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理不尽な出来事を冷静に受けとめたダビデ

19. 理不尽な出来事を冷静に受けとめたダビデ

【聖書箇所】 22章1節~23節

はじめに

  • Ⅰサムエル記22章において、きわめて驚くべきことは、ダビデが自分のために祭司アヒメレク一家の惨事を聞かされた時、それを冷静にうけとめたということです。普通ならば、感情的になって怒ったり、悲しんだりしてもおかしくありません。しかしここはそうした感情的な反応がみられません。ダビデは冷たい無感情な人だったということではありません。時には感情的になって行動を起こそうとし、それを他の者から諭されて思いとどまるということもあるのですが、22章では見られません。

1. ダビデの周りに集まってきた人々

  • ダビデがサウル王から追われていることを知っての上か、あるいは知らないでかはわかりませんが、当時のサウル王の政権下では生きられない人たち―「困窮している者」、「負債のある者」、「不満のある者」―がダビデのもとに集まってきました。ダビデがそうした者たちを集めのではありません。おのずと「集まってきた」のです。原語では「集まる」(「カーヴァツ」קָבַץ)の強意形ヒットパエル態が使われています。つまり、彼らは自ら、自発的に、主体的に、ダビデのもとに近寄り、集まってきたことを意味します。有能な者たちを見つけるとそれらの者たち召し抱えたサウルとは対照的です(同、14:52)。
  • ダビデと彼らーそこにある「リーダーシップとフォロアーシップ」―は、苦しみを共に経験しながら、寝食を共にしながら、その関係を強めていきます。サウルの場合はそれがあれませんでした。単なる、能力の結集では良い関係はうまれないということを学びます。苦労を共にすることを通して、パートナーシップは試され、強化されます。やがてダビデが王となったとき、荒野の放浪を共にした彼らがダビデの親衛隊となったことは十分うなずけます。
  • ダビデのもとにやってきたのは、他に、ダビデの両親や兄弟たちがいました。彼らはダビデのことで身の危険が及ぶかもしれません。ダビデを助けたと誤解されて殺された祭司アヒメレクのその一族のことを思えば、当然のごとのダビデの親族も身に危険が迫ることは火を見るよりも明らかです。当初そうした懸念があったために、ダビデは両親をモアブの地ミツパに逃れさせてモアブの王に託しますが、預言者ガドはそれは主のみこころではないことを告げられて、ダビデはそれに従います。ダビデが主の指示にはきわめて従順であったことがわかります。
  • それとは対照的にサウルは、どんどん周囲の者たちに対する猜疑心が強まり、「だれも私のことを思って、心を痛めてくれない」と自己憐憫に陥っていきます。そのために部下たちの信頼をうけることができず、ますます孤独になっていきます。

2. 人間というものをより深く知っていくダビデ

  • 物事がうまくいっているときには学ぶことのできないことがあります。それは「人を知るということ」です。ダビデは理不尽な出来事を通して、サウルの心、そして自分の安泰だけを求めてサウルに取り入るドエグの心、サウルの部下や祭司アヒメレクの王に対する毅然とした態度、自分につき従ってくれる仲間たちの心などを知るようになっていきます。この訓練は上に立つ者の必須科目です。人間を知る事はやがて王となるためにはどうしても必要な訓練ですが、それは苦難なしには知ることはできないのかもしれません。
  • ダビデが祭司アヒメレクとその一族に及んだ悲惨な虐殺を冷静に受けとめることができたのは、なんらかの神のからの訓練だとして受けとめたからではんないかと思います。神の訓練はこれからも繰り返し繰り返しなされていきます。ダビデは、理不尽なことも、不条理とも言える出来事に対しても、決して感情的に走ることなく、客観的な、冷静な判断がリーダーに求められていることを学ばなければならなかったのです。


2012.6.26


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