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目の見えない二人の人と口のきけない人の癒し

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36. 目の見えない二人の人と悪霊につかれて口のきけない人の癒し

【聖書箇所】マタイの福音書9章27~34節

【新改訳2017】マタイの福音書9章27~34節
27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
30 すると、彼らの目が開いた。イエスは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われた。
31 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言い広めた。
32 その人たちが出て行くと、見よ、人々はイエスのもとに、悪霊につかれて口のきけない人を連れて来た。
33 悪霊が追い出されると、口のきけない人がものを言うようになった。群衆は驚いて、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言った。
34 しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言った。


ベレーシート

  • 今回は「目の見えない二人の人のいやし」(27~31節)と「悪霊につかれた口のきけない人のいやし」(32~34節)の記事です。この二つの記事はワンセットになっています。その理由として、それらは一つの家で起こった出来事だからです。その家が誰の家であったかについての言及はありません。二人の「目の見えない人」は、その家にいるイェシュアのもとに来て癒しを受けています。一方の「悪霊につかれた口のきけない人」も、人によって連れて来られたことで癒されています。いずれのいやしも「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」と言う群衆と、「彼(イェシュア)は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」と言うパリサイ人たちの反応に分かれてしまったのです。つまり、彼らのいやしが人々にどういう反応をもたらしたかが論点となっています。特に後者の方は、後に再度「ベルゼブル論争」に発展していきます(12:22~37)。こうした真逆の反応こそ「天の御国」がそこにあることのしるしでもあるのです。

1.「そこから進んで行くと」という表現

  • 今回のテキスト27節にある「イエスがそこから進んで行くと」(新改訳2017)という表現に注目したいと思います。一見、何ら目に留らない表現のように思える箇所です。ちなみに、新改訳改定三版では「イエスがそこを出て、道を通って行かれると」と訳され、新共同訳は「イエスがそこからお出かけになると」となっています。ある地点から「進んで行くと」と訳されたギリシア語は「パラゴー」(παράγω)という現在分詞が使われています。この「パラゴー」は「傍(かたわ)ら」を意味する「パラ」(παρά)と「通り過ぎる」を意味する「アゴー」(άγω)からなる合成語ですが、これをヘブル語にすると「アーヴァル」(עָבַר)となります。この動詞はとても重要で、この動詞が名詞化すると「イヴリー」(עִבְרִי)、つまり「川を渡って来た者」という意味で「ヘブル人」となります。「川を渡って来る」という真の意味は、人間中心の世界(ヘレニズム)から神中心の世界(ヘブライズム)に渡って来た者という意味であり、この世において神のご計画を指し⽰す者を意味します。
  • 聖書で最初に「ヘブル人」と呼ばれた人は、イスラエルの父祖「アブラハム」です(創世記14:13)。ところが、アブラハムから始まるイスラエルの民が本来歩むべき道を歩まなかったために、イェシュアはイスラエルの失敗を踏み直すために御父から遣わされました。イェシュアはイスラエルの民に示された神のご計画とみこころ、その御旨と目的のいわば完結者(完成者)です。ですからイェシュアのすべての行為・言動は、神のご計画と目的に従っているのです。今回の「そこから進んで行くと」には、単に、イェシュアがある地点から別の場所へ進んで行くという意味ではなく、神のご計画にある重要な事柄が隠されているのです。
  • ある註解書によれば、「そこから進んで行くと」という表現は一般的には「会堂司の家を出て」と解釈されるが、むしろ「新しい話題を始めるときの導入句と考えた方がよい。」とあります。しかし、マタイの福音書で新しい話題となる場面は数多く、この言葉では何をもって新しい話題なのかがはっきりしません。しかもこの表現はマタイの福音書で、わずか3回(9:9、9:27、20:30)しか使われていません。しかしながら、この表現にはイェシュアが天の御国のメシアであることと深く関係していることが分かるのです。そのことを簡単に論証してみたいと思います。最初の「そこから進んで行くと」は9章9節です。

(1) 9章9節

【新改訳2017】マタイ の福音書9章9節
イエスはそこから進んで行き、マタイという人が収税所に座っているのを見て、それ「わたしについて来なさい」と言われた。すると、彼は立ち上がってイエスに従った。

  • どこからどこに向かって進んで行くのかを知るためには、その前後関係を見なければなりません。マタイの8章から9章8節には「イェシュアに与えられた権威」が記されています。病を癒す権威、みことばの権威、自然界を支配する権威、悪霊を追い出す権威、そして罪を赦す権威がイェシュアに与えられています。その権威を間近に見た人々は恐れて、「このような権威を人(イェシュア)にお与えになった神をあがめた」(9:8)とあります。そして9章9節の「そこから進んで行くと」とあり、罪人の代表ともいえる「取税人マタイが召し出される」という出来事が続いています。彼がイェシュアによって招かれたということで、取税人や罪人と言われた人々がイェシュアと食卓を共にします。これはやがて罪赦された罪人たちが「天の御国」において、主との親しい食卓にあずかるという終末的祝福の「型」としての出来事です。そしてそれに続いて、不治の病である「長血の女」が癒やされ、また死んでしまった「会堂司の娘」が起き上がるという出来事が記されています。「長血の女」も「死んだ娘」も、そのいずれもがイスラエルの民を表わしている「型」としての出来事であり、天の御国では神の民のどんな病も癒され、たとえ死んだとしても生き返るということが啓示されています。すなわち、「罪の赦し」によってもたらされる「天の御国の祝福」について話が展開しているのです。

(2) 9章27節

  • 次の箇所である9章27節には、イェシュアが「進んで行くと」、そこには「目の見えない二人」が登場し、「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫んで目が開かれます。イェシュアが神のご計画に従って「進んで行くと」、「目の見えない人」たちの目は開かれ、「悪霊につかれた口のきけない人」の口はものを言うのです。これはイェシュアこそ旧約に預言されていた紛れもないメシアであることの証拠です。ところがイェシュアは、「目の見えない人」たちの目が開かれたことを「だれにも知られないように気をつけなさい」と厳しく命じられます。しかしその命令は守られず、「こんなことはイスラエルで、いまだかつて起こったことがない」という群衆と、「彼は悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」というパリサイ人たちとの真逆の反応に分かれていくのです。特に、パリサイ人の反応はその後さらに発展して、イェシュアへの殺意につながります。

(3) 20章30節

  • マタイの16章21節以降から、イェシュアは初めて自分がエルサレムにおいて、受難と死、そして三日目によみがえらなければならないことを繰り返し弟子たちに示し始められます。しかし弟子たちはこのことをまったく悟ることができません。そして、やがてイェシュアの一行が最後のエルサレムに近づいた一週間前に、三度目の「通られる」があるのです。つまりギリシア語の「パラゴー」(παράγω)、すなわちヘブル語の「アーヴァル」(עָבַר)があるのです。そしてそこにも「目の見えない二人の人」が登場するのです。これは偶然ではなく、意図的にマタイは書いているのです。つまり、「目の見えない二人の人」はイェシュアによって目が開かれた後、イェシュアについて行っています。

【新改訳2017】マタイの福音書20章29~30節、34節
29 さて、一行がエリコを出て行くと、大勢の群衆がイエスについて行った。
30 すると見よ。道端に座っていた目の見えない二人の人が、イエスが通られると聞いて、「主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ。
34 イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

  • このように、三つのギリシア語「パラゴー」(παράγω)、ヘブル語の「アーヴァル」(עָבַר)を見てくると、そこにはイェシュアが神の権威を与えられた者として、特に罪の赦しの権威を与えられた者であることが示された後、取税人のマタイを召したことで、主が罪赦された者と天の御国において食卓を囲むという祝福があること、イスラエルの民が長血の女にたとえられるように、神の律法によって癒され、死んだように見えたイスラエルが再びいのちを回復するということが啓示されています。これはメシア王国(千年王国)によって実現することですが、イェシュアがメシアであるという点において欠かせない重大なことがあるのです。そのことが、9章27節と20章30節の「目の見えない二人の人」の開眼によって示そうとしておられることなのです。つまり、イェシュアをメシアとして正しく理解させるために、神がご計画しておられることに、私たちの目を開かせようとしておられることが見えてくるのです。その意味でこのわずか3回(9:9、9:27、20:30)しか使われていない語彙は重要だと言わなければなりません。

2. 目の見えない二人の人の開眼

  • 「目の見えない人」の目が開かれたという記録は、旧約にも、またイェシュアの以降の初代教会にもありません。マタイの福音書には「障がい者」と言われる人が記されています。例えば、

①目の見えない者(τυφλός(テュフォロス))―悪霊につかれて目が見えず(τυφλός)
②足の不自由な者(χωλός(クォーロス))
③ツァラアトに冒された者(λεπρός(レプロス))
④耳の聞こえない者(κωφος(コーフォス))=口のきけない人(κωφός(コーフォス))⇒「耳の聞こえない者」(κωφός)たちと「口のきけない人」(κωφός)たちとは同義である。
⑤手足の曲がった人(κυλλός(キュッロス))
⑥中風の人(παραλυτικός(パラリュ―ティコス))

―などです。ところでイェシュアのいやしの奇蹟で最も多いのは何でしょぅ。驚くなかれ、実は「目の見えない人」たちの開眼です。「目の見えない人」の目が開かれることはメシア来臨の一つとして預言されていました。「その日」、「そのとき」とは、本来メシア王国(千年王国)を指していますが、そのデモンストレーンとしてイェシュアが来臨(初臨)したとき目が開かれています。再臨された時はすべての聖徒たちの目は開かれ、神のトーラー(みおしえ)が理解されるようになるのです。そのことが以下の旧約預言で知ることができます。

【新改訳2017】イザヤ書 29章18節
その日、耳の聞こえない人が、書物のことばを聞き、目の見えない人の目が、暗黒と闇から物を見る。

【新改訳2017】イザヤ書 35章5 節
そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開けられる。

【新改訳2017】イザ 42:18
耳の聞こえない者たちよ、聞け。目の見えない者たちよ、目を凝らして見よ。

  • これらのみことばを注意深く見ると分かるように、「目の見えない者」と「耳の聞こえない者」がセットで語られています。「耳の聞こえない者」(κωφός(コーフォス))と「口のきけない者」(κωφός(コーフォス))とは同義(聾唖者(ろうあしゃ))だからです。つまり、マタイの9章27~34節(今回のテキスト)においてイザヤの預言が成就していることになります。
  • 旧約において、エリヤやエリシャが多くの奇蹟を行いましたが、目の見えない者の目を開けたり、耳の聞こえない(口のきけない)者をいやしたりする奇蹟はありませんでした。イェシュアだけがその奇蹟をしています。イェシュアは自分の口で自分こそメシアであるとは言いませんでしたが、目の見えない者の目を開けたり、耳の聞こえない(口のきけない)者を癒したりする奇蹟を通して、そのことを示したのでした。
  • イェシュアがある目の見えない者を癒された後、「わたしは裁きのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39~40)と語っていますが、それは霊的世界に対する盲目と関連付けて言われたのです。

3. 目の見えない二人の信仰

  • ここで、イェシュアのことを聞きつけた「目の見えない二人の信仰」を見てみましょう。彼らの目は見えませんでしたが、耳は聞こえています。イェシュアのことを聞いていたのです。その彼らがイェシュアの入られた家に彼らも入り、イェシュアのもとに来た(近づいた)のです。そして彼らが言ったのは「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」でした。

(1) 「ダビデの子」

  • この呼び名はメシアの称号であり、マタイはイェシュアがダビデの子孫であることを明確に記しています(マタイ1:1)。イェシュア自身はこの称号を用いられませんでしたが、人がそう呼ぶことは容認されました。油注がれた王(メシア)を賛美する詩篇のひとつである詩篇18篇の冒頭と結末は、以下のようになっています。

1節「彼はこう言った。・・・」・
50節「主は、王に救いを増し加え、油そそがれた者、ダビデとそのすえに、とこしえに恵みを施されます。」

  • 冒頭の1節の「彼」とはダビデのことであり、50節の「王」もダビデです。「ダビデとそのすえ」の「すえ」(子孫)が単数形で表されており、メシアを示唆しています。なぜなら、ダビデ契約において、永遠の王国がダビデの子孫であるメシア(イェシュア)によって成就することが神によって約束されているからです。このような預言を「目の見えない二人」は聞いていたと考えられます。

(2)「私たちをあわれんでください」

  • 「あわれむ」という言葉は、ギリシア語では「エレエオー」ですが、ヘブル語にすると「ハーナン」(חָנַן)となります。ヘブル語の「ハーナン」(חָנַן)は、相手側の「一方的な恵み、好意を向ける、好意を持つ」ということがないと成立しません。ですから、彼らは「あわれんでください」と嘆願しているのです。

(3) 「信仰」による開眼

  • イェシュアは彼らに対して「私にそれができると信じるのか」と尋ねます。彼らは「はい、主よ」と答えています。信仰という通路がなければ、彼らの目は開くことができないからです。そこでイェシュアは彼らの目に直接さわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言うと、彼らの目が開いたのです。彼らはイェシュアが約束されたメシアであることを信じたことで目が開いたのですが、ギリシア語原文には「あなたがたのその信仰」と冠詞つきとなっています。

(4) 心の目が開かれる

  • 聖書で「目が開かれる」という場合、心の目が開かれることを意味します。心にも目があるのです。むしろこのことが重要です。詩篇119篇の作者も「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇(くす)しいことに目を留めるようにしてください。」と祈っています。この願いは、神のみおしえである「トーラー」の中に啓示されている神のご計画とみこころ、御旨と目的に、心(霊)の目が開かれることを求める祈りです。つまり、それは旧約の預言者たちが見た幻を正しく理解することにつながります。今日のキリスト教会は、心の目が開かれて、神がなそうとしておられることにより強い関心を持ちつつ、天の御父の心を深く悟る必要があります。そのために、御霊の助けによって、聖書を読み直すことが求められているのです。新約では使徒パウロが心の目の開眼を祈り求めています。

【新改訳2017】エペソ人への手紙1章17~19節
17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、
19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。

  • ここでの「心」ということばが使われていますが、これは感情的な領域の「心」ではありません。ギリシア語の「カルディア」(καρδία)は知性、感情、意思の領域を表す「心」を意味しますが、ヘブル語の「レーヴ」(לֵב)、あるいは「レーヴァーヴ」(לֵבָב)は、私たちが脳の働きと考える機能を司ります。つまり、理解(力)、判断(力)、分別力、考える力を意味します。つまりイェシュアが復活後に弟子たちの心を開かれたということは、彼らが聖書の啓示を正しく理解し、論証することのできる力を与えるためなのです。
  • エペソ人への手紙の祈りの中にある三つの祈りの内容は、すべて神のご計画における目的にかかわる事柄です。つまり、心の目がはっきり見えるようになって知るべきことは、以下の事柄についてです。
    ①神の召しによって与えられる望みがどのようなものか
    ②聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか
    ③信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか
  • これらの事柄に将来のことです。心の目が開かれて、それらを知ることは、天の御国のすばらしさを知ることと同義です。目の見えない人が見えるようになったことは、単に肉体の視力が回復することではなく、心の目が開かれることの「型」です。これは人間の力でできることばなく、神の力によるものです。その意味において、私たちの心の目が開かれるように、神を知るための知恵と啓示の御霊が与えられるように祈り求めなければなりません。

4. メシアの秘密

  • 最後に、イェシュアが彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われたこと目を留めたいと思います。なにゆえにイェシュアは目が開かれたことを秘密にするように言われたのでしょうか。テキストでは「彼らに厳しく命じて」とあります。このことばは心の憤りを含んだ命令です。なぜこんな厳しい命令をしたのでしょうか。メシアでしかできないことをイェシュアはされたのです。目の開かれた者もそのことを信じたのです。彼らは自分たちが癒されたことで、イェシュアこそメシアであることをますます確認したに違いありません。そして旧約に預言されているメシア王国(千年王国)が近いと思ったことでしょう。それを人々に伝えようとするのは自然なことです。しかしそれは神のご計画とは違っていました。それゆえイェシュアは人々が誤解されたメシア観を持たないようするため、彼らに「だれにも知られないように気をつけなさい」と厳しく命じられたのでした。
  • 実は、イェシュアがメシアであるための必要不可欠な条件は、イェシュアが「栄光の前に苦しみを受ける」ということです。もしイェシュアが十字架の死を経験しなかったならばどうなるでしょう。イェシュアはメシアではなかったことになります。このことをイェシュアの弟子たちは悟れませんでした。彼らがそのことを悟ることができたのは、イェシュアが復活してからのことです。マタイには記されていませんが、ルカはそのことを詳しく伝えています。それによれば、イェシュアに望みを抱いて従ってきた二人の弟子たちが、イェシュアの死に絶望して自分の村に帰る途上で復活したイェシュアに出会いました。彼らはイェシュアだと知らずにいましたが、イェシュアは彼らにこう言いました。

【新改訳2017】ルカの福音書24章25~27節
25 そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
26 キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
27 それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。

  • 今回、イェシュアによって目を開かれた二人はルカ24章26節にあることばを理解していませんでした。それゆえイェシュアは彼らに厳しく命じて、「だれにも知られないように気をつけなさい」と言われたのでした。このことは、神のご計画をよく知るべきことを私たちに教えています。イェシュアに出会ったとしても、自分に都合のいい面だけを信じて全体を知ることがないのは、イェシュアが言うように「愚かな者であり、心が鈍い者」なのです。神のご計画の全体を、聖書を通して、余すことなく知ることが私たちひとり一人に求められているのです。   
                              

    2018.8.19


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