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瞑想Ps121/A

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瞑想Ps121/A

1. 私の助けはどこから

  • この詩篇の問いかけは「私の助けはどこからか」です。詩篇の作者は自分自身が大いなる守りと安全を必要としていることを感じながら、「その助けはどこから来るのだろうか」と思案しています。安全の保障、防衛の保障は、生存の保障と並んで、私たち人間の基本的なニーズです。私たちの人生の営みのほとんどは、この必要のために生きているといっても過言ではありません。
  • 「自分は誰の世話にもなっていない、自分の力だけで生きている」と錯覚している人がいますが、傲慢と無知丸出しです。人は一人で生きることはできません。私たちは毎日他者の助けを必要としています。老人や幼児だけの問題ではありません。青壮年の方々も例外ではありません。高齢になると、そのことをいっそう痛感します。昨年は苦にならなかったことを、今年は負担に感じて助けを求める事になります。
  • 私たちが必要としている助けは様々です。青年の力を借りることがあります。老人の知恵を借りることもあります。医療技術者の助け、教育指導をいただく助け、熟練工の助け・・・。助けなしでは生きられない私たちは、悲しい事に時々見せかけの助けに欺かれることがあります。
  • 相互扶助―「助けられたり、助けたり」という関係は美しいものですが、人生には人間の助けが及ばない領域があります。個々の問題解決のためには、いろいろな助けの道が備えられていますが、私をまるごと(全人格的に)受け止め支えてくれる助けは何処にあるのでしょうか。
  • 詩篇121篇の作者詩人は、自分の中のひとりが問いかけ、もうひとりの自分がそれに答えています。ここでは、「われ山に向かいて目をあぐ、わが扶助はいづこよりきたるや。」という問いを自分に対して発しています。そして、それに対する答えは、「わが助けは天地をつくりたまえる主よりきたる。」です。
  • この確信に導かれるならば、これで完結と考えてよいと思うのですが、この詩篇では、さらに3節から「人称なき存在」がその確信をサポートしているのです。つまり、「天地をつくりたまえる主」、つまり創造者である神がどのようなお方かをより深く知ることができるようにサポートしているのです。

2. あなたの創造者を覚えよ

  • ここで、私の助けは、「天地を造られた主から来る」という宣言について考えましょう。「天地を造られた主」とは、「あなたの創造者です。」ここで、伝道者の書の12章を開いて、その呼びかけに耳を傾けてみたい。

    12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。
    12:2 太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。
    12:3 その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓からながめている女の目は暗くなる。
    12:4 通りのとびらは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。
    12:5 彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。
    12:6 こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉のかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。
    12:7 ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。

  • 実は、2節から6節までは「老年の描写」がなされている箇所です。ここでは、老人の肉体の各部分の描写と他の比較を交えて、老年期を描写しています。 「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に」(2節)。他の解釈では「太陽」をすべてのものが幸せに輝いて見える幼児期と見、「月」を少年期・青年期、「星」を成人期と解釈する人もいます。しかしここの箇所は、冬の情景描写と解釈し、光が陰り、陰鬱さの増す冬、たとえ雨がやんでも青空とならない、「灰色の空が厚く垂れ込める」冬景色のような老年期の描写をしていると解釈したほうが良い。(『新聖書注解』旧約3、いのちのことば社、参照)
  • 老年になると、目はかすみ、光を楽しむことが少なくなっていくし、元気な若い時には、雨のあとに必ず晴天が訪れ、太陽が昇ると考えていたのに、老年になるとそうはいかなくなるというのです。
  • このように聖書は、伝道者の書12章1節にある「わざわいの日」は老年の日々を指摘しています。老年そのものは、厳しく冷たい現実です。必ず訪れる死もまた悲しい現実です。この二つをまともに見据えるならば、人生はまことにむなしいものとなります。それゆえ1節で、聖書は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と忠告し、慰めの道があることを告げているのです。どんな慰めがあるかというと、詩121篇の5節を見ると分かります。

主は、まどろむことなく、眠ることもない。(5節)
主は、あなたを守る方、主は、あたなの右の手をおおう陰。(5節)
主は、すべてのわざわいから、あなたを守り、あなたのいのちを守られる。(7節)
主は、あなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。(8節)


3. 行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる主

  • 最後の行の「行くにも帰るにも」という表現は、巡礼者にとって旅路の無事を言い表す適切な言葉です。しかし、「行くにも帰るにも」(新共同訳も「出で立つのも帰るのも」と訳している)と分かり易くしているので、原文が持つ本来の豊かな意味を見失わせています。口語訳では「出ると入るとを」、文語訳も「いづると入るとを」と直訳的に訳しています。岩波訳、関根訳、フランシスコ会訳では「出入りを」と訳しています。この語の用法、すなわち「出入り」の用法を知れば、主の祝福がおよぶ広がりを伺い知ることができます。

    モーセは高齢になって、リーダーの役割をヨシュアに託す時に、「私は、きょう、百二十歳である。もう出入りができない」(申命記31:2)と言っています。これは、超人的な活動をしてきたモーセが、自分の限界を知って口にした言葉です。この「出入り」は、モーセの活動そのものです。 新共同訳では「わたしは今日、既に百二十歳であり、もはや自分の務めを果たすことはできない。主はわたしに対して、『あなたはこのヨルダン川を渡ることができない』と言われた。」とあります。


    カレブもこういっています。「しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(ヨシュア記14章11節) 新共同訳では「今なお健やかです。モーセの使いをしたあのころも今も変わりなく、戦争でも、日常の務めでもする力があります。」と訳されています。つまり、ここでのは「日常の務め」を出入りと言っています。


    ソロモンがダビデ王の後継者となった時「わが神、主よ。今、あなたは私の父ダビデに代わって、このしもべを王とされました。しかし、私は小さい子どもで、出入りするすべを知りません」(Ⅰ列王3:7)と訴えて知恵を求めました。この「出入り」とは、王としての行政能力や責任を指していることが明らかです。 新共同訳では「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。」とあります。

  • 以上のことから、単に、旅の無事を表す「行くにも帰るにも」では十分ではありません。主は、神の民をそのすべての生活領域に亘って「今よりとこしえまでも守られる」のです。8節の「出入り」とは、私たちのすべての営み、あるいは、神から与えられている使命遂行のためのすべての力の保障などを含んだことばと言えます。

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