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瞑想P67/B

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瞑想Ps67/B

  • この詩篇67篇1節の「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」という祈りは、民数記6章24節~27節のアロンの祝福の最初の二つが統合した形となっています。この1節から「祝福」ということばを瞑想のキーワードとして選びたいと思います。ちなみに、6節にも「祝福」ということがあります、また、「祝福」が神に向けられると神ほめたたえることになります。
  • 創世記12章のアブラハムの召命の箇所では、なんと「祝福」ということばが5回も使われています。神がアブラハムを祝福し、地上のすべての民族がアブラハムによって祝福されるという構造です。私たち異邦人もこのアブラハムに接ぎ木されることで祝福されています。そして私たちもその「祝福を受け継ぐために召された」(ペテロ第一3章9節)者です。そして、やがては、祝福された国々の者たちが神を祝福するようになる、つまり賛美するようになるのですまさにローマ書11章36節のように「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る」ということが実現します。
  • 「祝福」ということばは、「かかわりの概念」だと考えます。それは神から人に、人から人へ末広がりに拡大していくからです。やがては、その祝福は賛美という形で神へと帰っていきます。「祝福を受ける」ということは、単に個人の範囲ではなく、かかわりにおける「責任と課題」を与えられることです。神さま、私を祝福して下さいという祈りにはそうした「責任と課題」がいつも含まれていると信じます。それゆえ、祝福の本質は「いのちの循環」であると言えます。
  • 多くの場所で、多くの集会で、多くの人々が神の祝福を求めているのを見ますが、祝福を受けるということは、大きな責任が伴うということの自覚が必要です。詩篇67篇の作者は、そのことを承知の上で、いや、そのためにこそ、明確に祝福を求めていると信じます。
  • 「どうが、私を祝福してください」と大胆に祈りたいと思います。まず、私が祝福される者とならなければなりません。私たちの神は祝福の神ですが、それを私たちが大胆に祈り求めることを神は願っておられます。なぜなら、「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだから」(ペテロ第一、3章9節)です。

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