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父なる神の祝福の計画

第4日目 父なる神の祝福の計画

  • 〔聖書箇所〕1章4, 5, 6節 【新改訳改訂第3版】

1:4
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

καθὼς ἐξελέξατο ἡμᾶς ἐν αὐτῷ πρὸ καταβολῆς κόσμου, εἶναι ἡμᾶς ἁγίους καὶ ἀμώμους κατενώπιον αὐτοῦ ἐν ἀγάπῃ,


●4節の最後に置かれている「エン・アガペー」ἐν ἀγάπῃ「愛をもって」を、新改訳では5節の「あらかじめ定めておられた」と結びつけて訳していますが、脚注には、別訳として、4節の「御前で」の下に、「愛をもって」をつけると記載してあります。しかし、榊原康夫師は「エン・アガペー」ἐν ἀγάπῃを次のように訳すべきだとしています。「(すなわち)、神は、私たちを聖く、御前に傷のない、愛情に満ちた者にしようと、私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選ばれました。」と。(「エペソ人への手紙(上)」いのちのことば社、1989年)


1:5
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

προορίσας ἡμᾶς εἰς υἱοθεσίαν διὰ Ἰησοῦ Χριστοῦ εἰς αὐτόν, κατὰ τὴν εὐδοκίαν τοῦ θελήματος αὐτοῦ,


●新改訳において改定されたのは、「神は、ただみこころのままに」とあった箇所を、
「神は、みむねとみころろのままに」としたことです。原文では、κατὰ τὴν εὐδοκίαν τοῦ θελήματος αὐτοῦ, と二つのことばが並置されているからだと思います。

●以下の訳は、その二つのことばの存在がわかるように訳しています。
〔フランシスコ会訳〕
「ご意志の良しとするところに従って」
〔柳生訳〕
「御心にかなった御計画として」
〔エマオ出版訳〕
「ご自身の善意に満ちたみこころに従って」


1:6
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

εἰς ἔπαινον δόξης τῆς χάριτος αὐτοῦ ἧς ἐχαρίτωσεν ἡμᾶς ἐν τῷ ἠγαπημένῳ,


はじめに

  • 私たちのひとりひとりを祝福してくださる父なる神は、そのためのご計画をもっておられるということを学びたいと思います。私たちは何かを成し遂げるために計画を立てますが、なかなか私たちの思い通りにはいかないというのが常です。しかし私たちの父なる神は、「すべてのことをご自分のご計画どおりに成し遂げられる方」です、とパウロは1章11節でそのように表現しています。たとえ、人間がどんなにそれを妨げようとしても、また、相共に集って、逆らったとしても、神の立てられたご計画は必ず実現するのです。しかもそれがどのようにして実現するかといえば、私たちには想像もつきません。ですからパウロは、第3章の結びのところで「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。」と賛美しています。神のご計画は私たちの願うところ、思うところのすべてを越えているのです。
  • キリストを信じる者たちを先頭に立って迫害していたパウロが、今や、キリストによって、全権を与えられて遣わされる者となったのです。だれがそのようなことを考えることができたでしょうか。しかも、使徒たちの中で最も多く、キリストのために、神のために働いた人です。しかし、彼がこうなることはすでに神のご計画の中にあったのです。彼すらも予想していなかったことだと思います。神のご計画とは、いつも、私たちの予想や考えや願いをはるかに越えてなされるものなのです。
  • 御父が作成されたご計画、御父が実現されるご計画にはいったいどのような面があるのでしょうか。
    神の計画実現の図

1. 神のみこころの二面性

神のみこころの二面性

(1) 神の定まったみこころ、つまり、神のご計画について

  • 前にも「神のみこころの二面性」についてお話ししましたが、神のみこころには二つの面があります。エペソ書、1章のパウロの賛美の中には神の「みこころ」ということばが多く登場します。
  • 1節の「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」という自己紹介は、どちらのみこころでしょうか。パウロがキリスト・イエスの使徒、つまり、キリストの全権大使となるということは、彼自身にとっても到底考えられないことでした。そして彼によって迫害された教会の多くの人々も、彼がキリストに触れられて、キリストから全権をゆだねられるような使徒となることは予想だにしないことであったに違いありません。したがって、キリストの使徒となることは、神がパウロの人生に起こるべく定められていたのです。そのご計画が、時至って(時が満ちて)実現したというわけです。これは神の定まったみこころのゆえです。
  • もしかして、パウロはキリストの使徒となることを拒むことができたと思いますか。可能性としてあり得るでしょう。しかし、パウロはローマ書9章19節で、「だれが神のご計画に逆らうことができるでしょう。」-それに対する答えは「だれもできない」ということです。このローマ書9章はすべての人々のうちに神が主権者としての計画を持って働かれることを強調している箇所です。
  • 1節以外にも「神のみこころ」について言及されている箇所は以下の通りです。

    5節 
    「神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」
    9節
    「みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」
    10節
    「時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、」
    11節 「・・私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。」

  • これらの箇所に出てくる「みこころ」(His will)―これらはみな、「神の定まったみこころ」のことです。「神の定まったみこころ」のことを、「神のご計画」というのです。それは意図的で、必ず起こる不可抗力的計画です。しかもその大部分は予測不可能です。人間の罪や失敗や過ちや挫折があっても、すべてのことが相働いて定められた目的に従って動いていくのです。

(2) 神の望まれているみこころ、つまり神の期待について

  • 神の子どもとしてふさわしく生きることを神が期待していること。それは人の意志にゆだねられています。 エペソ書に限って言うならば、二箇所にそうした意味合いで使われています。
    • 5章17節 「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。」
    • 6章6節 「人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない・・なさい。」
  • みこころということばがなくても、神が私たちに対して、「愛された子どもにふさわしく、互いに愛し合うこと、光の子どもらしく光のうちを歩むこと」が神の望んでおられるみこころです。他にもたくさんあります。
    • Ⅱテモテ2章4節
      「神はすべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」
    • Ⅱペテロ3章9節
      「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる」
  • 以上、神のみこころについて述べてきましたが、今、私たちが心に留めるべきことは、神の定まったみこころ、すなわち、神のご計画があるということです。その計画は神の主権によって、神ご自身の思うままに行われます。すべてのことが、神の定められた目的にしたがって動いていきます。しかし「みこころのままに」とは、「喜んで」という意味であり、それはあなたのために立てられた神の喜びの計画なのです。私たちにはその全貌を知ることはできません。神のみこころには多くのミステリアスな部分があります。しかし、その神のご計画の性格はあなたに神の祝福の総称としての「平安」(シャーローム)を約束するものです。
  • かつて、バビロン捕囚を余議なくされた神の民イスラエルに対して、神は預言者エレミヤを通してこう言われました。(エレミヤ29章11節)「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものである。」

(3) すべての計画はキリストをとおして

  • 私たちを祝福して下さった父なる神は、「すべてのことをご自分のご計画どおりに成し遂げられる方」ですが、その計画はだれを通して成し遂げられるかといえば、それは神ご自身の御子、すなわち、キリストにおいてです。父なる神は、この方を抜きにしてはなにもなされなかったという事実です。つまり、すべての天にある霊的祝福はキリストを通して与えられているという事実-この事実がパウロの脳裏から一時も離れることはありませんでした。
  • ちなみに、1章3節~14節までの最初の一連の賛美の中で、キリストに関係することばをどれだけ見つけることができるかというと・・・

    (1) キリストにおいて (3節)
    (2) キリストのうちに (4節)
    (3) イエス・キリストによって (5節)
    (4) 愛する方によって (6節)
    (5) 御子のうちにあって (7節)
    (6) 御子において (9節)
    (7) キリストにあって (10節)
    (8) 彼にあって (11節)
    (9) キリストに (12節)
    (10)キリストにあって (13節)

  • 1、2節の挨拶も含めると、14節の中に、なんと13回も出てくるのです。ほとんど各節にあるという計算になります。異常ともいえるかもしれませんが、パウロという人は、すべてのものの源である父なる神から与えられるすべての霊的祝福は、キリストなしにはあり得ないということを誰よりも深く知っていた人だったのです。

2. 神の子どもとするための選び

1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

(1) 選びの恵み

  • 神がキリストにおいて私たちを祝福して下さった霊的祝福のその中身について見てみましょう。その最初の祝福に注目したいと思いますが、聖書では1章4, 5節です。
  • 短くまとめるならば、「神はみこころのままに、あなたをご自分の子にしようと、愛をもってあなたを選んだということです。」選んだのは神です。選ぶ側としての神は、自分の思いのままに自由に選ぶことができます。選ぶことにおいて、自由がなければなりません。私たちがなにか買い物をする場合に、自分の自由意思が働きます。選ぶ基準は人によってまちまちですが、選ぶこと自体には自由意思があります。でなければ「選ぶ」ということにはなりません。自分の意志ではなく、人の意志によって選ぶとすれば、それは選んでいるのではなく、選ばされていることになります。同様に、神様も選ぶ時には、だれとも相談することなく、自分の思うままに選ばれるわけです。
  • 選ばれる側の者としては、選ばれたといううれしい気持ちが働きます。「選び」ということばを「愛」と同義に考えることができます。愛することは主体的な行為です。イエスは弟子たちにこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。」、「あなたがたがわたしを愛したのではありません。わたしがあなたがたを愛したのです。」と言い換えることができます。「あなたがたがわたしを愛したので、わたしも愛したのです。」という条件的な愛ではありません。「あなたがたがわたしを愛さなくても、わたしはあなたがたを愛したのです。」という無条件的な愛です。これが神の選びの意味するところです。
  • デパートに行くと、二つのコーナーがあります。一つは「特価品コーナー」、もうひとつは「特選品コーナー」です。あなたならどちらのコーナーへ行かれるでしょうか。特価品は安く、特選品は高いです。「特選品」がなぜ高いかというと、それはオンリー・ワン的存在だからです。ユニークで、二つとない存在であるゆえに尊い価値を有するからです。神はご自身の選びの民にこう言われました。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と。つまり、特別に価値のある存在として選ばれた「特選の民」という意味です。それはあなたが他の人と比べて特別な才能をもっているからではありません。理由はありません。ただ、喜びの対象として神が選ばれたのです。
  • 申命記と新約にある選びについて書かれている箇所を開いてみましょう。ちなみに、旧約聖書で「選び」ということばがはじめて、しかも頻繁に出てくるのは申命記からです。
    「主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたが
    たは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。」 (7章7節)
  • ところで、選ばれたのはいつのことでしょうか。それについて聖書には驚くべきことが書かれています。なんと、世界の基の置かれる前から(新改訳) /天地創造の前に(新共同訳) /天地の造られる前から(口語訳) /この世界を造られる前から(LB訳)/

(2) 神の子とされる特権

  • 神は何のために私たちを選ばれるのでしょうか。それは神ご自身の子どもとするためです。「神の子どもとされる特権」がいかにすばらしいものなのか、はっきりと確信しなければなりません。父なる神はご自分のふところにおられた御子イエスを遣わされました。その御子イエスを信じて受け入れる者はだれでも神の子どもとされることが約束されています。
  • 「神の子どもとされる特権」の第一は、神を父として、親しく「アバ、父よ」と呼ぶことができる。そうした近しいかかわりを持つことができるという特権です。決してどこか遠くにいる存在ではないということです。いつも近くにあってかかわりをもってくださる父の存在がいるという特権です。聖書のいう「永遠のいのち」とは、父と子の間に見られる愛のかかわりです。父の子に対する責任は、
    ①すべての必要を備え、満たしてくださること。
    ②子を守り、支え、励まし、慰めてくださること。
    ③時には子に失敗の経験を与え、挫折させて大切なことを身につけるように訓練してくださること、などです。
    子は父の絶対的な責任の下に守られ、導かれ、支えられるという特権が与えられているのです。なんという祝福でしょうか。
  • 神の子どもとしての特権の第二は、「御父の家に住む」ことができるということです。子どもが父の家に住むというのは当たり前のことのように思えますが、この当たり前のことが、実は、決して当たり前のことではなく、特別なことなのです。
  • ルカの福音書15章の「放蕩息子(=二人の息子とを持つ父)のたとえ話」

    この放蕩息子の物語は弟の「家出」から始まり、「帰郷」で帰結しています。帰郷とは、「家を出る」ということが暗示されています。つまり、「家」を出たのちに、再び元に戻ることです。父は、家に戻ってきた息子を迎えてお喜びしています。家を出た放蕩息子の結末はなんであったか。そもそも自信満々でしかもたっぷりのお金をもって家を出た彼は、無一文になってしまった。お金、名誉も、自尊心、評判も、心の自由も健康もすべて失った。かつては父と同格であった彼は、今や、召使いより惨めな有様となりました。そして、悲しみでいっぱいになり、人生の意味を失った。世において、自分を本当に愛してくれる人がひとりもいなかったことを痛感する。だれも彼に関心を持つ者はいない。人々は利用できるときだけ彼とかかわってくれたが、財布が底つき、何もできなくなると、まったく無用の存在になってしまった。存在を少しも認めてもらえない人となった。これぞ失われた者の真の姿です。

    • 真の孤独は、他者と共有するものが何もないと感じられるときに訪れます。たとえば、初対面の人と会ったとき、お互いの共通点を探す。それはごくありふれた反応です。「私は○○の出身です。」と言うと、「ああ、私もそこを知っています」とか、「そこへ行ったことがあります」とか、「私の友達もそこの出身です」というふうに、お互いのつながりを探そうとする。しかし共有するものが少ないと、一緒にいることが難しく感じられ、互いに疎遠に感じられる。父の家から出た息子はそうした疎外感を感じたに違いありません。それは人間として経験する最も深い孤独です。このまま行けば間違いなく自己破滅しかないことを悟りました。しかしこの喪失感こそが、彼を「我に返らせる」契機となりました。
    • 「我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンの有り余っている雇い人が大勢いるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行ってこう言おう。『お父さん。私は天に対し罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。』こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに帰って行った。・・・』
    • ここで大切なことは、彼が我に帰ったとき、自分はもう父の息子と呼ばれるような風格も、尊厳も失ってしまった、あらゆる意味で息子としての体(てい)が失われたとしても、それでも自分が父の息子であることには変わらないということを受け止めた点です。
    • 自分の存在意義のドン底まで追い込まれたとき、彼は自分が父の息子であるという事実に行き着いたのです。この「受け止め」が、死よりも生きることを選ぶ基盤となりました。彼は自分が父の息子であるという事実に気づいたとき、彼はゆっくりと、あるいはためらいつつ、家に向かって歩み始めました。そしてついに「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。あなたはわたしの心に適う者である」との父の確かな声を耳にしたのです。
      「父親はしもべたちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」
  • 帰ってきた息子に対する父の姿こそ、まことの神の姿です。父は息子を問いただすことなく、赦し与え、喜びいっぱいに歓迎します。この父はほどほどにということがなく、最上のものを与えないではいられないのです。いても立ってもいられない喜びようです。
  • 「神の子どもとされる特権」の第三は、神の子どものために、天に貯えられているところの資産(相続財産)が備えられているということです。この「天に貯えられている資産、財産」というものはいかなるものであるか。みなさんはこの「資産」とか「財産」というのは何だと思われますか。天にある資産(相続財産)の中身とはいったいなんでしょうか。確かにそれは神からのプレゼントであることは確かなのですが、物質的なモノだと思われますか。いいえ、霊の世界ではモノはありません。モノでないとしたら、相続財産とはなんなのでしょう。
  • 答えを言いましょう。それは天に備えられている相続財産の中心は、神さまご自身との愛に満ちたいのちの交わりです。
  • 御子にとっての最大の特権は御父とのゆるぎない愛の交わりでした。御子イエスの喜びは、永遠の昔から、御父の家を住みかとし、御父にとどまり、御父の愛の中にとどまり、御父のことばにとどまることでした。イエスはそのことを喜びとしたのです。それと同じように、神の子どもに与えられている最大の祝福は、父なる神さまとの愛の交わりにあります。
  • 使徒パウロは、いつまでも残るものは信仰と希望と愛だと述べました。そしてその中で一番すぐれているのは愛だと述べています。なぜ、愛が一番優れているのでしょうか。それは愛が完全に現わされるとき、信仰も希望も必要なくなるからです。天において、最高の愛、最上の愛し合う家が備えられています。神の子どもとされた者たちは、その神の家において、満ち足りるのです。あなたはそんな「生ける希望」をもって歩んでいますか。この生ける望みは、私たちがどのようなところに置かれていたとしても、喜びと自信をもって生きさせる力です。
  • 完全な相続財産は、神の子どもたちのために、天にしっかりと守られ、神に管理されています。私たちは聖霊によって、この世でその前味を味わうようにされているのです。私たちは、その愛の味覚をたっぷりと味わい、楽しむことです。そこにすべての力の源泉が隠されているのです。このことに気づく者は幸いです。

最後に

  • エペソ人の手紙の1章4節~6節にあるみことばをもう一度読み、心に留めたいと思います。

    1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
    1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
    1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。


            



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