瞑想(2) 「奇しいこと」
詩篇119篇の22の瞑想の目次
ギメル瞑想(2)「奇しいこと」
- ギメル瞑想(1)では、18節の「私の目を開いてください」という嘆願をキーワードとしましたが、瞑想(2)では、その嘆願の理由である「あなたのみおしえにある奇しいこと」をキーワードして味わってみたいと思います。
- 18節の「あなたのみおしえにある奇しいこと」をいろいろな聖書の翻訳を開いてみると、新共同訳では「あなたの律法の驚くべき力」と訳されています。関根訳では「あなたの律法のうちにある妙なるもの」、フランシスコ会訳では「あなたの教えのすばらしさ」、バルバロ訳では「あなたの法の不思議」、LB訳では「おことばの中に隠されているすばらしい祝福」、NIV訳では“wonderful things from Thy law” と訳されています。
- 神のトーラーのうちにある「奇しいこと」「妙なるもの」「教えのすばらしさ」「驚くべき力」「すばらしい祝福」と表現されたその実体(正体)はいったいどのようなものなのでしょうか。作者の目が開かれて、目をとめたいと願っているその驚くべき教えとは・・・。
- 「奇しいこと」と訳された動詞のパーラーפָּלָא(pala')は、および名詞のペレ―פֶּלֶא(pele')は、詩篇の特愛用語です。動詞のパーラーפָּלָא(pala')は旧約で73回、詩篇では32回です。特に、歴史化された詩篇(78篇、105篇~107篇)に多く見られます。名詞のペレ―פֶּלֶא(pele')は、旧約で13回、詩篇では7回です。詩篇119篇に限ってみると、動詞は119:18, 119:27の2回。名詞は119:129の1回です。
- 動詞のパーラーが聖書で最初に登場するのは、創世記18:14です。そこには主がアブラハムに「主に不可能なこと(פָּלָא)があろうか。」と記されています。これは「ほんとうに子どもが産めるのだろか」と笑うサラのことでアブラハムに語られた主の言葉です。一方の名詞のペレ―が聖書で最初に登場するのは、出エジプト記15:11のモーセの歌です。そこでは「主よ。・・だれがあなたのように、・・奇しいわざを行なうことができましょうか」と言って出エジプトの過越の出来事、紅海渡渉の出来事を述べています。これらはいずれも神がなされた出来事を指しています。これは神の民が常に思い起こすべきこととして、あるいはそれを余すことなく語り告げるべきこととして、詩篇の中に記されています。神の「不思議さ」は圧倒的に神の「奇しい行為(みわざ)」について語られています。
- ところが、詩篇119篇では、神の「教え(トーラー)」についても、同様の「不思議さ」が述べられているのです。119:18と119:129の2例がそれです。数としてはきわめて少ないのですが、この事実は決して見逃してはならないと思います。
- 神の民が、神の教えの「不思議さ」に目が開かれたのはバビロン捕囚以降のことです。捕囚という「辱しめ」の経験を通して、神の民は神の教えの中にある「奇しい」ことに目が開かれ、それに目を留めるようになったのです。その教えとはモーセ五書のことであり、とりわけ申命記はその総括的位置にあります。申命記の中に記されている教えを守ることは、人間的な目には愚かなことのように見えるはずです。常識を超えた教えです。ですから「奇しいこと」なのです。その教えのすばらしさが分かるためには霊の目(信仰の目)が開かれることが必要です。ですから、119篇の作者は「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」(18節)と祈っているのです。そして目が開かれた結果、「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります。」(129節)と告白し、それに従うことを表明しているのです。その意味で、119:18のみことばはきわめて重要なものだと言わざるを得ません。それは、詩篇119篇が指し示す神の「みおしえ」の本質を表わしているものだからです。
- バビロンからの解放後、祭司であり、律法学者であったエズラのもとに、イスラエルの民は神のみおしえに従って、再び、イスラエルは神の民として本格的に建て上げられていきました。しかし、それ以後の400年にも及ぶ異国による支配(ペルシヤ、ギリシヤ、ローマ)の中で、その歩みは少しずつゆがめられていったことも確かです。詩篇119篇の作者のいう「全き道」を歩むことは、やがて来られるメシアの助けなしには不可能だったのです。
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