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生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には

71. 生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には

【聖書箇所】 23章27節~31節

はじめに

  • この箇所は、ルカ独自の記事です。十字架を負って(クレネ人のシモンが代わりに背負ってくれていますが)、ゴルゴタへと向かう途中、イエスのあとについて行った女たちに対して語られたイエスの言葉が記されています。

【新改訳改訂第3版】
28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
29 なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだ』と言う日が来るのですから。
30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ』と言い始めます。
31 彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるでしょう。」

  • とても難解な箇所です。イエスが語られた言葉は二つの事柄に分けられます。一つは28~30節の「わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分と自分の子どもたちのために泣きなさい。」ーその理由が付け加えられています。そしてもう一つは、31節の「彼らが生木にこのようなことをするのなら、枯れ木には、いったい、何が起こるのでしょう。」という部分です。読んですぐ分かるところではありません。
  • ルカの福音書の特徴として、女性たちに視点を置いた記述が多いという事です。女性たちの位置、その役割は他の福音書以上に際立っています。女性に関心を向けたルカ固有の記事は、次の通りです。
    ⇒4:25~26/7:11~17/8:2~3/10:38~42/11:27~28/15:8~10/18:1~8/23:27~31。
  • 他にも、男性と併記されている場合も多くあります。たとえば、4:25~27/7:1~10/7:11~17/15:4~7/15:8~10。この傾向は、福音書のみならず、使徒の働きにおいても継続されています。
    ⇒5:1~11/9:32~43/16:11~15/16:25~34参照。
  • ところで、今回の箇所の中で、特に最後の31節の聖句を理解するためには、ユダヤ的視点、ヘブライ的視点なしには理解できない箇所であるということを心に留めたい。

1. 新約聖書全体はヘブライ的観点からのみ真に理解できる

  • 31節のイエスの語ったことばについて、共観福音書をヘブル的背景から研究しているエルサレム学派のダヴィット・ビヴィン氏は次のように述べています。(「イエスはヘブライ語を話したか」河合一充訳、ミルトス社)

私は十代の頃に聖書研究を始めた。私の出合った最大の困難は、イエスの言葉が理解できないことであった。例えば、次のような聖句がある。ルカ福音書23:31の「もし『生木』でさえもそうされるなら、『枯れ木』はどうされることであろう」・・など。

私は牧師や教師に、また神学校の教授にそのような聖書の言葉の意味を質問した。その時、得る答えは決まっていた。「君、ただ読み続けなさい。そうしたら聖書自体が教えてくれるよ」

真実を言えば、人は死ぬまで聖書を読み続けたとしても、聖書がそのようなに難解なヘブライ的文章の意味を説き明かしてはくれないということだ。それらはヘブライ語に訳し戻したときにのみ理解できるからである。だから、私の教師はこう勧めてくれたらよかったのだ。「君はヘブライ語を勉強せよ。その聖句はヘブライ的表現やイディオムだから、ヘブライ語を学ばずには理解できないだろう」と。

神に仕えるこの人たちは私を助けてはくれなかった。しかし、彼らが答えを持っていなかったとしても非難はできない。誰一人彼らは、ヘブライ語が鍵だとは教えられたことがないからである。つまり、新約も旧約も含め、聖書を理解するうえでのもっとも重要な道具はヘブライ語であり、イエスの言葉を理解する鍵がヘブライ語であるとは知らなかったからである。

私は24歳のとき、ヘブライ大学で学ぶためにイスラエルへ行った。当時は私は福音書を読むことは止めていたに近い。といっても、聖書は読んでいなかったのではなく、無意識に福音書を避けていたのである。福音書の中にこそイエスの真の言葉と教えがあったのに、である。(11~12頁)

  • ダヴィッド・ビヴィン氏は、新約聖書を理解する上でヘブライ語を知るということがいかに重要であるか、ほとんどのクリスチャンがまだ認識していないと述べています。

2. 「生木」と「枯れ木」の理解について

  • ちなみに、実際、31節の部分の「生木」と訳されることばをヘブル語ではどのように訳されているかを調べてみると、「木」を意味する「エーツ」עֵץに、形容詞の「ラハ」לַחということばがついて「生木」となっています。形容詞の「ラハ」は「湿った、緑(の木)」という意味で、旧約では6回使われています。英語ではfresh, greenと訳されます。その中で、主がエゼキエルに語ったことばとして、エゼキエル書20章47節にはこうあります。

【新改訳改訂第3版】
ネゲブの森に言え。『【主】のことばを聞け。神である主はこう仰せられる。見よ。わたしはおまえのうちに火をつける。その火はおまえのうち、すべての緑の木と、すべての枯れ木を焼き尽くす。その燃える炎は消されず、ネゲブから北まですべての地面は焼かれてしまう。

  • 上記にある「緑の木」の「緑」が「ラハ」です。「緑の木」とは「生木」のことです。このエゼキエルの聖句はユダ王国に対するさぱきの預言です。枯れ木のみならず、緑の木も燃やし尽くすほどの火の勢いで燃やされるというさばきの大きさを表しています。ルカの福音書23章31節のイエスの発言はまさにこの箇所からのものです。
  • 先ほどの、ダヴィッド・ビヴィン氏はこの箇所をどのように理解したかを見てみたいと思います。彼は、この箇所はヘブライ語に翻訳してみると完全に意味がはっきりすると述べています。
  • 以下、前掲書127~130頁から随時引用します。

    イエスは、『生木』と『枯れ木』という語をエゼキエルの預言(エルサレムとその神殿について)に出て来る箇所から引用した(エゼキエル書20:45~21:7)。比喩的に、『生木』は義人を、『枯れ木』は邪悪な人を指す。神が起こした山火事は、ネゲブの森を焼き尽くしていく。火熱があまりに激しいため、『生木』でさえ燃え落ちてしまう。

    残酷な刑場への途上、イエスは自分のために嘆き泣く女性たちのことも忘れなかった。なんと恐ろしい破壊がやがてエルサレムの上に襲いかかろうとしていることか! 彼女らやその子らを呑み込もうとして。エゼキエル同様に、イエスも胸の張り裂ける思いだった。

    それゆえ、人の子よ、嘆け、心砕けるまでに嘆き、彼らの目の前でいたく嘆け。人があなたに向かって、『なぜ嘆くのか』と言うなら、『この知らせのためである。それが来れば人の心はみな溶け、手はみななえ、霊はみな弱り、ひざはみな水のようになる。見よ、それは来る、必ず成就する』と言え(エゼキエル書21:6~7)。

    福音書によれば、女性たちはイエスのために泣いていた。しかし、もし彼女たちがその後にやって来ることを知っていたなら、自分たちのために泣いていたことだろう。イエスは言う。「わたしのために泣くな。自分のために泣くがいい。もし彼ら(ローマ人)がわたしにこの事をするなら、あなたたちに何をするだろうか。」と。

    言い換えれば、もしこのような事がエゼキエル書20:47の『生木』(すなわちイエス)に起こるとすれば、『枯れ木』(すなわち、ユダヤ人の指導者たち)にはどんな事が起こるだろうか。『枯れ木』も、ローマ人の手によって同様な、否、さらにひどい運命に陥らされるだろう。

    ここでの聖句においてイエスは自分を『生木』と譬えているが、それは明白にメシア的主張とされるエゼキエル20:47の『生木』である。

  • イエスは自ら「わたしはメシアである」と発言したことは一度もありません。むしろ、旧約聖書の表現を使いながら、イエスは自分がメシアであることをいろいろな機会で発言されていたのです。「人の子」も然りです。そしてここでの「生木」も実はメシア的宣言なのです。

2012.10.25


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