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瞑想Ps106/A

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瞑想Ps106/A

  • 詩篇105篇において、神がご自身の民に対してどのように働かれたのか、そのみわざについてその一つ一つが述べられています。しかし詩106篇では、神の民が歴史の中で数々の神のみわざを経験しつつも、それを「悟らず」「思い出さず」「逆らった」(7節)と述べています。13節には、神の恵みのみわざを「忘れ」、神のさとしを「待ち望まず」「欲望にかられ」「神を試みた」と告白しています。
  • この詩篇全体を通して、出エジプトの出来事、40年間の荒野の生活、カナンの地の賦与、そしてバビロンの捕囚となるまで、神の民は神に不真実であったことが告白されています。良いところ全くなしといった告白です。主は、その間、幾度となく彼らを救い出されたのですが、43節では「彼らは相計って、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた」と結論づけています。神に対する人間の態度は「不真実」に尽きます。これが私たち人間の姿です。神の民であるイスラエルはバビロン捕囚の経験を通して自分たちの不真実な姿を深く認識したのでした。
  • しかし、この詩篇は単に人間の不真実について告白しているだけではありません。この詩篇を通して何よりも驚かされることは、人間の不真実にもかかわらず、その中に貫かれている神の真実です。44節はこの詩篇のキー・バースだと信じます。「それでも、彼らの叫びを聞かれたとき、主は彼らの苦しみに目を留められた。主は、彼らのために、ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みゆえに、彼らをあわれまれた。また、彼らを、捕らえ移したすべての者たちから、彼らがあわれまれるようにされた。」
  • 歴史の中で何度も繰り返される人間の不真実(偶像礼拝という霊的姦淫の罪)、にもかかわらず、神の真実が歴史の中に貫かれていきます。それはアブラハムと交わした契約(永遠の契約)のゆえです。神の真実な愛に触れたとき、人ははじめてさらに深い次元において神を信頼する者へと変えられていくのです。これこそ、神のあわれみです。捕囚から帰還した民たちは神の真実に触れて回復の一歩をはじめました。しかし神の御子が来られたとき、なんと再び、神を拒絶し、裏切ってしまったのです。人間の不真実による神の痛みは御子イエス・キリスト十字架の出来事において頂点に達します。それにもかかわらず、御子イエスは「父よ。彼らをお赦しください。彼らはなにをしているのか分からずにいるのです。」と祈りました。ここにはモーセやピネハス、あるいはサムエルヤダビデ、あるいは詩篇の作者たちのとりなしの系譜が見られます。こうしたとりなしの祈りのミニストリーも呼びこみながら、人間の不真実の中に神の真実は輝き続けています。歴史がそのことをあかししています。
  • 「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」(1節) 
  • このフレーズは神の真実に対する信頼の告白と賛美です。人間の身勝手な不真実さを知れば知るほど、神の真実の確かさが歴史の中に貫かれているのを知るのです。私たちはこの神の真実によって支えられているのです。でなければ、私たちはすでに神から投げ捨てられていることでしょう。ですから、私はこう祈ります。
    「主よ。あなたに感謝します。あなたはほんとうに良い方です。あなたの恵みは、今もこの私に注いでくださっていることを感謝いたします。どんなに感謝しても感謝しきれません。主よ。あなただけが回復の神です。あなたの真実な愛の中に私を生かしてください。」と。

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