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現在完了形

時制法(5) ギリシャ語の現在完了形とその例


はじめに

  • 完了形(現在完了形)は、英語であれば、あることがすでに完了してしまったことを表す時制ですが、ギリシャ語の場合、時制というよりは、現在の状態の様態(アスペクト)を強調するための表現です。

1. ルカの福音書7章47, 48節の場合

  • 例として取り上げるのは、ルカの福音書7章36節以降に登場するシモン(イエスを食事に招いたパリサイ人)とひとりの罪ある女性に語ったイエスのことばです。

47節
「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。」
48節
「あなたの罪(複数)は赦されています。」

  • この宣言はどちらも同じものですが、47節の「というのは、彼女はよけい愛したからです。」という部分をどう理解するかで、彼女の信仰がどういうものであったかを知るてがかりとなります。ところが、新改訳の「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。」という訳はどうもしっくり入って来ません。そこで、この47節の前半の部分を他の聖書の訳を見比べて見ることにします。

【口語訳】
それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。

【新共同訳】
だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。

【フランシスコ会訳】
あなたに言う。彼女の多くの罪がゆるされたのは、彼女が多くの愛を示したことで分かる。

【岩波訳】
このために、私はあなたに言う。この女のあまたの罪は(もう)赦されている。(それは)この女が多く愛したことから(わかる)

【エマオ訳】
そのためにわたしはお前に,『彼女の罪、しかも多くの罪は赦されてしまっている。だから彼女は多く愛している。』というのだ。

【回復訳】
こういうわけで、わたしはあなたに言う。彼女の罪は多いが、赦されている。だから彼女は多く愛した。

【柳生訳】
つまり、いま彼女が示した大いなる愛は、彼女の多くの罪がすべて赦されたということの、何よりの証拠なのだ。

  • 口語訳と新改訳を除いては、すべて、明確に直前の彼女の行為の認識根拠を示すものとして訳しています。口語訳は赦されることの条件として愛した行為が位置づられているような訳になっているのに対し、新共同訳以降は、すべて赦されたことのあかしとして愛の行為が位置づけられています。その意味では、新改訳はどちらでもないような印象を受けます。ここでの訳を最も明瞭に訳しているのは、少々、意訳的ではありますが、柳生訳だと思います。
  • その裏付けとしては、イエスの語った「赦されています」というギリシャ語の時制です。ここでの「赦されています」の文法的情報は、完了形受動態です。ギリシャ語の時制はきわめて厳格な意味で使われています。ですからここでの現在完了形が意味していることを理解する必要があります。
  • 現在完了形とは、過去になされた出来事、その結果の状態が現在も続いていることを表わします。ギリシャ語動詞の現在完了形を理解するためには、以下の時制を知っている必要があます。

    (1) 過去の出来事とは全くかかわりなく現在の状態を表す現在形
    (2) 過去の出来事が継続していることを表す未完了形
    (3) 過去に起こった1回的な出来事、決定的な出来事を表す過去形(アオリスト)
    (4) 過去の行為や出来事によって引き起こされた「現在の状況」を表す完了形です。

  • このように、「現在完了形」は(3)の不定過去(アオリスト)に始まり、(2)の未完了を通過して、(1)の現在の状態にあることを意味します。したがって、ここでの「赦されています」は、すでに過去においてすっかり(決定的に)赦されたことが、ずっと継続して、今もなお赦されていることを意味しています。この事実の中に、彼女のイエスに対する愛の行為が位置づけられているのです。これがイエスが言おうとした意味です。その意味で、「つまり、いま彼女が示した大いなる愛は、彼女の多くの罪がすべて赦されたということの、何よりの証拠なのだ。」とする柳生訳はここでの現在完了時制をはっきりと意識しながらわかりやすく訳しているのです。
  • 自分の数々の罪、多くの罪が赦されていまもなおその恩寵の中に自分がいることを信じる信仰、この信仰が彼女を「救ったのです」。ここの「救ったのです」も現在完了形ですので、正確には「救っているのです」と訳すべきです。ここに、ぶれない信仰、揺るがない信仰を彼女の中に見ることができます。イエスはこの信仰を評価しているおられるのです。
  • ちなみに、47節後半の「彼女はよけいに愛した」(新改訳)には過去(アオリスト)時制が使われています。彼女のしたイエスへの愛の行為は自分の意志による1回的なものですが、それを絶えず生み出していく継続的な神の恩寵は自分が「決定的に、すべての罪が赦され、今もなお赦されている」という明確な自覚がそうさせたのです。もしこの自覚が希薄であるならば、イエスへの愛も希薄なものとなるのです。今回の聖書箇所は、私たちの神への行為(礼拝、奉仕、献金、宣教の働きなど)の源泉がどこにあるのかを問いかける重要な箇所のひとつと言えます。

2. ガラテヤ人への手紙2章19~20節、6章14節の場合

  • もう一つ、(現在)完了形が使われている箇所を挙げておきたいと思います。

【新改訳改訂第3版】ガラテヤ書2章19~20節
19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました(アオリスト)。
20私はキリストとともに十字架につけられました(完了形・受動態)。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる(現在形)のです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。


【新改訳改訂第3版】ガラテヤ書 6章14節
しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられた(完了形・受動態)のです。


2011.10.12


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