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治める者たちは結託して油注がれた者に逆らう

68. 治める者たちは結託して油注がれた者に逆らう

【聖書箇所】 23章1節~12節

はじめに

  • 23章12節に「この日、ヘロデとピラトは仲良くなった。それまでは互いに敵対していたのである。」とあります。イエス・キリストとのかかわりを通して、それまて敵対していた二人が「仲直りし、そして仲良くなり、友となる」ということが起こりました。本来ならば、あり得ないことが起こっているのです。
  • ルカの23:8~12の箇所はルカ独自の記事です。ルカがヘロデとピラトのかかわりを記していることは、決して、興味本位からではありません。驚くべきことに、イエス・キリストのすべての言葉と行為、あるいはそれによってもたらされる出来事はすべて旧約時代の預言の成就です。その視点から、今回の箇所を味をってみたいと思います。

1. 仲良くなったヘロデとピラト

  • 23:12にある「ヘロデ」と「ピラト」、前者はローマ帝国の傀儡としてガリラヤの領地を支配した人物であり、ピラトはローマ帝国から遣わされた行政長官、総督と呼ばれた人物です。この二人がなぜ敵対していたのかその理由は記されておりませんが、予想はつきます。ここで重要なことは、互いに敵対していた両者が、イエス・キリストの存在によって互いに仲直りをしたとルカが記していることです。ここで使われている「仲直り」とは「フィロス」、つまり「友」という意味です。
  • 当時、ローマ皇帝によって遣わされる総督は皇帝に対する直接的な責任を負い、ピラトがキリストに関して行使したような最高の法的権限が与えられていたようです。それはおそらく当時のユダヤ人支配というのは重い大変な一筋縄ではいかない仕事だったからです。ルカ13:1に「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」という記述があります。つまりこれは、ローマの兵士たちが、ガリラヤ人たちが聖所でいけにえをささげているときに、彼らを殺害したということを意味しています。ピラトが聖なる町の中に、いきなりローマのやり方を持ち込んでことによってユダヤ人の反感を買ったようです。難しいユダヤ人支配をゆだねられたピラトはユダヤ人たちを痛めつけることを喜びとしていたふしがあります。
  • このようなピラトのイメージと、イエスの裁判の時のピラトのイメージはなにか不似合いな感じがします。まるでイエスの裁判の時にはユダヤ人の言うままに行動するあやつり人形のようです。ピラトはもともと強硬的性格がありますが、ここではユダヤ当局のより強硬な行動に押されてしまっています。しかし、そこには神の隠された計画があったです。もし、ピラトが自分に与えられた権力を最大限に行使して、たとえユダヤ人に嫌われたとしても、自分の思う通りにしてイエスを無罪にしたとすれば、イエスは十字架にかかることはなかったはずです。しかしそうなれば、イエスはメシアではなかったということになるのです。
  • 神の御計画によれば、神から遣わされるメシアは苦しみを受けること、そして殺されることが定まっていたからです。そこから派生する現象として、それまで互いに敵対していた勢力が、イエスに対して、互いに和合するということが起こることが、旧約聖書で預言されていたのです。その現象が、23章12節にある「この日、ヘロデとピラトは仲良くなった。それまでは互いに敵対していたのである。」という表現です。これは、単に「ヘロデ」と「ピラト」の二人の問題ではなく、むしろ、イエスこそ預言されていた真のメシアであるということをルカは伝えようとしている記述なのです。

2. サドカイ派とパリサイ派

  • すでに最高議会はイエスを死刑にすることを決議し、イエスをピラトのところに連れて行き、イエスを謀反の罪で訴えはじました。ピラトはイエスに彼らが言う容疑を何一つ認めなかったために、彼らは、ますます強硬に「民衆を扇動している」と訴えました。ピラトがイエスをヘロデのところへ送った後も、祭司長たちと律法学者たちは、イエスを激しく告発しながら立ちつくしていたのです(10節)。
  • そもそも、祭司長たちはサドカイ派で、律法学者たちはパリサイ派でした。両者、常に敵対していました。サドカイ派の人々はエルサレム神殿を中心とする祭司級の裕福な上流階級です。彼らは宗教的指導者であると同時に、政治的指導者でもあり、政治的混乱を招いて自分たちの立場を危うくすることを極端に恐れる者たちでした。教理的な面においても、彼らはパリサイ派とは違って、「モーセ五書」に記された律法のみに権威を認め、そこに書かれていない死後の生命、霊魂の復活などの教理を認めない立場でした。一方のパリサイ派の特徴は厳格な律法主義です。先祖たちの教え(言い伝え)を大切にし、積み重ねによる伝統的聖書解釈を重んずる立場でした。非政治的団体でしたが、サドカイ派以上に民衆的基盤を持っていました。しかしイエスの宣教において最大の敵となつたのはこのパリサイ派の律法主義であったのです。彼らの中に「ユダヤ人全体が律法を遵守するならば、メシアが来られる。まだメシアが来られないのは、ユダヤ人の中に律法を守らない者がいるからである。」ということを唱える者たちが現われ、それがパリサイ派の神学となりました。
  • 立場を異にするサドカイ派とパリサイ派、それぞれに属する「祭司長たち」と「律法学者たち」が、ピラトの官邸の前で、イエスを激しく告発しているのです。ヘロデとピラトがイエスの尋問を通して「仲良く」なったように、サドカイ派とパリサイ派もイエスの死刑に向けた告発を通して「仲良く」なっているのです。ここに預言の成就が見られます。つまり、起こるべくして起こっているという事実です。

3. 詩篇2篇に見るメシア預言

【新改訳改訂第3版】詩篇2篇
1 なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。
2 地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、
【主】と、主に油をそそがれた者とに逆らう。

  • 詩篇2篇は「メシア詩篇」です。ここにある「相ともに集まり」の「集まる」の原語は「ヤーサド」(יָסַד)です。本来は、基を定める、据える、打ち建てるという意味ですが、ここでは、その受動態で「協議する、徒労を組む、結束する」という意味です。何のために「徒労を組み、結束する」かといえば、それは神と神によって油注がれた者に逆らうためだとあります。
  • 詩篇2篇では、四つのものが互いに結束して、神と神に油笹がれたキリストに逆らうことが預言されています。

(1)「国々」(新改訳、新共同訳)・・・「ゴーイーム」(複数)גוֹים、一般的には異邦人を意味します。
(2)「国民」(新改訳)、「人々」・・・「レウミーム」לְאֻמִּים、イスラエルの民も含めた諸国民を意味します。
(3)「地の王」(新改訳)、「地上の王」(新共同訳)・・「マルヘー・エレツ」מַלְכֵי־אֶרֶץ、ヘロデに代表される政治組織上の支配者を意味します。
(4)「治める者」(新改訳)、「支配者」(新共同訳)・・「ローズニーム」רוֹזְנִים、ポンテオ・ピラトに代表される司法権をもった高官を意味します。

  • これらの四つが互いに結託して(仲良くなって)、油注がれた主を十字架につけるのです。彼らは「むなしくつぶやき」、神を打ち倒すことができると「立ち構え」て「相ともに集まる」のです。これは神が建てられた計画の中にすでに含まれているのです。イエスは今や神の建てられた御計画の中に敢然と歩まれているのです。しかし、この詩篇2篇にあるように、「天の御座に着いておられる方は笑う」とあるように、油そそがれた者によって敵対した者たちはやがて最終的には裁かれる運命にあるのです。

2012.10.4


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