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永遠のいのちを得るためには (1)

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85. 永遠のいのちを得るためには (1)

【聖書箇所】マタイの福音書19章16~26節

ベレーシート

●マタイの福音書において、19章16節で初めて「永遠のいのち」ということばが登場します。それは一人の人によって語られました。29節にも「永遠のいのち」ということばが出てきますが、そこはイェシュアによって語られています。その後に続く20章1~16節の「ぶどう園で働く者を雇った主人」のたとえ話も合わせて、「永遠のいのちを得るために」というタイトルで二回にわたってこのテーマを扱いたいと思います。

●マタイの福音書で「永遠のいのち」について言及されているのは3回だけです。19章16節と29節、そして25章46節です。特に最後の箇所は、語られている対象が「教会」でも「イスラエル」でもありません。終わりの日、すなわち、獣と呼ばれる反キリストによる大患難時代にイスラエルの残りの者たちを助ける異邦人たちに対して、「永遠のいのち」が与えられるという話です。

永遠のいのちの類義語.GIF

●「永遠のいのち」のヘブル語は「ハッイェー・オーラーム」(חַיֵּי עוֹלָם) ということばで、「ハッイェー」(חַיֵּי)は「ハッイーム」(חַיִּים)の連語形です。新約では43回使われており、ヨハネとパウロが多く使っていることばです。旧約にはなんと一回しか使われていません。後でその箇所を開きますが、「永遠のいのちを得る」とはどういうことかといえば、右の図にあるように、「天の御国に入る」「神に近づく」「生ける望みを持つ」と言った「救い」に関する語彙だということです。

●ユダヤ人にとって、「永遠のいのちを得る」ということは大きな関心の的であったようです。ですから、イェシュアはユダヤ人たちに対して、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。」(ヨハネ5:39)と語っています。ところが、「その聖書は、わたしについて証ししているものです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(同、5:39~40)と言っています。ここで言われている「聖書」とは「旧約聖書」のことです。しかも、その旧約聖書が「わたし」、すなわち「イェシュア」のことを証言していると言っているのです。「それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」とは、「いのちを得るため」の的が外れているということをイェシュアは言わんとしているのです。

●「わたしのもとに」と訳された「もとに」のギリシア語は「プロス」(πρός)という前置詞です。これは「わたしのいるところに」という意味ではなく、イェシュアとのより親密な関係を表す語彙なのです。ヨハネの福音書1章1節に「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」とあります。この「神とともにあった」に「プロス」(πρός)が使われています。「ことばは神とともにある」という関係は、2本のマイクが単に横に並んでいるというイメージではなく、「ことばは神に向かってあっている」という親密な関係を表しています。ですから、「永遠のいのち」とは、まさに「プロスの神秘」とも言えます。そうした意味で、「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」とイェシュアは言っているのです。今回登場する「一人の人」が「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と質問してきたことから、そんなユダヤ人たちの例外だと思われるかもしれませんが、そうではありません。彼もまたイェシュアのもとに来ることができなかった人なのです。

●今回お話しする「一人の人」は、パリサイ人たちのように、イェシュアを罠に陥れようとしてやって来たのではありませんでした。むしろ、「永遠のいのちを得る」という崇高な目的のためにイェシュアに近づいて来たのです。しかしその目的を果たせずに、悲しみながら去って行きました。「悲しみながら」と訳された「リュペオー」(λυπέω)は、自分の自尊心が完全に傷つけられて、「心を痛め、大いに悲しみ、失望し、悲嘆にくれる」という意味です。なぜそうなってしまったのか、テキストに沿って共に考えてみたいと思います。

【新改訳2017】マタイの福音書19章16~22節
16 すると見よ、一人の人がイエスに近づいて来て言った。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」
17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです。いのちに入りたいと思うなら戒めを守りなさい。」
18 彼は「どの戒めですか」と言った。そこでイエスは答えられた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない。
19 父と母を敬え。あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」
20 この青年はイエスに言った。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか。」
21 イエスは彼に言われた。「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに
与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」
22 青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである。


1.「すると見よ、一人の人が・・近づいて来た」

●16節冒頭の「すると見よ」 (「ヴェ・ヒンネー」וְהִנֵּה)は、天の御国についての話の新たな展開を意味します。14節にあった「天の御国はこのような者たちのもの」、すなわち、天の御国はイェシュアに按手を願って自分の子どもたちを連れて来た者たちのものだと語ったことについて、その御国に入るにはどうすればよいのかという問題を、「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのか」と言い換えた形で、イェシュアのもとに近づいて来た一人の人がいたのです。

●これまでにも、またこの後にも、イェシュアのもとに「近づいて来た」(「プロセルコマイ」προσέρχομαι)者たちが大勢います。マタイの福音書に限定して言うならば、「サタン」(4:3)、「御使いたち」(4:11)、「弟子たち」(5:1, 8:25, 13:10, 36, 14:15, 15:12, 23, 17:19, 18:1, 24:1, 3, 26:17)、「ツァラアトに冒された人」(8:2)、「百人隊長」(8:5)、「一人の律法学者」(8:19)、「ヨハネの弟子たち」(9:14, 14:12)、「12年の間、長血をわずらっている女の人」(9:20)、「目の見えない二人の人」(9:27)、「パリサイ人たちや律法学者たち」(15:1)、「大勢の群衆」(15:30)、「パリサイ人たちやサドカイ人たち」(16:1)、「悪霊につかれた息子の父」(17:14)、「ペテロ」(18:21)、「金持ちの青年」(19:16)、「ゼベダイの息子たちの母」(20:20)、「目の見えない人たちや足の不自由な人たち」(21:14)、「祭司長たちや民の長老たち」(21:23)、「サドカイ人たち」(22:23)、「イェシュアの頭に香油を注いだ女の人」(26:7)、「イスカリオテのユダ」(26:49)、「剣や棒を手にした大勢の群衆」(26:50)、「マグダラのマリアともう一人のマリア」(28:9)です。

●上記の人々の中で最も多いのはイェシュアの弟子たちです。次に多いのがいやしのためにイェシュアのもとに近づいて来た者たちです。彼ら対するいやしはすべて、天の御国がどういうものであるかを示すデモンストレーションでした。また、イェシュアに敵対する者たちも近づいて来ましたが、目的を果たせずに去っています。

2. 「良いこと」と「良い方」の違い

●16節の「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」という質問、その質問からして的を外していました。一人の人はイェシュアのことを「先生」と呼んでいます。「先生」とは「ラビ」(私の師)という意味で、教師としての尊敬を表す言葉です。つまり、彼はイェシュアをラビの一人としてしか見ていませんでした。そして、イェシュアに「永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と尋ねたのです。ここで、彼は「永遠のいのちを得るためには、何か良いことをする必要がある」と考えていたということです。彼は自分で気づいていないのですが、この質問の中に自分の「理解の型紙」を持って尋ねているのです。こうした自分の「理解の型紙」を持つことを、パウロは「肉のうちにある者」と言っています。「肉の思いは神に敵対する」ために、イェシュアの語ることばにつまずくのです。「わたしがあなたがたに話してきたことばは、霊であり、またいのちです。」(ヨハネ6:63)とイェシュアが言ったことをいつも思い起こす必要があります。このことばはとても重要なことばであり、私たちもイェシュアの語ることばがそのようなものであることを意識しなければなりません。つまり、「わたしが話してきたことばは霊であり」とは、イェシュアと同じ霊を持っていない人には理解できないということです。同じ霊を持って聞くときに、その人にいのちが与えられるということなのです。生まれながらの人の能力(肉)によっては、このいのちは流れて来ないのです。なぜなら、いのちは霊だからです。

●肉と霊のことばは、水と油のように相入れないものです。「永遠のいのちを得る」ということばは霊的な事柄なのです。ですから、イェシュアの答えによって、その青年の持っている理解の型紙が打ち破られなければならないのです。「霊であり、いのちである」イェシュアのことばの一つ一つは、そのような作用をもって語られているのです。以下の問答において、イェシュアは彼の理解の型紙の間違いに少しずつ気づかせようとしているのです。ところが、彼はそのことに気づきません。一つずつそれを見ていきましょう。

●17節で「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです」とイェシュアは答えました。イェシュアは彼が使った「良いこと」ということばを用いて、「良い方はおひとりです」と言い換えています。つまり、「良いことをする」から「良い方はおひとりです」と語って、永遠のいのちを得るために必要なことは、良い方である神に焦点を合わせなければならないということを、イェシュアは教えようとしているのです。「良いこと」(「アガソス」ἀγαθός)と「良い方」(「ホ・アガソス」ὁ ἀγαθός)の違いです。冠詞があるかないかの違いですが、この違いが実に大きなことなのです。

●「良いことを行う」ことと、「良い方のもとに来る」こととは決定的に異なります。イェシュアのもとに来ているように見えますが、イェシュアを「良い方」としては見ておらず、彼が見ているのは「良いこと」が何かということであり、それを探しているのです。ここに決定的なズレがあるのです。ちなみに、詩篇1篇の鍵語となるのはどの言葉ですかという質問をすると、私たちかいかに「良いこと」ばかりに関心を持ち、「良い方」であるイェシュアご自身に焦点を当てていないか、ということがそれがよく分かります。

●イェシュアこそが永遠のいのちを与えることのできるお方です。そのイェシュアご自身に関心が全く向いていないことが大問題なのです。「良いことをする」ことに思いが行くのは、すでに人が「善悪の知識の木」を食べてしまっているからです。「良いことをする」ことが「永遠のいのちを得ること」だと考えていること自体、「死をもたらす」ことになるということを知っていない証拠です。その間違いを正すために、イェシュアはあえて彼に「戒めを守りなさい」と言ったのでした。このチャレンジは、彼の中にある自負を完全に打ち砕いて永遠のいのちを与えるために必要な取り扱いだったのです。ところが、彼は「どの戒めですか」と言い、イェシュアが示す戒めについて、「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と言い返しました。このやりとりもイェシュアにとって想定内です。この段階で「一人の人」が青年であることが記されています。その次にイェシュアがその青年に言ったことばは、「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」でした。

●「あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」、これは十戒の後半の部分が示している教えです。「私はそれらすべてを守ってきました。何がまだ欠けているのでしょうか」と言う青年に対して、イェシュアが彼にしようとしたことは、律法をすべて守ってきたという彼の自負を打ち砕いて、イェシュアの声に聞き従うように導くことでした。そこで、イェシュアは青年に対し、「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい(「アコルーセオー」ἀκολουθεωの現在命令形)」と命じたのです。

●「天に宝を持つ」とは「永遠のいのちを持つ」ことと同義です。「青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った」とあります。「立ち去った」理由は、彼が「多くの財産を持っていたから」とあります。「多くの財産」とは「莫大な財産」です。「財産」と訳された「クテーマ」(κτήμα)は、「動産(お金)、不動産(土地)」を意味します。こうした財産を持っている者が、必ずしも、イェシュアに従うことができないわけではありません。多くの財産を持っているからと言って、永遠のいのちを得ることができないということではないのです。聖書には、金持ちでも永遠のいのちを得ている者たちがいます。たとえば、

① 取税人のかしらであった「ザアカイ」(ルカ19章)。彼は救われて、貧しい者たちに財産の半分を施し、脅し取った物は四倍にして返した人物でした。
② イェシュアの遺体を引き取って墓に葬った「アリマタヤのヨセフ」(マタイ27章)も金持ちでした。
③ 初代教会の弟子の一人であった「バルナバ」と呼ばれた人物(キプロス生まれのレビ人で、パウロに目をつけてアンテオケ教会に連れてきた人物)。彼も同じく金持ちで財産を持ち、それを売った代金を教会の必要のためにささげました(使徒4:36~37)。


3. 「富む者」と「貧しい者」

●一人の金持ちの青年がイェシュアのもとを去るのを見ていた弟子たちに、イェシュアは言います。

【新改訳2017】マタイの福音書19章23~24節
23 そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。
24 もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」

●「財産や資産」のことをギリシア語では「クテーマ」(κτῆμα)、へブル語では「ネハーシーム」(נְכִָסים)です。イェシュアは「財産や資産」を持っている者のことを、23節、24節では「金持ち」(「プルースィオス」πλούσιος)と言い換えています。ヘブル語では「アーシール」(עָשִׁיר)ということばを使っています。聖書においては、しばしば「金持ち」(富む者)と「貧しい者」がワンセットで扱われており、「金持ち」が陥る危険についても語っています。またマタイの福音書で「金持ち」の話が出て来るのは珍しく、ルカの福音書がそのことを多く扱っています。

●旧約聖書の箴言にある「富む者と貧しい者」(①②③)と、ルカの福音書にある「金持ち」(④⑤)の記述を見ておきたいと思います。

①【新改訳2017】箴言 22章2節
富む者と貧しい者が出会う。どちらもみな、造られたのは【主】である。
②【新改訳2017】箴言 22章7節
富む者は貧しい者を支配する。借りる者は貸す者のしもべとなる。
③【新改訳2017】箴言 28章11節
富む者には自分が知恵のある者に見える。しかし、分別のある貧しい者は、彼を調べる。
④ルカの福音書12章16~21節
自分のために(=原文「自分のたましいのために」)倉を建て、そこに何年分ものものを貯えようとする愚かさについてイェシュアが語っています。使徒パウロも「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望に陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは金銭を追い求めたために、信仰から迷い出て、多くの苦痛で自分を刺し貫きました。」(Ⅰテモテ6:9)と書き記しています。金銭は偶像となりうることを警告しています。
⑤ルカの福音書16章19~31節
金持ちと貧しい人ラザロ。なぜ金持ちは死後にハデス(=シェオール)に行ったのでしょうか。その理由は、彼が「モーセと預言者たちに耳を傾けなかった」からです。つまり、彼は律法で教えられている貧しい者たちに対するあわれみの心を持たなかったがゆえに、ハデスに来ているのです。

●ここで、「富んでいる人」と「貧しい人」の話を旧約から一つ取り上げてみましょう。

【新改訳2017】Ⅱサムエル記12章1~7節
1 【主】はナタンをダビデのところに遣わされた。ナタンはダビデのところに来て言った。「ある町に二人の人がいました。一人は富んでいる人、もう一人は貧しい人でした。
2 富んでいる人には、とても多くの羊と牛の群れがいましたが、
3 貧しい人は、自分で買ってきて育てた一匹の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちと一緒に暮らし、彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯から飲み、彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。
4 一人の旅人が、富んでいる人のところにやって来ました。彼は、自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を奪い取り、自分のところに来た人のために調理しました。」
5 ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「【主】は生きておられる。そんなことをした男は死に値する。
6 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」
7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。・・

●この話は有名ですが、この話で強調されていることは何でしょうか。それは富んでいる人(金持ち)が貧しい人に対して「あわれみの心がない」ということです。富んでいる人がタビテ自身であることを知らずに、ダビデは「富んでいる人」を断罪しています。ダビデの場合、預言者ナタンによって「富んでいる人」に「あわれみの心がない」ことを指摘していますが、今回の青年の場合、イェシュアによって、彼が貧しい者に対して「あわれみの心がない」ことを指摘されたのです。ダビデの場合、ダビデとバテ・シェバから生まれた子は必ず死ぬと告げられましたが、主のあわれみ(「ラハミーム」רַחֲמִים)のゆえに、ダビデ自身の罪は赦されました(詩篇51:1, 2)。しかし青年の場合は「立ち去」るままにされたのです。

●神の十戒の後半部分の重要な点は「隣人に対する愛」です。それは「あわれみの心(真実の愛)を持つ」という戒めなのです。ですから、イェシュアは律法を守っていると自負するパリサイ人たちに対して、「『わたしが喜びとするのは真実の愛(=改訂第三版では「あわれみ」)。いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。」 (マタイ9:13) と語っています。これは、「金持ちが天の御国に入るのは難しい」ということを語っているのです。また、その難しさを、「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しい」というたとえを用いて説明しています。「らくだが針の穴を通る」という諺がどういう意味かを理解できなくても、「不可能」という意味だとだれでも容易に理解できます。ですから、弟子たちの驚きの言葉が出て来るのです。

4. 人にはできないが、神にはできる

【新改訳2017】マタイの福音書19章25~26節
25 弟子たちはこれを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」
26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」

●26節にイェシュアは「彼らをじっと見つめて」とあります。「じっと見つめて」と訳された「エンブレポー」(ἐμβλέπω)は、自分の意思を伝えようとして全神経を集中させた真剣な状態を意味しています。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます」と訳されていますが、原文は、「それは人間には不可能です。しかし神にはすべて可能なのです」というニュアンスです。「それは人間にとっては不可能です」という面をしっかり受け止めることが必要です。意味としては同じですが、ニュアンスの問題です。

●多くの財産を持つ一人の青年は悲しんでイェシュアのもとを去りましたが、この青年はイスラエルの型でもあります。彼は去りましたが、イスラエルの民の目を開かせて永遠のいのちを与えることが神には可能だという含みがあります。ここで、旧約聖書で一か所「永遠のいのち」について言及している箇所があります。最後にそこを開いてみたいと思います。

【新改訳2017】ダニエル書12章1~2節
1 その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる
2 ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。

●1節にある「あの書」とは「いのちの書」のことで、その書に記されている者は「みな救われる」のです。ですから、これはイスラエルのすべての民が救われるという意味ではなく、「いのちの書」に記された「イスラエルの残りの者たち」が救われるのです。主は憐れみ深い方です。「救われる」ということは、「永遠のいのちを得る」(永遠のいのちが与えられる、永遠のいのちを受け継ぐ)ことと同義なのです。「救われる」と「永遠のいのち」ということばが、そのまま今回のテキストであるマタイの福音書19章16節と29節でも出てきているのです。

ベアハリート

●イェシュアが最後にエルサレムに向かおうとしているとき、イェシュアのもとに自ら来ようとする異邦人(ギリシア人)がいました。イェシュアは異邦人に対しても、「永遠のいのち」に招こうとしています。

【新改訳2017】ヨハネの福音書12章23~26節
23 すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。
24 まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
25 自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。
26 わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える者もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます。」

●ここにも「永遠のいのち」についての言及があります。ユダヤ人と異邦人という違いはありますが、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至る」という真理は変わりません。重要なことは、イェシュアに「ついて行く」(「アコルーセオー」ἀκολουθεω)ことです。ここでも、「わたしについて来なさい」と現在命令形となっています。つまり、それは「イェシュアのことばを聞いて、信じて、従い続ける」という意味です。ただし、「自分のいのちを愛する(=原文は「愛し続ける」という現在形)者」ではなく、「この世で自分のいのちを憎む(=原文は「憎み続ける」という現在形)者」だけです。そのような者になるのは、人には不可能です。しかし、神には可能なのです。イェシュアの真剣なまなざしをもって語られた恵みのことばを、いつも、私たちの心のうちに留め続けていきたいと思います。

2020.9.20

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