瞑想Ps100/A
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瞑想Ps100/A
- この詩篇は招きの詩篇として、多くの教会の礼拝でも用いられている詩篇の一つですが、私はこの詩篇のキー・ワードを「知れ。主こそ神」としたい。「知れ」という呼びかけ、あるいは命令は、詩篇の中では多くはありません。検索してみると、詩100篇を含めて3回用いられているだけです。ちなみに、他のところでは、詩4篇3節と、詩46篇5節です。
「知れ。主は、ご自分の聖徒を特別に扱われる。」(4:3)
「わたしこそ神であることを知れ。」(46:10)
- 「主を知ること」ーこのことがこの詩篇の中心です。すべての呼びかけー「喜びの声を上げること」も、「喜んで仕えること」も、そして「喜び歌いつつ御前に来ること」も、「主を知る」ことと密接な関係にあります。主を知ることなしには、呼びかけは空しいものとなります。
- 主をどのようなお方として知るのか、この詩100篇では3節と5節にそれが記されています。
- ①主は私たちの創造主であること・・すべての一切の供給者であり、すべての存在の神秘を握っておられる方。
- ②主は私たちの牧者であること・・羊飼いと羊の関係は神と私たちとの関係を表わすために聖書で用いられているアナロジーです。イエスたとえ話の中で、99匹をそのまま置いても、失った羊一匹を見つけるまで探す方であり、羊のためにいのちを捨てられるような羊飼いがいることを話されました。その羊飼いとはイエスご自身であり、御子を遣わされた御父の姿です。
- ③主はいつくしみ深い方であること・・つまり、主は良い方であり、良いことしかできない方です。また、その恵みと真実は決して、とこしえまで変わらないのです。このようなかかわりをもって下さる存在は他にはありません。そのことを知ることです。主が決して変わることのない恵みと真実をもって、私たちにかかわってくださる方であることを知ることです。それがこの詩篇の「知れ。主こそ神」であるとの宣言です。新約ではこのことを「永遠のいのち」だとイエスは言われました。
- 御子イエスは、父のみもとから来られたひとり子であり、「この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ福音書1章14節)と紹介されています。その御子イエスを信じる者は永遠のいのちを持つというのがヨハネの福音書の焦点であり、7つのしるしはすべてこのことを指し示しています。ヨハネの福音書17章では、「その永遠のいのちとは、彼らがー主の弟子たちがー唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」と定義されています。
- 御子と御父とは一体ですから、御子を知ることは、御父を知ることになります。またこの永遠のいのちは、御父と御子とのかかわりーそのゆるぎない永遠の愛の交わりーを意味しています。御子がこの世に遣わされたのは、その永遠のいのちの中に私たちを招くためです。ですから「知れ。主こそ神」とは、私たちにとって重大な問題なのです。
- 今日、主を知ることよりも、主のために何かをしなければならないという思いに捕らわれてしまっているように思います。マリアのようにではなく、マルタのようにイエスのためにただ忙しく働いているように思います。そうしたあり方にピリオドをつけて、もう一度、マリアのように、ゆっくりと、静かに、主のみことばを瞑想することは、ある意味でライフスタイルの変革を余儀なくされるように思います。しかもそれは勇気のいることでもあります。
- 使徒ペテロは主を知ることのすばらしさを知っていました。ですから、そのことを一番に祈り、人々にも伝えています。
- 「神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」(ペテロの手紙第二、1章2節)
- 「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」(同、3章18節)
- 使徒パウロも主イエス・キリストを知っていることのすばらしさのゆえに、彼が持っているもの一切を損と思うようになり、主を知ることを生涯追い求めました。
- 旧約の預言者ホセアもこう言っています。
「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア書6章3節)
- 私も、主を知ることを追い求めることのできる一人とさせていただいていることを感謝し、永遠のいのちの豊かさを味わう者でありたいと思います。