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瞑想Ps108/B

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瞑想Ps108/B

  • 詩篇108篇の構造は大きく三つの部分からなっています。順序としては、最初がダビデの告白(1~5節)。次が「あなたの愛する者が助け出されるために、あなたの右の手で救ってください、そして私に答えてください」とする祈りに神が聖所から語られたことば(6~9節)、そして最後は10~13節の現実の状況での訴えです。
  • 詩篇は「詩」であるゆえに、順序は必ずしも出来事の順序で並んでいるわけではありません。順序として考えるならば、逆から考えるのが自然です。
  • この詩篇の最初の部分(出来事の順序としては最後の部分)1~5節が、この詩篇の中心部と言えます。特に1節の「神よ。私の心はゆるぎません。」という告白はこの詩篇のキーワードだと考えます。原文ではこの告白は1回のみですが、なぜかLXX訳ではこの部分(告白のフレーズ)が2回繰り返されています。LXX訳にはこの部分を意図的に強調しようとしたのかもしれません。
  • さて、新改訳の「私の心はゆるぎません」という訳は、一見、「ゆるぐ」の打ち消しの表現となっています。しかし、原文で使われている語彙は「クーン」כּוּןで、「確かにする、定まる」という意味で、詩篇では特愛用語の一つです。LXX訳この「クーン」の訳語として「エトイメー」
    ετοιμηを当てています。この「エトイメー」ετοιμηというギリシャ語は、「準備ができている、用意ができている、覚悟ができている」という意味で、英語ではI am ready, あるいはI am steadfast とも訳されています。
  • 使徒21:13に、パウロの周囲の者たちが、パウロのエルサレム行きは異邦人の手に渡されることになるということで、パウロの思いを止めにかかったり、泣いたりとして心をくじこうとしました。それに対してパウロは「主イエスのためなら、エルサレムで縛られることばかりではなく、死ぬことさえも覚悟しています」と答えます。その「覚悟しています」ということばが「エトイメー」です。使徒パウロの「覚悟している」という心の決意と、詩篇108篇の「私の心はゆるぎません」という告白には共通する強い意志が感じられます。ただ、ペテロも「主よ。ごしょっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」(ルカ22:33)と言っています。「覚悟ができている」、同じく「エトイメー」ですが、この「覚悟」は自分の弱さを知らない時期のペテロでした。パウロのように「キリストにあって」というかかわりを築いていく必要があるように思います。
  • さて、詩篇108篇の場合、そうした堅い決意を告白する背景には、神が聖所から語られたということばに「わたしは喜び勇んで」という神の好意・恩寵があるように思います。この確信こそ「私の心はゆるぎません」という告白を根底から支えるものであると思います。
  • イエスが十字架にかかられる前夜、弟子たちに「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」と繰り返し言われました(ヨハネ14:1, 27)。やがてイエスがこの世を去って父のみもとに帰られた後も、残された弟子たちが「心を騒がす」ことがないように弟子たちに心の備えをさせています。その備えの中で最も重要なことは、イエスが父に願って、「もうひとりの助け主」を与えてくれるように求めるということでした。その助け主が弟子たちといつまでもともにおられることで、弟子たちは決して孤児にされることなく、むしろ、イエスの持っておられる平安と喜びで満たされるためでした。それゆえ「恐れず」、御父と御子を信じるように弟子たちを整えようとされました。三位一体なる神の確固としたゆるぎない愛のかかわりの中に住むことこそ、やがてイエスの弟子たちがこの世のさまざまな状況の中にあって、信仰がぶれることなく、心がゆるがされることなく生きる秘訣であることを思い起こされます。

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