法廷における論争への呼びかけ
32. 法廷における論争への呼びかけ
【聖書箇所】41章1~29節
ベレーシート
●イザヤ書41章は以下のように三つの部分からなっています。
(1) 1~ 7節・・諸国の民と預言者との法廷での論争
(2) 8~20節・・神のしもべイスラエルに対する主の確かな約束
(3)21~29節・・法廷での結審
1. 諸国の民と預言者との法廷での論争
【新改訳2017】イザヤ書41章1節
島々よ、わたしの前で静まれ。
諸国の民よ、新しく力を得よ。
近寄れ。そして語れ。
われわれは、ともに、さばきに近づこう。
●「島々よ、わたしの前で静まれ。諸国の民よ、新しい力を得よ。近寄れ。そして語れ」というフレーズはおそらく主のものです。それを預言者イザヤは代弁して、「われわれは、ともに、さばきに近づこう」と、「島々」「諸国の民」に対して呼びかけていると思われます。「島々」「諸国の民」とは当時の強国(アッシリアの勢力)の支配下で翻弄され、苦しみ呻いていた異邦の民のことです。預言者イザヤは法廷を開いて、歴史の舞台で主役はいったいだれかを論じ合おうと呼びかけているのです。このことこそ、神の民であるイスラエルの人々を立ち直らせる基本的な問いかけでもあったからです。
●異邦の民に対する呼びかけである「わたしの前で静まれ」と、「新しい力を得よ」は皮肉的な表現です。なぜなら、前者の「わたしの前で静まる」とは、主に信頼して人間的な工作をするなということだからです。イザヤはヒゼキヤ王のみならず、ユダの人々に対して主に真に信頼して「静まる」ことを強調しました。そのことを実践したヒゼキヤとユダの民はアッシリア軍によるエルサレム包囲の危機は免れることができました。後者の「新しい力を得よ」とは、40章の最後に語られた主の約束です。それは人間的な力を越えた刷新的な力であり、「走ってもたゆまず、歩いても疲れない」という想像を越えた力です。これは、主を待ち望む者にのみ与えられる賜物です。
●法廷において、預言者イザヤは異邦の民に問いかけます。
【新改訳2017】イザヤ書41章2~4節
2 だれが一人の者を東から起こし、その行く先々で勝利を収めさせるのか。だれが彼の前に国々を渡し、王たちを踏みにじらせるのか。彼はその剣で彼らをちりのようにし、その弓で藁のように追い散らす。
3 彼は彼らを追い、難なく進んで行く。まだ自分の足で行ったことのない道を。
4 だれが、最初から代々の人々に呼びかけてこれらをなし、これらを行ったのか。主であるわたしだ。わたしは初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ。:אֲנִי יְהוָה רִאשׁוֹן וְאֶת־אַחֲרֹנִים אֲנִי־הוּא
(1) 歴史の中で起こることはすべて神の支配の中にある
●この箇所で「一人の者」(「彼」)という存在について語っています。この「一人の者」とは誰なのか。多くの注解者はこれを「ペルシア王キュロス」のことであるとしています。「キュロス」はバビロンを征服し、捕囚となっていたユダの民を解放しました。預言者はこの「一人の者」を起こしたのは「だれか」と問うているのです。「だれが、これを成し遂げたのか」という問いかけに対して、預言者みずから答えを出しています。その答えは人間的な力やわざによってではなく、ましてやキュロスでもなく、まさに初めであり、また終わりである主こそ、このような者を起こして成し遂げさせたのだということです。
- これまでの歴史の中で起こってきたこと、特に強国と言われたアッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、そしてローマの興亡のすべてはだれもが想像し得なかったことです。しかしそれらはすべて神の支配の中にあることを法廷において論じようと呼びかけているのです。
(2) 諸国の民の反応
●5~7節には、イザヤの問いかけと答えを聞いた諸国の民の反応が描かれています。確かに彼らは「恐れ」「震え」ました。しかしながら、彼らはそれでも、相共に励まし合いながら、偶像の神により頼もうとしています。偶像により頼もうとする諸国の民は、危機に会うと決まって互いに助け合って同盟関係を結びます。それが最も安全だと思うからです。
●イザヤが呼びかけた主の法廷において、彼らは自分たちの言い分を何一つ述べることなく、沈黙しながら、もっと信頼できる新しい偶像を造ろうと互いに力づけています。
2. 「神のしもべイスラエル」に対する神の防衛の保障と祝福の約束
●41章の第二の区分である8~20節には、神のしもべイスラエルの民に対する神のゆるぎない保障が告白されています。これはそのまま選ばれたイスラエル、神の友であったアブラハムのすえに対する約束であることを理解する必要があります。これをクリスチヤン一人一人に語られていると理解する(置換神学)なら、神のマスタープランは見えなくなります。神の預言とその成就の舞台は歴史だという理解が必要です。ですから、ここでのイスラエルに対する預言も歴史の最後の最後までつながって行きます。
●神の約束に目を留めてみましょう。
【新改訳2017】イザヤ書41章8~16節
8 だがイスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしが選んだヤコブよ、あなたは、わたしの友アブラハムの裔だ。
9 わたしはあなたを地の果てから連れ出し、地の隅々から呼び出して言った。『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、退けなかった』と。
10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
11 見よ。あなたに向かっていきり立つ者はみな恥を見て辱められ、あなたと争う者たちは無いもののようになって滅びる。
12 あなたと言い争う者を探しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは、全く無いもののようになってしまう。
13 わたしがあなたの神、主であり、あなたの右の手を固く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と言う者だからである。
14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
15 見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする。
16 あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、暴風がそれをまき散らす。あなたは主にあって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。
(1) 「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」
●この箇所には「恐れるな」という主の呼びかけが繰り返されています。なぜなら、イスラエルは神の特選の民だからです。この励ましは、イザヤ書後半でなんども繰り返されます(41:13~14/43:1, 5/44:2, 8/51:7, 12)。アブラハムのすえのイスラエルのみならず、キリストによって選ばれて接ぎ木されたクリスチャンたちも恐れる必要はありません。なぜなら「わたしはあなたとともにいる」と約束されているからです。
●「わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(10節)とあるように、神は神を信じるものたちの最も偉大な保護者なのです。「右の手」とは神の大能、力を表わすヘブル的表現です。「強め(אָמַץ)」「助け(עָזַר)」「守る(支える、堅く保つ)(תָּמַךְ)」の三つの動詞はすべて預言的完了形で記されています。それは将来において確実に実現することを意味しています。ここに神の選びの一方的な愛が表わされていると言えます。
(2) イスラエルと争う者たちは滅びる
11 見よ。あなたに向かっていきり立つ者はみな恥を見て辱められ、あなたと争う者たちは無いもののようになって滅びる。
12 あなたと言い争う者を探しても、あなたは見つけることができず、あなたと戦う者たちは、全く無いもののようになってしまう。
(3) イスラエルは敵を打ち砕く神の道具として用いられる
●14節で「虫けらのヤコブ」と言われたイスラエルが、15節では「見よ。わたしはあなたを鋭く新しい両刃の打穀機とする。あなたは山々を踏みつけて粉々に砕き、丘を籾殻のようにする」とあります。「山々」や「丘」はイスラエルに敵対する者たちの比喩です。イスラエルとかかわっている神が、イスラエルという存在を用いてそれらを踏みつけられ、粉々に砕かれることをすると解釈できます。
●イスラエルの民が16節後半にある「あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」ことができるのは、おそらく、神のマスタープランにおいて、キリストの地上再臨のときに実現するメシア王国(千年王国)においてです。そのときが来るとサタンが「底知れぬ所」に投げ込まれるために、地はいやされます。川のないところに川が流れ、泉は湧き出して、荒地であったところにオリーブやもみの木などが植えられるようになります。文字通り、「乳と蜜の流れる豊かな地」に変えられるからです。そのことが18~20節に記されています。
【新改訳2017】イザヤ書41章18~20節
18 わたしは裸の丘に川を開く。平地のただ中には泉を。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする。
19 わたしは荒野に、杉、アカシヤ、ミルトス、オリーブの木を植え、荒れ地に、もみの木、すずかけの木、檜をともに植える。
20 それは、主の手がこれを行い、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを、彼らが見て知り、心に留めて、ともに悟るためである。
3. 神がなされることは誰にも予見できない
- 8~20節の挿入で中断していた法廷での論争が21節以降から再開します。
【新改訳2017】イザヤ書41章21~23節
21 あなたがたの訴えを出せ。──主は言われる──あなたがたの証拠を持って来い。──ヤコブの王は言われる──
22 持って来て、後に起ころうとする事を告げよ。前の事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれを心に留め、後の事を知ることができるだろう。または、来たるべき事をわれわれに聞かせよ。
23 後に起ころうとすることを告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神々であることを知るだろう。良いことでも悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれはともに見て驚くだろう。
●諸国の民たちに対して、主は偶像が真の神であるならば、未来について預言できるという証拠を提出せよと呼びかけます。もし語ったとしても、それが実現しないならば神ではないのです。偶像の神がその証拠を提出することはできないはずだ、と1節同様に、皮肉を込めて語っているのです。
●バビロンに捕囚となったユダの民がそこから解放するために起こされた「人」(25節)はペルシアの王キュロスです。その「人」がバビロンを滅ぼして、ユダの民が解放されることを予告したのは主なる神しかおりませんでした。とすれば、神の歴史のマスタープランを予告できるのは、主なる神しかいないことになります。私たちは預言者を通して語られた神のことばをありのままに聞くことが求められているのです。
2014.10.6
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