****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

瞑想Ps120/C

Ⅴ/A(107~150篇) | テキストPs120 | 原典テキストPs120 | 瞑想Ps120/A | 瞑想Ps120/B |

瞑想Ps120/C

2節「主よ。私を偽りのくちびる、欺きの舌から、救い出してください。」

  • 詩篇120篇の作者が神に救い出してほしいと願っているのは、「偽りのくちびる」と「欺きの舌」です。「くちびる」も「舌」も、単に身体的な一部というよりも、人格の奥深いところにあるものを表出する器官です。イエス・キリストはサタンを「偽りの父」と呼んでいます(ヨハネ8:44)。もし、「偽りの父」に支配されているならば、真実な神のことばさえも「偽りのことば」として受けとめさせられてしまいます(出エジプト5:9)。「偽り」と訳されたヘブル語は「シェケル」שֶׁקֶר(男性名詞)で、偽り、詐欺を意味します。旧約では113回、詩篇では22回使われています。
  • さて、聖書ではしばしば「偽り」と「欺き」がワンセットとして用いられていますが、両語は似たような意味を持っており、それを重ねることでより意味を強めているといえます。たとえば、Ps52:3, 4、101:7、120:2、Mic6:12などがそうです。
  • 「欺き」と訳されたヘブル語は「レミッヤー」רְמִיָּה(女性名詞)で、欺きだけでなく、ゆるみ、だらしなさ、怠慢、裏切りといった意味でも使われています。旧約では15回、詩篇では6回の使用頻度です。この言葉の動詞は「ラーマー」רָמָהで、旧約で最初に出てくるのが、ヤコブがおじのラバンにまんまとだまされた箇所です(創世記29:25)。
  • ラケルを妻にするためにヤコブは7年間、ラバンに仕えますが、与えられたのはラケルの姉のレアでした。仕方なくヤコブはさらに7年間彼に仕えることになります。もともとヤコブは狡猾にも兄の長子の権利を得ようとしました。また彼はエサウになりすまして、巧妙にも父イサクから祝福を受けました。そんな彼が今度はおじのラバンにだまされ、さらにはラバンをだまして一財産を築くような者でした。ところがヤコブが故郷に帰る途中に兄エサウが迎えにくることを知ったとき、これまでのヤコブの生き方が自分を不安に陥れたのです。恐れから来る完全な行き詰まりの中で、ヤコブはなんとかそこから解放されるべく、力を求めて神からの祝福を得ようとある人と格闘します。しかし、ヤコブの生来の自我はきわめて強く、そんなヤコブに勝てないことを知った人(御使い)はヤコブのもものつがいを打ってはずします。「もものつがいを打ち、それをはずす」とは結果的にびっこをひくことになりますが、比喩的な意味では、ヤコブをこれまで支えてきた核心を打つことを意味します。
  • 神の祝福を求めて戦うヤコブ、そのヤコブの心の中を通り過ぎたのは何かは記されていませんが、おそらく、年老いた父イサクへのあざむき、兄エサウへの態度、長年ラバンをだまし続けてきたことなどを含むものと考えます。ヤコブの心の中に巣食っている卑劣なものがこの戦いの中においてあばかれたのです。それは「おまえの名は何というか」という問いに、「ヤコブです」と答えたやりとりの中に見ることが出来ます。「神を見る」とは自分の真の姿を見る経験をすることなのです。
  • この「ペニエル経験」以来、ヤコブは人からだまされることはあっても、だますことをしなくなります。つまり彼の人格の深いところにあるものが、神によって取り扱われたことを意味します。その結果、ヤコブは変わって行ったのです。
  • ヤコブと似たような経験した預言者にイザヤがおります。イザヤも見神の経験をするのですが、神を見ることで、自分のうちにある闇と対峙します。それまでは彼は預言書として神の民に「ああ」(新改訳)、「わざわいなるかな」(口語訳)と言ってさばき続けていました。ところが「わざわい」なのは、さばかれるべきは、自分のくちびるであったことに気づかされたのです。神を見るまではイザヤは自分のうちにある「闇」に気づいていませんでした。それに初めて気づかされたとき、彼は神によって赦され、きよめられて、新たな使命に立つ決意をします。それは、語っても、だれも耳を傾けてくれる者がいないという現実の中で語り続けるという困難な使命でした。
  • 「偽りのくちびる」、「欺きの舌」という表現は、神を信じない者たちにのみ当てはめることではなく、すでに神を信じ、神を知っているキリスト者の中にも存在しているのです。自分のうちにある闇、この闇を照らす光こそ神の光、御顔の光、聖霊の光と言えます。神の光は闇の中でこそ輝きます。神の光の中に導かれつつ、自分のうちにある闇(すさみ)から目をそらすことなく、しっかりと対峙することが、それから救い出される方法です。
  • 詩篇120篇の作者が「偽りのくちびる、欺きの舌」から救い出してくださいと祈った祈りは、自分の外にいる者たちからの救いもあれば、自分のうちに巣食っている卑劣なもの、深い闇からの救いでもあるのです。自分のうちに巣食っている卑劣なもの、深い闇を、新約聖書は『肉』(サルクス)ということばを使っています。神が与えようとしているまことの「平和」(シャーローム)は、神の光に支えられながら、自分のうちにある「肉の問題」としっかりと対峙することによってのみはじめてもたらされるのだと信じます。
  • ひとつの視点からではなく、これまでとは異なる視点から詩篇を味わうことによって、より深められた神の福音の理解へと進んでいきたいものです。聖霊による霊的識別力がいよいよ豊かにされるようと祈りつつ、今回の都上りの巡礼の旅をはじめて行きたいと思います。「都上りの巡礼の旅」とは、換言するなら、「御霊に導かれて歩む旅」ということができるかも知れません。

2011.6.14


powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional