****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想(1)「学ぶ」

ט テイト瞑想(1) 「学ぶ」

テキスト| 瞑想(2)|

  • この段落では、71節の「苦しみ会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」を味わいたいと思います。特に、「学ぶ」という動詞は、詩篇では119篇にしか出てこない言葉です。7節にも「あなたの義のさばきを学ぶとき、私は直ぐな心であなたに感謝します。」とあります。これは、学べること自体が感謝だという意味です。73節にも「あなたの御手が私を造り、私を形造りました。どうか私に、悟りを与えてください。私があなたの仰せを学ぶようにしてください。」という祈りもあります。
  • また、「学ぶ」「教える」はおなじ動詞「ラーマド」לָמַד(lamad)です。この段落では66節と68節に「教えてください」とあります。71節の「学ぶ」を含めると、この段落だけで3回、「ラーマド」がלָמַד(lamad)使われていることになります。
  • 「聖書を学ぶ」ことと「聖書に学ぶ」ことには微妙な違いがあります。73節の「悟り」が与えられることと、「学ぶ」こととは同義です。71節では、苦しみを通らなければ学び得なかったことがあったことを作者は記しています。それゆえ、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」と述べているのです。
  • 「学ぶ」とは、神とのかかわりにおいて、新しい意味を見出す体験です。そうした新しい意味が生まれる瞬間には、必ず喜びが伴います。そしてこの喜びは人間にとってとても根源的なものなのです。それゆえ、「学ぶ」ことは、生きる喜びにつながるのです。この喜びを感じっているキリスト者は幸いです。「学び」は暗やみを突き破り、未来を照らす力をもたらします。
  • また、「学ぶ」ことは、単に頭で、知識的に学ぶという意味ではなく、からだで学ぶという意味合いが強いように思います。あるいは、弟子が師匠のすることを見て倣う、盗むことを通して身に着けることでもあります。ハングリー精神と忍耐が求められる修業でもあります。師匠から学んだ者だけが、はじめて一人前になり得る世界です。
  • イエスは言われました。「わたしは心優しく。へりくだっているから、あなたがたも、わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」 ここでの「安らぎ」とは単なる心の平安という意味ではなく、神の祝福の総称である「シャローム」を意味します。また、「あなたがたは」ではなく、「あなたがたも」とあることに注意しなければなりません。「あなたがたも」とは、「わたしも」という前提があります。その前提とは、御子イエスも御父のくびきを負って歩んだということです。それと同様に、という意味合いが込められています。
  • 信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストにいつも目を注いで、この方を見倣うことにこそ、「学び」の真骨頂があると信じます。そのようにして、神の律法は、「私にとって幾千の金銀にまさるものです。」(72節)と告白できるのです。
  • 詩篇119篇における「学ぶ」とは、キリスト道を生きることです。つまり、キリストを唯一の模範として、キリストの心を心として、キリストのように生きることです。御父は私たちをキリストを通してあるがままの私たちを愛して下さいましたが、同時に、キリストのように御父を信頼して生きることを望んでおられます。御霊も私たちが「主の栄光を反映させながら、・・・主とおなじかたちに姿を変えて」くださろうとしておられます。(Ⅱコリント4章18節)


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