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瞑想(1)「愛と憎」

סサーメフ瞑想(1) 「愛と憎」

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  • 詩篇のパラレリズム(並行法、あるいは対句法)は、旧約思想の本質を提示する上できわめて重要な叙述法です。113節の「私は二心の者どもを憎みます。しかし、あなたのみおしえを愛します。」にある「憎む」と「愛す」とは、一見、反対語ですが、内容的には同義です。つまり、「愛することは、憎むこと」でもあるのです。ユダヤ人の特性としてそれはきわめてはっきりとしています。イエスの次の言葉がよくそのことを表わしています。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神に仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24) ここには日本人のような中庸的特性は見られません。
  • サメクの段落における相反する語彙(動詞)
    積極的表現 消極的表現 
    礼拝用語「愛する」(v.113,119、アーハヴאָהַב)「憎む」(ヒv.113、サーナーשָׂנָא)
    恩寵用語「支える」(V.116,サーマフסָמַךְ)、「支える」(v.117,サーアドסָעַד)、「生かす」(v.116,ハーヤーהָיָה)「救う」(v.117,ヤーシャーיָשַׁע)「卑しめる(打ち捨てる、v.118, サーラーסָלָה)、「取り除く」(断ち滅ぼす、v.119, サーヴァーשָׂבָה)


  • ここサメフの段落では、憎む対象が「二心」となっていますが、104,128,163節では「偽りの道」となっています。ちなみに、「二心」と訳された「セエフ」は、旧約聖書中では119:113にしかない言葉です。どっちつかずの心、分かれている心を表わすことばです。霊性の回復の鍵は、この「二心を憎む」ことであり、主に対する鳩のように一途さを取り戻すことです。
  • ところで、「二心の者を憎む」と「みことば(主)を愛する」ことはコインの裏表のように同義です。ヤコブの手紙1章5~8節には、このことをうまく表現しています。「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。」
  • ちなみに、新約聖書で「二心」δίψυχοςということばは2回だけです。しかもヤゴブ書(1:8, 4:8)に出てきます。
  • ヤコブの手紙1:5~8によれば、主を愛するということは、「だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神を少しも疑わずに信じること」です。そして「きっと与えて下さると信じて願うこと」です。父なる神の本質は「与える」ことにあります。しかも良いものを惜しげもなく与えます。神とのかかわりは信じることから始まりますが、それは終りもそうです。御子イエスは信仰の創始者であり、完成者です。神とのかかわりの土壌は信頼すること、つまり愛することです。ここがしっかりしていないと良い実を生み出すことができません。
  • ヤコブのいう「憎むこと」とは、神を信じながらも、神に対する疑いや不信を持つことです。そのような人は「風に吹かれて揺れ動く、海の大波」のようであり、「その歩むすべてに安定を欠いた人」だとして、当然「神から何かをいただけると思ってはならない」と結論づけています。
  • 詩119篇の作者がそのような「二心の者を憎みます」と告白していることは、主を愛しますという主への一途な心の表われです。「愛することは信じること、愛することは二心を憎むこと」です。私は、「主よ。不信仰なこの私を、二心のあるこの私を赦してください。私をいのちの道に導き、あなたをより深く愛する者とさせてください。」と祈ります。


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