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瞑想(1)「全き道」

א アーレフ 瞑想(1) 「全き道」

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  • 「幸いなことよ。」ではじまるフレーズを持つ詩篇は、119篇を含めて、詩篇全体で17篇あります。それは神と人(あるいは民)とのかかわりにおける求道性の結論的フレーズです。このフレーズの中に、旧約の人々が幸福をどのように見、どのように求め、経験していたか知ることができます。「幸福への求道性」、それは「愛に満ちた神との一体感への希求」と言い換えることができます。それは決して完成体ではなく、常に、進行形です。新約聖書では「永遠のいのち」ということばで総括されています。
  • 詩119篇における「幸い」は「全き道を行く人々」、すなわち「主のみおしえによって歩む人々」。あるいは、「主のさとしを守り、心を尽くして主を尋ね求める人々」と結論づけています。ここで述べられていることが、続く21のブロックでも追求されています。
  • 詩篇特有の同義的並行法によって、「全き道を行く人々」(Perfect way)とは、「主のみおしえによって歩む人々」のことであり、「主のみおしえによって歩む人々」が、次節で 「主のさとしを守る人々」、「心を尽くして主を尋ね求める人々」だと言い換えられています。このように、「全き道を行く人々」、「主のみおしえのよって歩む人々」、「主のさとしを守る人々」、「心を尽くして主を尋ね求める人々」はみな同義なのです。
  • 「守る」とは、神が私たちに求めておられる戒め(律法=教え)を堅く守ることであり、それは 「当為」(当然なすべきことと)です。しかし「心を尽くして主を尋ね求める」ことは「当為」ではなく、あくまでも「自意」(自分から求めること)によるものです。この「当為」と「自意」が重なることこそ、「主のみおしえによって歩む」ことであり、「全き道を行く」ことです。 この「全き道」を歩んだ唯一のモデルは神の御子イエス・キリストです。イエスこそ「全き道」の創始者であり、完成者です。
  • 第一ブロック(1~8節)では、作者が「主の道」(3節)と、「私の道」(5節)とがしっかりと重なることを求めています。私たちは生まれながらにして、「心を尽くして主を尋ね求める」ことのできない者です。どのようにしてその二つの道が重なり得るのか、その「重なりの秘義」こそ、詩119篇全体の重要な瞑想のテーマであると信じます。

  • さて、旧約聖書ではじめて「全き人」(ターミーム)と称される模範的人物はノアです。次に、神はアブラハムに対して「全き者であれ」と要求しています。アブラハムは神の約束を自分の考えで実現しようとしてイシュマエルをもうけましたが、それは約束の子ではありませんでした。13年間という空白の後に神は99歳のアブラハムに現われて、「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と要求しました。この「全き」とは神に対する完全な信頼を意味しています。やがてこの神の要求を完全に果たすために遣われた人物こそ、神の御子イエス・キリストです。御子イエスの全生涯の使命は、自分を遣わされた御父に対する完全な信頼をこの世において完全にあかしすることでした。
  • 詩篇119篇の最初の段落で「幸いな人とは、全き道を行く人々」だと宣言しているのは「人称なき存在」ですが、やがては、聖霊としてその存在が明らかにされる方です。イエス・キリストの生涯においては、この聖霊なるお方が常に寄り添うようにして御子の歩みを支えておられました。聖霊なる方の助けなくして、御子イエスも人として「全き者」であることはできなかったのです。とすれば、なおのこと、私たちもそうです。詩篇119篇の「私」とは、私たちの信仰の創始者であり、完成者でもあるイエス・キリストとして考えながら味わうことが多くの益をもたらすに違いありません。

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