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瞑想Ps118/B

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瞑想Ps118/B

  • 詩篇118篇はメシア詩篇の中でもそれを代表するものといっても過言ではありません。この詩篇はキリストの教会の歴史において復活節に読まれてきました。なぜそうなのかを正しく理解する必要があります。
  • 復活されたイエスが弟子たちに現われました。その顕現の目的は、自分がメシアとして聖書全体(律法、預言書、詩篇)から自分のことを記していることを説き明かしながら、弟子たちが聖書を悟るために目が開かれるためでした。
  • そしてそれは実際的になったことが使徒の働きに記されています。使徒ペテロはイエスの昇天以後、他の弟子たちとともにエルサレムで父の約束を待ちながら、祈りに専心していました。おそらくその祈りは大きな声を出して祈っていたというよりも、静かに、聖書を瞑想し、イエスの語ったことやイエスのなされたことを思い巡らす祈りのときであったろうと思われます。彼は使徒職の欠けた所にだれかを選ぶことを提案しますが、そのことも彼の考えではなく、詩篇のあることばを通して導かれたのでした。
  • また、ペンテコステの聖霊降臨の出来事以降、ペテロは聖書を拠り所にしてすべてを論証していきます。イエスの復活においても、「この方が死につながれていることをなど、あり得ない」ということを聖書をもとに論証しています。なんという変化でしょうか。それはイエスが昇天される前に、聖書全体からご自分について語っているところを説き明かされたからでした。イエスの手本をしっかりと見ていたのです。
  • 詩118篇は「エジプト・ハレル」詩篇(113~118篇)として、ユダヤ人たちが三大祝祭―過越の祭り、五旬節、仮庵の祭りで、読まれ歌われた詩篇です。イエスが弟子たちとともに過越の食事をし、主の晩餐をしたときにも歌われたと言われています。イエスはこれらの詩篇の意味するところをよく知って歌われたのですが、弟子たちはおそらく何もわからず歌っていたのではないかと思います。
  • この詩118篇は「神の国の完成」の視点が記されている詩篇です。その視点を持たないと理解できない詩篇なのです。詩118篇は下記にある四つの神の救いが含まれています。Ⅳの出来事は時間的には将来のことですが、ヘブル語では確実に実現することを完了形で記します。

神の歴史における四つの救出のドラマ

神の歴史における四つの救いのドラマ

  • Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ.Ⅳ.のそれぞれの救出の前には必ず苦しみがあります。Ⅳの苦しみはユダヤ人にとって最大の患難が訪れます。しかし、苦難の後に必ず救い(解放・栄光・繁栄)があります。それゆえ希望があります。また苦難にも深い意味が隠されています。反対に、神に逆らう者たちは、どんなに繁栄や栄光があっても、その後はイ・カボデ(栄光は去るという意味)です。それゆえ希望がありません。
  • 神の歴史における四つの救いのドラマ、すべてに共通する記述がこの詩118篇にはあります。その共通の記述とは以下の四つの節です。そこにある「私」とはイスラエルのことです。ヘブル人特有の集合人格的語法です。

①5節「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた。主は、私に答えて、私を広い所に置かれた。」
②13節「おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。」
③18節「主は私を厳しく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。」
④21節「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。」

  • これら四つの節にはすべて「苦難、そして救い」という構造がみられます。

Ⅰ.「出エジプトの救出」に関連する記述

①14節「主は、私の力であり、ほめ歌である。主は私の救いとなられた。」(出15:2、イザヤ12:2)
②15節、16節、「主の右の手」という表現は出エジプト記15章の勝利の中に登場します(15:6, 12)。イザヤ書41章10節にも出てきますが、そこはキリスト再臨時の終末の預言がしるされている章です。


Ⅱ. 「バビロン捕囚からの解放」に関連する記述

①「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」
このフレーズは、バビロン捕囚から解放された者たちが自分たちの歴史を振り返って、神の救いを感謝するときの定型句です。詩篇の特愛用語であり、詩篇そのものが捕囚以後に編纂されました。
②「主の右の手は力ある働きをする」(15, 16節)
これも詩篇特愛用語で、エジプトからの救出だけでなくバビロンからの解放を含めて使われたことばです。


Ⅲ.「イエス・キリストの十字架と復活の」に関連する記述

①「拒まれた石」が礎石とされること (22, 23節) 
イエスは家を建てる者たち(イスラエルの民)によって拒絶されましたが、神はイエスをよみがえらて、ならない要(かなめ)の石とされました。
②「主の設けられた日」 (24節)
ー贖罪の日ーは、イエスのよみがえりの出来事を預言しています。
③「この日を喜ぼう」(24節) 
イエスのよみがえりは喜びの日として、主を礼拝する日となりました。


Ⅳ.「キリスト再臨による救いー神の国の完成」(千年王国の到来)

  • 以下の記述はイエス・キリストの再臨によって実現する千年王国を待たなければなりません。

①「すべての国々が私を取り囲んだ。確かに、私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう。」(10~12節)
「すべての国々」とは異邦の民です。キリスト再臨前にはイスラエルは全世界が敵となります。「取り囲む」ということばが4度も、「主の御名によって、彼らを立ち切ろう」というのも3回使われています。これは異常とも思える事態が襲うことを意味しています。
②「おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、主が私を助けられた。」(13節)
「主は私を厳しく懲らしめられた。しかし、私を死に渡されなかった。」(18節)
キリスト再臨前、反キリストによって、ユダヤ人を襲う激しい患難のことを述べていると思われます。
③「義の門」「主の門」(19~20節)
かつてイエスがろばに乗って入場されたエルサレムの門は、現在、オスマン・トルコによって閉ざされたままです。「開かれた義の門」は詩篇24篇も預言されていますが、栄光の王であるキリストがそこを入られるために、再び門は開かれます。ただしそれはキリストが再臨されてからのことです。
④「ホサナ(どうぞ救ってください)」(25節)
イエスがエルサレム入場の際にも民衆から「ホサナ」と迎え入れられました。しかし、そのエルサレムでイエスは拒絶されました。ですからもう一度、この預言は「主の御名によって来る人に祝福があるように」という悔い改めを伴って実現しなければなりません。
⑤「主は神であられ、私たちに光を与えられた。」(27節)
これはユダヤ人の民族的回心を意味します。使徒パウロが天からの強烈な光によって回心したように、ユダヤの民は太陽よりも強烈な「光」(シャハイナ・グローリー)によってはじめて神に立ち返ることができるのです。

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