****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想(2)「思い」

מ メム瞑想(2) 私の思い

テキスト | 瞑想(1) | 瞑想(3)

119:97
どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。
これが一日中、私の思いとなっています。

  • 前の段落「ラメド」で、「定まっている」(89節)のナーツァヴנָצַב(natsav)、「据えた」(90節)のクーンכּוּן(kun)、90,91節で「堅く立っている」(90,91節)のアーマドעָמַד(`amad)、という「堅固性」を表わす類義語を使いながら、その確かさの中に生かされていることを喜びとしているように、「メム」段落においても、「賢くします」(98節)のハーハムחָכַם(chakham)、「悟りがあります」(99節)のサーハルשָׂכַל(sakhal)、「わきまえがあります」(100,104節)のビィンבִּין(biyn)の類義語を用いながら、作者が「神の知恵」が与えられていることに驚きを感じています。
  • この段落の特徴として挙げられることは、「~より」という比較を表わすミンמִן(min)が4回も使われている事です。「敵よりも」(98節)、「すべての師よりも」(99節)、「老人よりも」(100節)、「蜜よりも」(103節)とあります。
  • 一見、自己自賛しているように見えかねない態度のように思えますが、そうではありません。主イエス・キリストは「敵よりも、すべての教師よりも、老人よりも」知恵があったために、罠に陥れられることはありませんでした。誰もイエスの議論して勝つことはできませんでした。イエスの語る教えも、当時のどんな教師よりも権威があり、力を深みを持っていました。初代教会の最初の殉教者となったステパノも知恵と御霊によって語っていたために、だれも彼に勝つことはできませんでした。逆に、彼を陥れようとしたユダヤ教の議会の者たちの一番痛いところを突きました。
  • そうした知恵を神から与えられていたのは、この詩篇119篇の作者と同様に、神のみおしえであるトーラーを愛し、「一日中」、自分の「思い」としていたからです。この「思い」ということばは、詩篇の特愛用語である動詞「スィーアッハ」שִׂיחַの名詞形で、「スィーハー」שִׂיחָה(siychah)が使われています。旧約ではヨブ記15:4(「祈り」と訳されている)の他には、詩篇119:97と99節の2回しかありません。
  • 「黙想」「祈り」「思いにふけること」「熟考」「研究」を意味するシーハーשִׂיחָה(siychah)は、この段落ではきわめて重要なキーワードです。イエスがそうであったように、日々、神のみことばとどのように向かい合って生きているかどうか、その真価が問われる時が必ず来ます。公生涯に入るまでにも、イエスは律法学者とのやりとりのなかで神の知恵を輝やかせていました。しかし公生涯に入られてからはより一段とその知恵が現わされるようになります。97節の神のトーラーが、一日中、私の思いとなっているという姿勢は、詩篇1篇2節にある「主の教えを喜びとし、昼も夜もそれをそれを口ずさむ」姿勢と照応します。
  • 日ごとの神のことばに対する真摯な取り組みが、信仰者としてのアイデンティティの根を太くしていくのです。

  • 以下、主のみおしえ(トーラー)を愛し、それとじっくり対峙した結果、もたらされた祝福を表わすヘブル動詞とその意味を記しておきます。

    (1) ハーハムחָכַם・・賢くする、堅く振る舞う、知恵を教える
    (2) サーハルשָׂכַל・・悟る、賢くする、成功する
    (3) ビィンבִּין・・理解する、識別する、悟る


powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional