****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想のための視座

第1日「瞑想の視座」 主との友情 

はじめに

(1) ヨハネの福音書はどのような人に対して書かれたのか

  • ヨハネの福音書は決して易しい福音書ではありません。むしろある程度、成熟した者たちの福音書と理解したほうが無難です。それは共観福音書のようにイエスの生涯を順を追って書き記しているようなものではないからです。より深い真理を理解できるようにと意図された福音書なのです。結論を先に言ってしまいますと、ヨハネの福音書とは、「主との友情を深め、育むための福音書」だと言ってもよいかと思います。

(2) ヨハネはなぜもうひとつの福音書を書く必要があったのか

  • ヨハネはなぜ、そのような福音書を書き記す必要性があったのでしょうか。すでに書かれていた共観福音書(マタイ、ルカ、マルコ)の他に、もうひとつの福音書を書く必要がなぜあったのかという問いです。
  • ヨハネの福音書が書かれた時代背景について少しく見ておきたいと思います。聖書に残されているものはすべてそれを書き記す必然性があったと信じます。マタイの福音書は旧約聖書の背景を持っているユダヤ人に分かるように、特に旧約の預言の成就ということに焦点が当てられています。ルカの福音書は異邦人向けに書かれたもので福音がユダヤ人から異邦人に流れていく様子とー使徒の働きも含めてー、そのことに対してユダヤ人たちがなんとか阻止しようとすることを詳細に書き記しています。そして、マルコの福音書では力を誇示するローマの世界に住む人々に対して書き記されたもので、イエスのなされた力ある奇蹟が他の共観福音書以上に詳細に記されています。
  • このようにそれぞれの福音書にしてもそれが書き記される必要性、必然性といったものがあるとすれば、ヨハネの福音書が書かれなければならなかった背景があったということもうなずけていただけると思います。
    第1世紀(初代教会)の出来事―時代背景
  • 図を見ていただくと、イエス・キリストの十字架と復活の出来事があったAD30年頃からヨハネの福音書が書かれる90年頃までの出来事を記しています。(大雑把ですが)使徒のペテロやパウロも殉教の死を遂げ、信仰者も二代、三代と世代が交代していきます。AD70年にはエルサレムと神殿が崩壊しています。これによってユダヤ人たちの運命は変わります。その多くが離散の民(ディアスボラ)となっていろいろな国に散っていきます。世界はローマ帝国の支配の下にあり、迫害が強まってきました。キリストの使徒たちの中で最も長生きしたのは使徒ヨハネです。教会は世代はすっかり交代し、時代の流れとともに、かつての生き生きしたいのちに溢れた信仰は薄れてきました。

教会が拡大し、その規模が大きくなるにつれ、制度として監督とか、執事とか、牧会的な務めをするポストが整えられていきました。

肉体を悪とするグノーシス主義との戦いも余儀なくされ、そのために自分たちは何を信じているのかという信仰告白の明記が必要となり、信仰の弁証をしなければならなくなりました。

  • このように、教会は少しずつ制度化され、組織化され、さまざまな思想との戦いに打ち勝つための整いをするようになっていきました。と同時に、神への信仰のいのちは、少しずつ希薄化し、空洞化していきました。いわゆる「いのちの枯渇」です。そうした危機を感じた使徒ヨハネは、もういちど信仰の「いのち」を回復するために、どうしてももうひとつの福音書を書き記す必要性に迫られたのではないかと私は考えております。
  • ヨハネの福音書には実に多くの「比喩的表現」を見ることができます。これは直感的思考を促しています。「ことば」「いのち」「光」「水」「パン」「羊飼い」「道」「葡萄の木」・・など。それぞれが密接なつながりを持って「生きた主とのかかわり」を指向しています。

1. この福音書の書かれた目的は「いのちを得る」こと

  • ところで、ヨハネの福音書を書いたヨハネはこの福音書しるした目的について書いています。それは、20章31節にあります。
  • イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
  • ここには二つの目的がしるされています。ひとつは「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため」。もう一つは「イエスの御名によっていのちを得るため」です。しかし究極的な目的は、信仰の行きつくところは「いのちを得る」という一点です。これが得られなければ、イエスを信じている本当の意味がない、信仰をあかしすることができない、ということが言えると思います。
  • イエスの御名によって「いのちを得る」・・ここでいう「いのち」とは、生物学的な意味での寿命とか、血が通って生きているという意味ではありません。ここでいう「いのち」とは、永遠のいのち、すなわち、神のいのちという意味であり、神とのかかわり、神との関係性、神との交わりを通して与えられるという意味での「いのち」です。
  • この世に存在する者はすべて関係性を持っています。なんの関係性をもたずに存在しているものはなにひとつありません。木の葉一枚にしても、木の関係を持っています。枯れて地に落ちても、それが微生物によって元素に分解され、木の養分として取り込まれて木を生かすものとなっています。自然界にはなにひとつ無駄なものはないのです。ありとあらゆるものが何らかの関係性をもって存在しているのです。それが自然界のいのちです。そうしたかかわりをもたない存在は「死」そのものです。生きた、豊かなかかわりをもって存在している自然を、私たちは「豊かな自然」だと表現しています。
  • さて、ヨハネの福音書のいう「いのちを得る」とは、神と人とが、その親しい、豊かなかかわりを持つことを意味しています。そのいのちのしるしとは、かかわりの「親しさ」であり、かかわりの「豊かさ」です。またそこにはかかわりの「喜び」があります。それが「いのちのしるし」と言えるものです。
  • 「イエスの御名によっていのちを得る」の前半の「イエスの御名によって」とは、イエスとのかかわりを通して、別の言葉を使えば、実は、それがヨハネの福音書のキーワードなのですがー「イエスとの友情によって」とも言いかえることができるのです。「イエスの御名によって」、つまり「イエスとの友情によっていのちを得る」-それがヨハネの福音書が書かれた目的だと理解してもよいかと思います。

2. いのちを得るためのキーワードは「主との友情」

  • いのちを得る」ための重要なキーワードは「キリストの友」、つまり「主との友情」です。これはヨハネの福音書独自の思想です。「友」ということばは日常の生活ではごく平凡な言葉ですが、新約聖書では「友」という言葉はまれにしか使われません。ヨハネの福音書ではキリストと私たちのかかわりを表わす場合に「友」ということばを使っているのです。
  • 主なる神を「友」と呼ぶにはあまりにもおこがましいという思いがあるかもしれません。確かに、神は私たち人間とは全く異なる存在です。〔超越〕と同時に〔内在〕される神です。私たちのうちに住み、より親密で、個人的な方でもあります。驚くべきことに、私たちは「主との友情を育むことを許され、そこへと招かれています。」―これこそが、ヨハネのいう「いのちを得る」という意味です。
  • 私たちの主イエスは、「神(御父)のふところにおられた方」であり、御父を解き明かされる方です。私たちがその主の友となるということは、神とのより親しい深い交わりができることを意味します。そして聖霊なる方も、友としてのイエスの語られたことばの意味をより深いレヴェルにおいて私たちに悟らせ、理解できるようにサポートをして下さる方です。
  • ヨハネの福音書のキーワードは「主との友情」です。主との友情への招き、しかもその友情を豊かに育むことが許されているというメッセージ、これこそがヨハネの福音書が伝えている重要なメッセージです。その主要テキストとなるべき箇所は15章15節です。ヨハネの福音書にしかないことばがここにあります。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。
  • 「しもべ」と「友」との違いはあきらかです。「しもべ」は主人のすることを知らないが、「友」は知らされるという違いです。また、「しもべ」は主人のためにいつも何かをしなければならないというDoingが強調されるのに対して、「友」は相手のシークレットを知っているというかかわり、つまりBeingが強調されます。
  • イエス・キリストはここで、自分の父から聞いたことをすべて知らせたという点に注目してみましょう。なぜ、父から聞いたことー神の秘密も含めてーを知らせたかと言えば、あなたがたは私の友だからという点です。この「友」としてのかかわりこそが、ヨハネの福音書においてはとても顕著なのです。友として神の秘密を知る者とされる。そのために、友の特権として神のふところ―secret place―に入ることが許されているのです。
  • そのような「主との友情」は、私たちの信仰をゆるぎないものとし、希望はより広げられ、神への愛はさらに深まり、喜びと平安と確信は、私たちを豊かにしていくと信じます。その結果、私たちの祈りの生活は本質的に変わります。自由を感じるようになります。さらには断固とした姿勢でイエスについて行く者となるはずです。日々を「イエスとともに過ごす」ことで、私たちのアイデンティティは、私たちの中にあるのではなく、キリストのうちにあることを見出します。それが私たちをしてブレない信仰を形作っていきます。
  • 主イエスが私たちを友と呼んでくださる。そのかかわりの源泉(モデル)は、御父と御子とのかかわりです。友情とは、全く異なるペルソナを持ちつつ、決して相手を支配することなく、相手のペルソナを尊重しつ、自発的な愛のかかわりを保っていることです。しかも、〔友情の秘儀〕―すべてのことを知らされること、神の秘密を知る者とされることです。もちろん、「知る」とは知識的な意味ではなく、人格的なものであることはいうまでもありません。
  • ヨハネの福音書の17章は有名なイエスの弟子たちのための御父に対するとりなしの祈りがしるされています。そしてその内容は、弟子たちが「キリストと一つとされる深い交わり」が与えられることです。つまり、ヨハネの福音書の一番伝えたいことが、このイエスのとりなしの祈りの中に言い表わされています。それは、御父と御子とのゆるぎない愛の交わりの中に、主を信じて従う者たちが入ることをイエスは切望しておられるのです。
  • 私たちが「イエスの友となる」ということは、神ご自身のふところ深く入るということに他なりません。ヨハネの福音書で語られているすべての出来事は、みなこのイエスとの友情を育むという方向性を持っているように思います。しかも、それがイエスの敵の偏見、憎しみ、あら捜し、陰謀といったどす黒い背景の中に置かれているのです。


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