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瞑想(2) 「友」

ח ヘット瞑想(2) 「ともがら(友)」

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  • 63節「私は、あなたを恐れるすべての者とあなたの戒めを守る者とのともがらです。」(新改訳)
  • 「ともがら」と訳されたハーヴェルחָבֵר(chaver)は、旧約で12回、詩篇では2回(45:7,119:63)のみです。()
  • 119:63にある「ともがら」、つまり「友」ということばは、詩篇119篇においてここ1箇所ですが、詩篇119篇の作者は、異教の地(バビロン)において、同じく神を恐れ、神の戒めを守る(キープする)者たちとフレンドシップを持っていたことを表わす重要な箇所です。NIV訳では I am a friendと訳されていますが、NKJV訳では、I am a companion と訳しています。つまり「同伴者」です。それは同じ信仰の道を共に歩く存在であり、相手をあるがままに受け入れていく存在です。そのような者と分かち合ちあうことを通して、自分も相手も共に建て上げられていくかかわり、それが「同伴者」です。詩篇119篇の作者は自ら「同伴者」となり、また相手の「友」となっていたことを伺わせます。
  • 信仰におけるフレンドシップは多ければ良いということではありません。自分は多くの友を持っていると言うのは、真の友がいないことを言っているようなものです。真の同伴者は少数、二人か三人で十分なのかもしれません。伝道者の書4:9~12にはこうあります。

    9
    ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
    10
    どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
    11
    また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
    12
    もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

    【新改訳改訂第3版】

  • イエス・キリストも「二人でも三人でも、わたしの名において集まるところ、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)という特別な臨在の約束をされました。とすれば、神を恐れ、神を知ることにおいて、分かち合える信仰の「友」を、神がひとりひとりに与えてくださるに違いありません。その「ともがら」こそ、この地上において神の「いのち」をつないでいく者たちとなるのだと思います。

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  • 詩篇45篇はソロモン王をたたえる歌ですが、イエス・キリストを預言しています。特に、7節では「あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた」とあります。「あなたは」とは「神」でもあり、それは御子を預言的に示しています。「あなたの神」とは御父のことです。御父は御子に喜びの油を、御子のともがらにまして、注がれたとしています。

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