****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

異教の民と互いに縁を結んではならない

【補完】01. 「異教の民と互いに縁を結んではならない」


聖書箇所 7章1~8節

●モーセの語った訣別説教は、エジプトを出たイスラエルの民の第二世代に語られたように設定されていますが、バビロン捕囚を経験した新しい世代に対してのものだとも言えます。彼らはバビロンの地において、かつてモーセが語っていた「トーラー」(主のみおしえ)を思い起こし、やがてモーセ五書へと編纂していったと考えられます。

●使徒となったパウロが、太陽よりも強烈な「天からの光」に照らされたことで、目が見えなくなり、三日後に、「目からうろこのようなものが落ちて」、それまで迫害してきたイェシュアこそ旧約聖書が啓示してきたメシアであることを悟ることが出来たように、バビロン捕囚を経験したイスラエルの民は、その捕囚という憂き目の中で、トーラーのすばらしさを再発見し、神を知ったのでした。

●詩篇119篇の中に、「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください」(新改訳)という祈りがあります。新共同訳では「あなたの律法の驚くべき力にわたしは目を注ぎます。」と訳しています。ここで「開く」と訳されたヘブル語の「ガーラー」(גָּלָה)には、「覆いを取り払う」という意味と、使役形(ヒフィル態)では「捕囚に連れて行かれる」という意味があります。イスラエルの民の捕囚経験は、まさにパウロの「天からの光による開眼」と同じ経験だということです。いずれもこの経験は「裸にされる」ことであり、ある意味において、自己崩壊を意味します。この自己崩壊を通して、初めて神のみおしえのうちに隠されていた啓示のすばらしさに目が開かれたと言えます。

●そのようにしてイスラエルの民はトーラーによって新しく回復されたのです。ですから、申命記にあるおしえ(命令、警告、戒め)は、単なる冷たい法令集のようなものではなくて、神の恩寵と誠実に基づいた、神と人との生きた人格的なかかわりを規定する取り決めなのだと言えます。そのように私たちは申命記を、父が自分の子に対して、その愛のゆえに語っている戒めとして読まなければなりません。特に、7章においては、約束の地における七つの異邦の民(彼らはハムの子孫)に対して聖絶しなければならないこと。彼と何の契約も結んではならないこと。そして彼らと互いに縁を結んではならないという戒めが語られています。捕囚を経験した者たちはこの戒めの意図することがよく理解できたはずです。それは神のご計画に参与できないばかりか、捕囚という痛みを経験する原因ともなったからです。

●特に、結婚に関しての教えは重要でした。七つの異邦の民と互いに縁を結ぶということが禁じられています。その理由は、カナンの先住民と結婚することで、異教が家の中に持ち込まれるだけでなく、異教の神を拝むようになり、第一戒の偶像礼拝の罪を犯すことになるからです。そうなれば、主の怒りがイスラエルの民に向かって燃え上がり、主はたちどころに根絶やしにされると語ったのです。事実その通りになりました。バビロン捕囚の経験をしたイスラエルの民は、それ以来、一切の目に見える偶像は拝まなくなったのです。

●これは今日の日本のキリスト教会においても通ずる戒めです。主にある結婚をするように勧めるためには、教会がそのことを絶えず教えていなければなりません。片親だけクリスチャンという家庭のは、本来、健全な主にある家庭とは言えません。もし、片親だけのクリスチャンがいた場合、主にある家庭建設の踏み直しを子ども余儀なくさせるのです。踏み直しの必要を感じていればまだ良い方です。その必要性を感じていなければ、信仰の継承とその祝福に与ることは、困難だと言わなければなりません。

●すでに両親ともクリスチャンである家庭の場合には、子どもがやがて主を信じる相手と結婚するように、幼い時から、そのことを繰り返し教えて行かなければなりません。主にある家庭は両親の生きる価値観も優先順位も共通ですが、片親だけクリスチャンの家庭ではその説得性が希薄です。

●主にある家庭を建設することは、主が望んでおられるみこころだということ。そして、神の永遠のご計画とも密接なつながりを持っているということを確信しなければなりません。「朱に交われば赤くなる」ということわざがあるように、神の民が世と交わるなら、その多くが世の民となってしまうというのが現実です。神を信じるクリスチャンが未信者の相手と結婚することで相手をクリスチャンに変えられると考えるのは妄想であり、傲慢であり、神を試みることでもあります。むしろ予期しない苦労を背負うことになります。そうなってからでは遅いのです。それゆえ、ミイラ取りがミイラになってしまわないように、主の教えのすばらしさに目を留め、主を恐れなければなりません。

●どうしてそこまでしなければならないのでしょうか。それには明確な理由があるからなのです。そのことをモーセは申命記7章6~8節で語っています。

【新改訳改訂第3版】申命記7章6~8節
6 あなたは、あなたの神、【主】の聖なる民だからである。
あなたの神、【主】は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。
7 【主】があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が
多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。
8 しかし、【主】があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られた
から、【主】は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から
あなたを贖い出された。

●引用した箇所だけをコンテキストを無視して読むならば、主のみこころは到底、理解できないはずです。「聖なる民」とは、「分離された民」という意味であり、「聖なる民」となるために、この世の支配から、特別に神に選ばれた民なのです。その選びは神の宝の民とするためです。ですから、神のみこころに従わなければならないのです。

●そもそもイスラエルの民の父祖であるアブラムは「ヘブル人」と呼ばれました (創世記14:13)。それは彼が「川を渡って来た者」であり、「寄留者」であったからです。「ヘブル人」のことをヘブル語では「イヴリー」(עִבְרִי)、冠詞付だと「ハ・イヴリー」(הָעִבְרִי)と言います。その語源は動詞の「アーヴァル」(עָבַר)から来ています。この動詞は、川を渡るだけでなく、ある領域からある領域に渡る、移ることを意味します。ちなみに、使徒パウロはキリスト者のことを次のように表現しています。

●【新改訳改訂第3版】コロサイ書1章13節
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

●上記のみことばの「移してくださいました」という部分をヘブル語にすると、「アーヴァル」(עָבַר)という動詞になります。キリスト者(クリスチャン)とは、「暗やみの圧制」から「愛する御子の支配の中に」移された者、つまり、人間中心の世界から神中心の世界へと渡って来た者、移された者、これこそまさに霊的なヘブル人と言えるのです。それゆえ、御子の支配の中に移された「霊的なヘブル人」としての歩みが神に期待されているのです。


2017.9.5


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