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歴史の中に貫かれた神の真実

【補完19】 歴史の中に貫かれた神の真実


【聖書箇所】申命記 32章1~43節

ベレーシート

32章の「モーセの歌」の全体の構成

(1) 1~4節・・・序
(2) 5~7節・・・テーマ(主題の提示)
(3) 8~14節・・イスラエルに対する主の恩寵
(4) 15~25節・・イスラエルの忘恩とその罪に対する神の怒り
(5) 26~42節・・諸国民に対する神の復讐と報復
(6) 43節・・・・結び 

  • 以下、上記の順に従って、注解を施したいと思います。

1. 序(1~4節)

1 節
天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。
地よ。聞け。私の口のことばを。

●「私」とはモーセのことですが、そのモーセが主からの啓示を受けて語った預言のことばです。

●申命記4章26節にも「私は、きょう、あなたがたに対して、天と地を証人に立てる。」とあります。「天と地を証人に立てる。」という設定は、他に30章19節、31章28節に、そして今回の32章1節にあります。32章では「証人に立てる」という表現はありませんが、意図されていることは同じです。つまり、語られる内容がいかに重要なものであるかを示そうとしています。

●まず、申命記4章26b~31節を見てみましょう。
「あなたがたは、ヨルダン川を渡って所有しようとしているその地から追われ、たちまち滅び失せる、そこで、あなたがたは長く生きるどころか、すっかり根絶やしにされる。27また、主は追いやる国々の中で、ごくわずかな者として生き残ることになる。・・・29しかしそこから、あなたがたがあなたの神、主を探し求め、心を尽くし、いのちを尽くして求めるとき、あなたは主にお会いする。30こうして終わりの日に、これらすべてのことがあなたに臨み、あなたが苦しみのうちにあるとき、あなたの神、主に立ち返り、御声に聞き従う。31あなたの神、主はあわれみ深い神であり、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの父祖たちに誓った契約を忘れないからである。」(新改訳2017)

●ここで語られていることは、
①違反すれば「約束の地から追われ、たちまち滅び失せる」こと。
②しかしわずかな「残りの者」があること。
③また、その残りの者が主を尋ね求めるなら主を見出し、主に立ち返り、御声に聞き従うようになること。
④一見、この預言はバビロン捕囚において成就したかのように見えますが、「終わりの日」にこれらすべてのことがイスラエルに臨み、イスラエルが苦しみのうちにあるとき、主に立ち返り、御声に聞き従うようになるということが実現すること。

●申命記4章29節と32章の「モーセの歌」との間にはさまれるように、30章19節で「いのちを選ぶように」と悟されながらも、31章29節では「後の日に必ずイスラエルの民は堕落して、モーセが命じた道から離れる」ことが預言されています。しかしそれで終わってしまう話ではなく、神はご自身の約束に対してどこまでも真実を貫いて、御民が御声に従う民となるという、いわばイスラエルに対する神の永遠のご計画が啓示される場面において、天と地が証人として呼び出されているのです。まさに、預言はこれから起こるイスラエルに対する神のご計画の歴史そのものなのです。

2節
私のおしえは、雨のように下り、
私のことばは、露のようにしたたる。
若草の上の小雨のように。
青草の上の夕立のように。

●「雨」「露」は聞く者を生かす新鮮な力を象徴しています。「雨」は秋には固くなった地を柔らかくし、春には多くの穀物を収穫させるための「雨」のことです。雨には「小雨」もあれば、「夕立」もあります。「露」は雨の降らない夏季に樹木にしたたり、秋には多くの実を結ばせます。いずれも、主のみおしえは聞く者には新鮮ないのち、よみがえりのいのちを与えるという預言的宣言です。

3節
私が主の御名を告げ知らせるのだから、
栄光を私たちの神に帰せよ。

●ここは結論的フレーズとも言えます。「御名」とは主についての巨大なフォルダです。ここにすべてのものが入ります。主のご性質もまたそのご計画も知恵も、すべてのみわざも入ります。したがって、すべての栄光は神に帰せられなければなりません。4節は、その御名の中から選び出された主のご性質です。

4 節
主は岩。主のみわざは完全。

●主が「岩」(「ハッツール」הַצּוּר)という比喩で表されています。申命記では他に6回使われています(15,18,30,31, 31, 37)。神である主を「岩」と呼ぶのは、そのゆるぎない信頼性を象徴的に表現しているからです。

●「完全」は「ターミーム」(תָּמִים)。イスラエルの民にふりかかる災害や破滅は神の側の何らかの失敗や不完全さに起因するものではなく、すべてイスラエルの主に対する忘恩と背信行為のゆえです。主のすべての行為は、どんな点においても失敗(傷)がなく、すべてが「完全・完璧」なのです。

まことに、主の道はみな正しい。
主は真実の神で、偽りがなく、
正しい方、直ぐな方である。

●「主の道」とは「主のふるまい、主の行動様式のこと」で、それはすべて「トーラー」(みおしえ)の中に啓示されています。しかもそれはみな「正しい」のです。「正しい」と訳された原語は「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)で、それは神の統治を意味しています。「真実」は「エムーナー」(אֱמוּנָה)。この名詞はもともと「しっかりしていること」「堅く立っていること」を意味します。また「エムーナー」は約束に対する「信実さ」「忠実さ」「誠実さ」を含む語彙です。いずれにしても、「真実の神」(「エール・エムーナー」אֵל אֱמוּנָה)という表現はこの箇所だけです。「正しい」の「ツァディーク」(צַדִּיק)、「直ぐな」の「ヤーシャール」(יָשָׁר)は、ともに神のご性質を表わす語彙です。


2. 主題の提示(5~7節)

5節
主をそこない、
その汚れで、主の子らではない、
よこしまで曲がった世代。

●「そこなう」は「シヘーット」(שִׁחֵת)で、「堕落した」ことを意味します。「汚れ」は「欠陥」の意味で、それゆえ主の子らとはとても言えない状態です。本来、欠陥や傷のある動物は主へのいけにえとしては受け入れられません。ところが主は、彼らに対してなお変わることのない真実をもって御手を差し伸べて下さるのです(ローマ9:25~26、10:21)。

●「よこしまで曲がった世代」とありますが、イェシュアの時代もそうであったことが分かります。マタイ17章17節にはイェシュアのことばとして「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と語っています。「曲がった」を意味するヘブル語「ペタルトール」(פְּתַלְתֹּל)は形容詞でこの箇所にしか使われていませんが、動詞の「パータル」(פָּתַל)は「曲がる、ねじれる、戦う」という意味で、その状況に対して神が戦われる(背を向けられる)という意味合いがあります。

6節
あなたがたはこのように主に恩を返すのか。
愚かで知恵のない民よ。

●「恩を返す」は意訳で、原文は「これをするのか」となっています。「愚かな者」(「ナーヴァール」נָבָר)は、心の中で「神はいない」と言っている者のことです(詩篇14:1、53:1)。

主はあなたを造った父ではないか。

●神とイスラエルの関係を「父と子」の比喩的表現で表しているのは珍しい箇所です。「造った」は「カーナー」(קָנָה)で、この動詞は創世記14章19, 22節の「天と地を造られた、いと高き神」、詩篇139篇13節「それはあなたが私の内臓を「造り」、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」で使われています。

主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか。

●「造り上げ」(「アーサー」עָשָׂה)は15節にも使われていますが、手塩にかけて造り上げてくださるという意味。「堅く立てる」は「クーン」(כּוּן)。主は32章10節「ご自分のひとみのように、これを守られた」とあるように、細心の配慮をもってイスラエルを堅く建て上げて下さるのです。つまり主は長い年月をかけて、忍耐と寛容をもってイスラエルを育て、堅く建ててくださるのです(32:11、1:31)。

7節
昔の日々を思い出し、
代々の年を思え。
あなたの父に問え。

●この節にある三つの命令はきわめて重要です。
(1) 「昔の日々を思い出せ」
「ゼホール・イェモート・オーラーム」(זְכֹר יְמות עוֹלָם)

●エデンの園で起こったことから始まり、人類最初の殺人、ノアの時代、バベルの塔を建てた人間の傲慢、アブラハムと交わされた「松明の契約」、エジプトでの430年間の奴隷生活、そこからの解放、そして40年間の荒野の生活など、すべて「昔の日々」です。これらを絶えず思い出すように、忘れてはならないとモーセは命じています。

(2) 「代々の年を思え」
「ビーヌー・シェノーット・ドール・ヴァードール」
(בִּינוּ שְׁנוֹת דּוֹר־וָדור)

●「昔の日々」と「代々の年」はそれぞれ過去を指すという点で一致していますが、「代々の年」は「昔の日々」に比べるとより具体的で特定の期間、あるいは特別な重要な意味を持つ歴史的時点を意味しています。例えば、系図です。そこには神のご計画における驚くべき事柄が啓示されています。そのことを「思う」(「ビーン」בִּין)とは、よく考察して、悟れという意味です。つまり、単純に「過去を回想しなさい」ということではなく、「熱心に研究し、観察して悟れ」ということです。

(3) 「あなたの父に問え」
「シェアル・アーヴィーハー」(שְׁאַל אָבִיךָ)

●「問え」とは「尋ね求める、懇願する」という「シャーアル」(שָׁאַל)の命令形です。つまり、切実な思いを込めて尋ね求めることを意味しています。積極的に最善を尽くして求める姿勢です。自分で解決できない問題や困難に直面したときに、直接、神に問うことも大切ですが、神の人と言われる預言者に問いました。ユダの王ヨシャパテがそうでした(Ⅰ列王記22:7)。彼は「ここには、私たちがみこころを求めることのできる主の預言者がほかにいないのですか。」とイスラエルの王に尋ねています。今日の私たちにとって「神の人」とは、「信仰の先輩たち」とも言えます。

●このように、モーセはイスラエルの次世代の民に対して、常に「先」(過去)に思いを集中させることを通して、「後」(将来)に向かって歩むことを教えようとしています。今日の教会に対しては、もっともっと旧約聖書から多くを学べということなのです。換言するなら、御父の心を悟るために、「果てなき探求を続けよ」ということなのです。そうすれば、・・

彼はあなたに告げ知らせよう。
長老たちに問え。
彼らはあなたに話してくれよう。

●「告げ知らせる」(「ナーガド」נָגַד)、「話す」(「アーマル」אָמַר)

●ヘブル人の歴史感覚、あるいは時間感覚は私たちとは異なります。私たちは未来に起こること、将来に起こることは「先」ということばで表現しますが、ヘブル人たちは「後」なのです。なぜなら、彼らは過去に起こった出来事の方向を見ながら、後ろ(将来)に進んでいるからです。過去に起こった神の出来事に目を向けることによって、はじめて将来起こることが見えてくるからです。神がこれからなそうとしていることは、すでに起こった出来事の中に隠されているのです。これがヘブル人の歴史感覚で、私たちも同じ視点で神がこれからなそうとしていることを学ぶ必要があります。

●ヘブル人の歴史感覚で神の歴史を見るならば、神のさばきの事実とその理由を知ることができます。さばきの前に必ずそのことが警告されていたことが分かります。何の警告もなしに神がさばかれることは決してないことが、歴史を知るならば悟ることができます。私たちがこうした聖書的な歴史の見方を身に着けることによって、やがて神がなさろうとされるさばきを正しく理解し、神のみこころを悟り、それに対する心の備えをすることができるのです。




2017.12.13
2018.11.13までT.C. 395


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