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理解しがたい超越と内在のパラドックス

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55. 理解しがたい超越と内在のパラドックス

【聖書箇所】56章9節~57章21節

ベレーシート

  • イザヤ書56章以降は、53章に登場した「主のしもべ」による代償的受難によって罪赦された新しい神の民に対する、神の永遠のかかわりの預言です。その預言の射程は、メシア王国、そしてそのあとに続く最後のステージである「新しい天と新しい地」に及んでいます。
  • 56章1~8節では、神は新しい神の民に対して、「公正を守り、正義を行い、安息日を守ってこれを保つよう」呼びかけています。その真意は、神の支配(統治)に目を見張り(目を留めて)神とのあるべき正しいかかわりを築き上げ、神の安息を楽しむ者には、イスラエルの民のみならず、すべての者に、神の家(御国)における喜びと楽しみが与えられることを意味します。この呼びかけの理由は、神の救いが来るのが(神の義が現われるのが)「近い」からです。しかし、イザヤが神のことばを語った当時の指導者たち(見張り人)はみな、そのことに盲目で無知であり、自分の務めが何であるかを理解していませんでした。
  • 57章は前章9節から続いています。しかも、57章では神の民の霊的指導者たちのみならず、国民の罪までも指摘されています。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書57章1~2節

    1 義人が滅びても心に留める者はなく、誠実な人が取り去られても、心を向ける者もいない。まことに、義人はわざわいから取り去られて、
    2 平安に入り、まっすぐに歩む人は、自分の寝床で休むことができる。

  • 「平安に入り」とは、義人は死によって休みに入ることを意味しています。つまり、死ぬことによって、衝突、危機、危難から免れて、安らかに眠ることを意味しています。特に、マナセの治世は迫害と流血の時代でした。義人は殺され、偶像礼拝が地を占領した時代です。イスラエルの中で異教の神モレクに幼児犠牲をささげるという恐るべき霊的堕落が起こったことについても言及しています。そうした状況の中で預言者イザヤは語っています。特にここでは、14~15節にある「心砕かれて、へりくだった人」に与えられる神の約束に目を留めたいと思います。

1. 神の終末的救いの呼びかけ

【新改訳改訂第3版】イザヤ書57章14~15節、18~19節
14 主は仰せられる。「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け。」

15 いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

18 わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、慰めを報いよう
19 わたしはくちびるの実を創造した者。平安あれ。遠くの者にも近くの者にも平安あれ。わたしは彼をいやそう」と【主】は仰せられる。


(1) 心砕かれて、へりくだった人

  • 14~19節で主が呼びかけている対象は、義人や誠実な人たちであり、主に「身を寄せる者」(57:13)たちであり、また、「心砕かれて、へりくだった人」たちです。
  • 主は彼らに向かって「盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。」と仰せられます。原文は「ソッルー(סֹלּוּ)・ソッルー(סֹלּוּ)・パッヌー(פַּנּוּ)・ダーレフ(דָרֶךְ)」で、「あなたがたは盛り上げよ。あなたがたは盛り上げよ。あなたがたは整えよ。道を。」となっています。「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」で始まるイザヤ書40章でも「主の道を整えよ。・・大路を平らにせよ。」と語られましたが、ここでは、バビロン捕囚からの帰還のことではなく、究極的な救いという次元において呼びかけられているのです。
  • 「土を盛り上げて、道を整える」ということは、神の民の道から、「つまずき」を取り除くということです。「つまずき」とは神と人とのかかわりにおいて「障害となっているもの」のことです。総論的には「偶像」と言えますが、「偶像」はすべて「自分のために」造られるものですから、55章7節の「おのれの道」「おのれのはかりごと」、つまり、人本主義的思想のすべてとも考えられます。それらを取り除けと呼びかけられています。それは神のはかりごとが実現するためです。
  • そして、それらが実現するためには、人間側の方で、「心砕かれ、へりくだる」ことが必須なのです。このことが「道を整える」ことに含まれます。「心砕かれる」とありますが原文では「心」という語彙はなく、「砕かれた者」という形容詞の「ダッカー」(דַּכָּא)が使われています。また「へりくだった人」とありますが、原文では「霊が卑しめられた者」という意味で、「シェファル・ルーアッハ」(שְׁפַל־רוּחַ)となっています。「砕かれた者」と「へりくだった人」とは同義です。いずれも謙遜を表わす語彙ですが、客観的な状況の中で打ち砕かれた状態、あるいは、他者によって低くされた状態を意味します。いずれも、自分で自分の心を砕いたりへりくだったりという意味合いはありません。

(2) 理解を越えた神のはかりごととは・・

  • 神の永遠のはかりごととは、神がそうした「心砕かれ、へりくだった人」と共に住むという、まさに私たちの理解を越えたヴィジョンです。
  • 神はご自身のことを、以下のように語っています。
    ①「いと高くあがめられ」・・神の至高性
    ②「永遠の住まいに住み」・・神の永遠性
    ③「その名を聖ととなえられる方」・・神の本性
  • つまり、理解を越えたはかりごととは、神の至高性、永遠性、本性といった絶対的超越性を保持しながら、最も低い者と共に住むというパラドックス(逆説)です。このパラドックスを成立させているのが、主のしもべの代償的犠牲です。自分のいのちを罪過のためのいけにえとしてささげ、多くの人を義としながら、自分も生き返って、永遠に神と人とをとりなす務めをすることのできる「主のしもべ」は、神の御子イェシュアの他にはどこにも見出すことはできません。

2. 心砕かれて、へりくだった人の永遠の祝福

  • 「心砕かれて、へりくだった人」の永遠の祝福は、次章の58章で扱われています。それゆえ、57章と58章はひとつにして扱うことがふさわしいようです。



2014.11.21


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