペテロの姑は熱病が癒された後、食卓のもてなしをしただけでなく、癒やされた時から生涯にわたってイェシュアに仕える者となっていったことを意味しているのです。つまり、献身の生涯が癒されたことを契機に始まったことを意味しているのです。しかも、マタイの場合はイェシュアを「もてなした」というふうに書かれています。マルコやルカの平行記事では「彼らをもてなした」となっていますが、マタイの場合には、「もてなし」がイェシュアとの個人的なかかわりとして記されているのです。このことが実は重要なのです。単に病気が治った、癒やしの恵みにあずかった、良かった、良かったというのではなく、その経験を通して、生涯、主に仕える者となっていったことが、実は真の癒やしの恵みの行き着くところなのです。
  • 「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」という言葉があります。苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう。 苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまうという意味ですが、ペテロの姑の場合はそうではなかったことをギリシア語の未完了形が表現しているのです。
  • 私たちが何かの病気になり、あるいは何かの大きな失敗をして、自分の人生はこれまでだと思ったときに、もし「自分の病気を癒やしてくださるなら、あるいはもし自分の失敗を赦しもう一度主の前に立ち上がらせてくださるなら、私の生涯をあなたのためにおささげします」と言って祈った人はいるでしょうか。そんな祈りをする者がいるなら、実に幸いです。少なくとも、使徒パウロや使徒ペテロはそのような経験をしたのではないかと思います。私もそのような祈りの経験をして、今このところに立っているのです。
  • 聖書における「癒やし」について、ギリシア語では以下の二つの用語が使われます。

①「イアオマイ」(ἰάομαι)・・新約で26回、マタイでは4回。8章では、8節の「癒やされます」と13節の「癒やされた」がそうです。他に、13章15節の「癒やす」、15章28節の「癒やされた」。

②「セラペウオー」(θεραπεύω)・・新約で43回。マタイでは16回。8章では、7節の「治そう」、16節の「癒やした」がそうです。

  • ちなみに、この二つのギリシア語をヘブル語にすると、いずれも「ラーファー」(רָפָא)となります。興味深いことに、百人隊長がしもべのためにイェシュアのもとに来て懇願した時、イェシュアは「行って彼を治そう」と言ったのに対して、百人隊長は「ただ、おことばを下さい。そうすれば私のしもべは癒されます」と言いました。イェシュアの「治す」は「セラペウオー」であったのに対して、百人隊長の「癒やされます」は「イアオマイ」なのです。そして、そのとおり癒やされ(「イアオマイ」)ました。また8章16節に、「夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。」とあります。この「癒やされた」は「セラペウオー」(θεραπεύω)です。しかし、「イアオマイ」(ἰάομαι)と「セラペウオー」(θεραπεύω)はいずれも「癒やす」「健康にする」という意味で使われており、その用法について際立った区別はないようです。
  • ただ百人隊長のしもべの「癒やし」の場合は単に病気がいやされていますが、熱病にかかって寝ていたペテロの姑の場合は熱が引いたことで癒やされただけで終わらず、起き上がって、彼女自らイェシュアに継続的に仕え始めるようになったことの違いがあります。聖書では「癒やし」と「救い」は同義です。単に病気が治ったという以上に、そこから生涯にわたって主に仕える者となることが、イェシュアの願っている「癒やし」「救い」なのではないかと考えられます。
  • イェシュアの公生涯の終わりには、エルサレムにおいて十字架につけられます。そこには、イェシュアに仕えるためにガリラヤからついてきた多くの女性がいます(マタイ27:55)。そこにはペテロの姑はおりません。おそらく年齢的にエルサレムに来ることはできなかったのかもしれません。しかし、七つの悪霊から解放されたマグダラのマリアをはじめとする多くの女性たちが、主に仕えるためにエルサレムに来ていたのです。

2. 肉体の癒やしは、主のあがないの恵みのうちにある

【新改訳2017】マタイの福音書8章16~17節
16 夕方になると、人々は悪霊につかれた人を、大勢みもとに連れて来た。イエスはことばをもって悪霊どもを追い出し、病気の人々をみな癒やされた。(「セラペウオー」θεραπεύω)
17 これは、預言者イザヤを通して語られたことが成就するためであった。「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」

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  • 身体的な病の癒やしの恵みは聖書のいたるところに見出すことできます。アブラハムの時代ではアビメレクの妻や家の者たちの不妊が癒やされ(「ラーファー」רָפָאの初出箇所)、モーセの時代にはツァラアトのミリヤムが癒やされ、ユダ王国ではヒゼキヤ王の腫物が癒やされています。また、エリシャの時代にはアラムの将軍ナウマンのツァラアトが癒やされています。エジプトから救い出されたイスラエルの民に対して、神は「ラーファーの神」であることが啓示されています。癒やしの恵みは贖いの恵みに内包されているのです。

【新改訳2017】出エジプト記15章26節
そして言われた。「もし、あなたの神、【主】の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは【主】、あなたを癒やす者だからである。」

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  • ●マタイは8章17節で、イェシュアの「癒やし」はイザヤの預言が成就したとして、「彼は私たちのわずらいを担い、私たちの病を負った。」と記しています。この引用箇所はイザヤ書53章4節です。以下にある「彼」とは、「苦難のしもべとしてのメシア」、すなわちイェシュア・ハマシアッハ(イエス・キリスト)のことです。今日においても、多くのユダヤ人はこの箇所がイェシュアについて預言していることを認めていません。いや、むしろこの箇所を読まないようです。つまり、解釈を避けているようです。ところが、初代教会の執事のひとり、ピリポはこのイザヤ書53章を用いて、エチオピアの宦官に伝道して、救いの決心へと導き、洗礼まで授けたのです(使徒8:26~40)。宦官が読んでいた箇所はイザヤ書53章7~8節でした。そこにある「彼」とはだれのことかと尋ねたことで、ピリポはその彼とは「イェシュア」のことだと答え、この聖句から始めて、イェシュアのことを語ったと聖書は記しています。

【新改訳2017】イザヤ書53章4~8節
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。

  • イザヤ書53章4~8節は「神の恵みの福音」の真髄が預言されている箇所であり、イェシュアの十字架による代償的苦難と死を予告している重要な箇所です。4節だけを注目してみると、そこにある動詞はみな分詞で使われていますが、すべて能動態の分詞です。

(1) 「彼は・・私たちの病を負い」・・・・「私たちの病を負った者
(2) 「彼は・・私たちの痛みを担った」・・「私たちの痛みを担った者

  • イザヤは罪を「病」(「ホリー」חֳלִי)としています。罪は病気なのです。罪は死をもたらす感染力の強い病であり、その病を癒やすことができるのは神のみです。「痛み」(「マフオーヴ」מַכְאוֹב)は、罪がもたらす様々な悲しみや心痛を意味します。「病」も「痛み」もいずれも複数形です。それらを主のしもべは、自ら「負い」「担った」と預言的完了形で表わされています。「負う」という動詞は「ナーサー」(נָשָׂא)で、本来は、上げる、持ち上げるという意味ですが、これが「罪を赦す」という意味にもなります。「担う」と訳された「サーヴァル」(סָבַל)は旧約で9回使われていますが、そのうち5回がイザヤ書です。46章4節では「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う」とあり、53章11節でも、主のしもべは「彼ら(多くの人)の咎を負う」とあります。いずれも神の恩寵を表しています。

3. 苦難のしもべ(メシア)による代償的贖罪(身代わりの死)

  • ここで重要なことは、主のしもべが「自ら主体的に」人々の病を負い、痛みを担って下さったことです。

【新改訳2017】イザヤ書53章5節前半
5 しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。

  • イザヤ書53章5節前半には、主のしもべの受ける苦難が決して「主のしもべ」自身ゆえのものではなく、あくまでも、「私たちの背きのために」、「私たちの咎のために」とあるように、代償的な(身代わりの)苦難であり、そのために主のしもべは「刺され」「砕かれた」のです。そのいずれもが受動的表現であることに注目しなければなりません。
  • ちなみに、イザヤ書53章5節の「背き」は「ペシァー」(פֶּשָׁע)で、神の律法の教えを破ることを意味します。「咎」は「アーヴォーン」(עָווֹן)で、本来は「ゆがむ」の意で「不義」とも訳されます。いずれも罪を表わす語彙で複数形です。ちなみに、単数形で表わされる罪の場合は「原罪」を表わし、「ハッター」(חַטָּא)が使われます。
  • 神への違反行為、歪んだ思いと行為の罪の結果、罪を犯した者ではなく、代わりの者がその罪のゆえに「刺され」「砕かれた」のです。これが代償的贖罪、すなわち、「身代わりの死」です。「刺され」「砕かれた」(いずれも受動態)という語彙は、この上なく残虐、かつ苦痛に満ちた死を示しています。
  • 使徒ペテロも同様に、イェシュアの主体的な受難を以下のように記しています。

【新改訳2017】Ⅰペテロの手紙2章22~25節
22 キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
24 キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
25 あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。

  • 「私たち」はひとりの例外もなく、「羊のようにさまよい」「おのおの、自分かってな道に向かって行った」と記されています。羊のようにさまようとは、さまよった羊は決して自分の力で戻ってくることができないことを意味し、また「さまよう」とは「自分勝手な道に向かって行く」ことであり、同じ運命にあることを示唆しています。
  • 再度、イザヤ書53章に戻ります。6節に「主」は「主のしもべ」に「すべての者の咎を彼に負わせた」とあります。つまり、すべての出来事の仕掛け人が「主」であることが明らかにされます。「主のしもべ」が自ら積極的に苦難を負うことも、また受難も、その背後には主(神)のご計画があります。「主は、・・すべての者の咎を彼に負わせた」のです。この「負わせる」という動詞は「パーガ」(פָּגַע)のヒフィル(使役)態ですが、本来は「会う、出会う、とりなしをする、着く、達する」という意味です。神のもとからさまよい出た者を、再び、神と出会わせるために、だれかがとりなし的な働きをすることを意味します。
  • いみじくも、この「パーガ」(פָּגַע)は、53章12節の最後にある「彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする」という訳で使われています。「罪を負う」の「負う」も「赦す」という意味。つまり人間の犯した罪を負うことで、その罪が赦されるためにとりなしをする「主のしもべ」に焦点が当てられているのです。
  • 神の側からすれば「負わせた」ということになりますが、しもべの側からすれば「負わせられた」ということになります。負わせる側も負わせられる側も、ともに多大な苦難を伴うのです。両者が愛と信頼で結ばれていなければ、このことは到底できることではありません。

4. 代償的贖罪(身代わりの死)がもたらしたもの

  • 神である主と「主のしもべ」、つまり、御父と御子のゆるぎない信頼が私たちにもたらしたものは何でしょうか。それが以下に述べる「平安」と「癒やし」なのです。

(1) 「平安」(「シャーローム」שָׁלוֹם)

  • 主のしもべによる身代わりの苦難と死がもたらすのは、第一に「平安」です。「平安」の原語は「シャーローム」(שָׁלוֹם)です。この語は神が人に与える祝福の総称です。神と人との間にある障害を取り除いた結果としてもたらされるものです。主との和解による結果としての祝福のすべてが、この一語で表わされています。

(2) 「癒やし」(「ラーファー」רָפָא) 

  • 主のしもべによる身代わりの苦難と死がもたらすのは、第二に「癒やし」です。「癒やし」の原語は「ラーファー」(רָפָא)です。罪が病であるならば、罪から解放されることは「癒やし」となります。「わたしは【主】、あなたを癒やす者」だと宣言される方が、御子イェシュアの十字架の苦難と死を通して実現してくださったのです。やがてキリストが再臨(空中再臨)されるときには、瞬時にして、新しいからだに変えられるため、究極的な癒やしがもたらされます。しかし今でも、この「癒やし」の恵みは豊かに私たちに注がれています。それゆえ、その恵みを求めないでいることはキリスト者である私たちにとっては、多大な損失です。感謝して、信仰をもって、「癒やし」の恵みを求め、それにあずかる者となりましょう。
  • 御子イェシュアの権威の行使による「癒やし」とその恵みについては、これからも繰り返して学ぶことになります。

2018.2.25


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