****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

気落ちした者を慰めてくださる神


7. 気落ちした者を慰めてくださる神

【聖書箇所】Ⅱコリント書6章1節~7章1節

べレーシート

【新改訳2017】Ⅱコリント書7章2~4節
2 私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。
3 私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。
4 私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。

●Ⅱコリント書6章13節でパウロは「 私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください」と述べ、7章2節でも「私たちに対して心を開いてください。私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。」と述べています。ということは、パウロとコリント教会の間にはわだかまりがあったのです。そのわだかまりとは、「私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません」とあるように、コリントの教会の人々の中に「パウロは献金を取り立てて、それを自分のために使っている」と言いふらした者がいたようです。そのために、両者にわだかまりができてしまいました。

●パウロを批判していたのはコリントの教会の人々で、パウロの方は「私はあなたがたを責めるために言っているのではありません。前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがある」と思っているのですが、ひとたびこじれた関係を修復することは必ずしも容易ではありませんでした。

1. パウロの和解の訴え  

●そのわだかまりを解こうとして、パウロは自分を信頼するようにとテトスをコリント教会に遣わしたのです。それが7章2節の「私たちに対して心を開いてください」という和解の訴えでした。パウロはトロアスで福音を宣べ伝えたとき、門が開かれたにもかかわらず、遣わしたテトスにも会えないことで心に安らぎがなく、マケドニアに向かったと言っています(Ⅱコリント2:12~13)。

【新改訳2017】Ⅱコリント書2章12~13節
12 私がキリストの福音を伝えるためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いておられましたが、
13 私は、兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがありませんでした。それで人々に別れを告げて、マケドニアに向けて出発しました。

●そして7章5節につながっています。コリント教会のことが気がかりで、「私たちの身には全く安らぎがなく、あらゆることで苦しんでいました。外には戦いが、内には恐れがありました」(7:5)とあります。まさに「内憂外患」です。にっちもさっちもいかないという状況です。「外には戦い、内には恐れ」をギリシア語では「エクソーセン・マカイ、エソーセン・フォボイ」(ἔξωθεν μάχαι, ἔσωθεν φόβοι.)。「戦い」(μάχη)も「恐れ」(φόβος)も複数です。

●●使徒とは、知恵と知識が与えられており、使徒とは教会において的確な指導・方向性を与えることのできる特別な賜物なのです。これは預言者とか教師とは異なる賜物なのです。ですから、使徒の言うことに信頼しないと教会は、確実に誤った方向にいくのです。コリントはパウロの使徒としての賜物を認めなかったために、由々しい問題の中に置かれていました。いつ分裂してもおかしくない状況にあることをパウロは知っていたのです。パウロはテトスをコリント教会に遣わして、前に書いた手紙(悲しみの手紙)の反応を心配していたのです。

●ところが、パウロの和解の訴えをコリントの教会の人々は、テトスを受け入れ、かつパウロを受け入れたという報告が、テトスに再会することではじめて確認されたのです。おそらく、「あなたが心配し、かつ厳しい手紙が彼らには神の声として聞き入れられ、悔い改めました。ですからコリントの教会はもう大丈夫です。神の驚くべき恵みと祝福のうちに彼らは喜びに満たされています」との報告をテトスから聞かされたのです。まさにテトスの訪問が功を奏し、パウロとコリント教会との交わりが回復する和解となりました。16節ではパウロは希望にあふれて次のように言っています。

【新改訳2017】Ⅱコリント書 7章16節
私はすべてのことにおいて、あなたがたに信頼を寄せることができることを喜んでいます。

こうしたことで、パウロは「気落ちした者を慰めてくださる神」(7:6)として感謝したのです。

2. 気落ちした者を慰める神

6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことで私たちを慰めてくださいました。
7 テトスが来たことだけでなく、彼があなたがたから受けた慰め''によっても、私たちは慰められました''。私を慕うあなたがたの思い、あなたがたの深い悲しみ、私に対する熱意を知らされて、私はますます喜びにあふれました。
8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、
9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。
10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
11 見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。そればかりか、どれほどの弁明、憤り、恐れ、慕う思い、熱意、処罰をもたらしたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明しました。
12 ですから、私はあなたがたに手紙を書きましたが、それは不正を行った人のためでも、その被害者のためでもなく、私たちに対するあなたがたの熱心が、あなたがたのために神の御前に明らかにされるためだったのです。
13 こういうわけで、私たちは慰めを受けました。この慰めの上にテトスの喜びが加わって、私たちはなおいっそう喜びました。テトスの心が、あなたがたすべてによって安らいでいたからです。

●Ⅱコリント7章には動詞の「慰める」(「パラカレオー」παρακαλέω)が4回(6,6,7,13節)。名詞の「慰め」(「パラクレーシス」παράκλησις)が3回(4,7,13節)あります。同時に、動詞の「悲しむ、心を痛める」(「「リュペオー」λυπέω」)が6回(8, 8, 9, 9, 9, 11節)。名詞の「悲しみ」(「リュぺー」λύπη)が2回(10,10節)使われています。

●パウロは「慰める」と「悲しむ」に別々のギリシア語を使っていますが、パウロがこれらをもしヘブル語の「ナーハム」(נָחַם)で考えていたとしたら、「慰める」ことと「悲しむ」こととは別々ことではなくて、一つにつながっているということです。ヘブル語の「ナーハム」を辞典で調べると、「悲しむ、思い直す、悔いる、慰められる」というニュアンスの深い言葉です。つまり「ナーハム」(נָחַם)は「悲しむ」ことと「慰められる」こととが含まれている語彙なのです。「慰め」という言葉は、自分の姿を見て悲しむ、落ち込むことを通して、はじめて神との正しいかかわりに帰っていくという含みがあるのです。つまり、「慰める」ことと「悲しむ」こととはつながっているということです。その証拠に、マタイの福音書の山上の説教の中に「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです」とある通りです。慰めを与えて下さるのは聖霊です。聖霊は「慰め主」(「パラクレートス」παράκλητος)と言われるお方です。なぜ悲しむ者が慰められるのかと言えば、それはそのお方が私たちに寄り添い、私たちの真相を示して悔い改めを助け、神に一切をゆだねることを得させてくださるからです。

●「気落ちした者を」(うちしおれている者を、意気消沈している者を、「タペイノス」ταπεινόςの複数形)を「慰めてくださる神」、原文では「慰めてくださる方」(ὁ παρακαλῶν= παρακαλέωの分詞)となっています。人は他愛もないことで喜んだり悲しんだりするものです。使徒のパウロでさえそうです。牧師もそうです。このⅡコリント書には有名なことばがあります。それは「わたしは弱い時にこそ強い」という逆説です。これは弱いからこそ言えた「気落ちした者を慰めてくださる神」は、私も本当に好きなことばです。賛美歌の「You raise me up」という歌です。「打ちひしがれるようなときも、どんなに弱り果てるときにも、あなたは私を立たせてくださる。」という歌です。しおれ切ったシクラメンに水をやると、見る見るうちにシャキッと元気になるように、パウロも慰めを与えられたことで、喜びに輝いています。

3. 二つの悲しみ

●パウロは「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」と記し、二つの悲しみについて述べています(7:10)。それは以下のように、

(1) 「神のみこころに添った悲しみ」・・「後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます」
(2) 「世の悲しみ」・・・・・・・・・・「死をもたらします」

●「生じさせます」「もたらします」と訳語が異なりますが、原文は同じく「カテルガゾマイ」(κατεργάζομαι)です。それは「~を作り出す」の「エルガゾマイ」(εργάζομαι)に、強意の「カタ」(κατά)がついたものです。イスカリオテのユダとペテロに「神のみこころに添った悲しみ」と「世の悲しみ」の違いを見ることができます。ユダもペテロも同じく主に対して罪を犯しました。しかしユダは後悔し、自殺しました。一方のペテロは激しく泣いて、悔い改めました。悔い改めとは「神に心を向けること」を意味します。救いに至る「悔い改め」と同時に、救われた者が神との親密な交わりを回復するためにも悔い改めが必要なのです。

●「神のみこころに添った悲しみ」であるなら次があります。つまり「いのちをもたらす悲しみ」です。「いのちをもたらす悲しみ」とは、神の光で自らを照らした真実な姿を、自己中心で傲慢な自分を認めて悲しむことです。それを認めることはとてもつらいことであり、悲しみを伴うことなのですが、これが「神のみこころに添った悲しみ」なのです。

●悔い改めにはより多くの時間が必要とされます。なぜなら、悔い改めには、単に罪を認めるだけでなく、神のことば(教え)に従順に従う生き方の実を結ぶこと(トーラー・ライフスタイルの回復)が求められるからです。

10 神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
11 見なさい。神のみこころに添って悲しむこと、そのことが、あなたがたに、どれほどの熱心をもたらしたことでしょう。

●真の悔い改めは、驚くほどの神への熱心さをもたらすと信じます。使徒パウロのように・・・・。

2019.3.28


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