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瞑想Ps121/C

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瞑想Ps121/C

Keyword 2節「私の助けは、天地を造られた主から来る。」

  • 前篇の詩篇120篇の作者が救い出してほしいと願っているのは、「偽りのくちびる」と「欺きの舌」からでした。この表現をメタフィカルに理解するならば、すべての偽り、虚偽、まやかし、ごまかし、見せかけ、甘言、でまかせ、詐欺、捏造、裏表・・といった、真実の世界とは対象的な闇の世界です。そこからの救いを作者は願っていると言えます。それは自分の外だけでなく、自分の内にも存在する世界と思います。混在する二つの世界の中で、真の救い、真の助けはあるのかどうか、その問いかけが次の121篇にある問いかけです。
  • その問いかけとは、まず自分に向けて語られます。「私の助けはどこから来るのか」と。その問いかけに対してもうひとりの自分が答えます。「私の助けは天地を造られた主から来る。」と。そしてこの方がどのような方かを第三の人称なき存在が説明しています(3~8節)。
  • Ps121/Cの瞑想のキーワードは「天地を造られた主」です。この方こそ、120の作者の救いの真の解決者であり、真の救いであり、回復の根源者と言えます。神はその歴史において、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」として自己啓示されました。モーセに対しては「あってある者」と啓示しましたが、「天地を造られた方」創造者としてご自身を啓示されたのは、捕囚の民たちに対してでした。預言者イザヤは回復の預言の中で、偶像の神と対比しながら、繰り返し、創造者である神について語っています。詩篇121篇にもその対比が語られています。「昼も、日が、あなたを打つことがなく、夜も、月が、あなたを打つことがない」と(121:6)としていますが、この「日」は、エジプトの太陽の神のことであり、月とは、バビロンの月の神のことです。イスラエルの民がバビロンの捕囚となっていた当時は、大きな勢力として、エジプトとバビロンがありました。大国といえども、それらがイスラエルの民を打つことがないと言っているのです。
  • エジプトもバビロンも偶像の神を造り、それに頼っている国でした。それゆえ、それらの国はやがて滅びていきます。預言者イザヤは捕囚の民に対して、繰り返し、偶像の神ではなく、天と地を創造された神こそ、すべての助けの源泉であり、その方はどんな状況からでも回復することのできる方として語りました。
  • たとえば、イザヤの語る方は常に創造の神です。

    40:26「目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。」

    42:5 「天を造り、これを引き延べ、地とその産物を押し広め、その上の民に息を与え、この上を歩む者に霊を授けた神なる主はこう仰せられる。」

    43:1 「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形作った方、主はこう仰せられる。」

    43:7 「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」

    44:2 「あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。」

・・・などです。

  • 日本には偶像の神はあっても、創造の神に対する信仰はありません。私たちの持っているすべての必要、すべての助け、より深い根源的な闇からの救いをもたらす方は、天地を造られた神しかいないという確信こそこの世を巡礼する私たちにとって重要なものです。。
  • ちなみに、創造の神と対比される「偶像」の本質は、出エジプト記20章4節に記されているように、あくまでも「自分のために」造られる神です。自分の都合のいいように、自分の利益のために造り出された神です。しかもそ「偶像」というヘブル語「ペセル」(פֶּסֶל)は出エジプト記では20:4のみの1回ですが、イザヤ書では回復の預言が記されている40~48章の中に、9回も使われています。
  • 偶像は虚偽の神であり、「偽りのくちびる」と「欺きの舌」(Ps120:2)をもって私たちを騙すのです。その背後には「偽りの父」であるサタンが支配していることは言うまでもありません。「私の助けはどこから来るのか」との問いかけに、「私の助けは、天地を造られた神から来る」という告白はすべての偶像の本質を見抜いて、それを締め出すところの信仰告白です。偶像は私たちのうちにある「肉」の問題と密接なかかわりがあります。キリスト者であったとしても、「もし、肉(偶像)にしたがって生きるなら、・・死ぬのです」(ローマ8:4)とあります。
  • 詩篇121:2の「私の助けは、天地を造られた主から来る。」との告白は、新約的に言い換えるならば、自分が「肉の支配下」ではなく、神の賜物である「聖霊の支配下」においていただいていることを信じ、聖霊に導かれることを願う生き方と言うことができます。

2011.6.15


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