瞑想Ps124/B
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瞑想Ps124/B
- この詩篇は「都上り」において、想像を絶するような困難を経験することが預言されています。神の恩寵を表わす「助け出された」と訳される動詞は、ヘブル語の「マーラト」מָלַטは、人間的な力を越えた大きな力、死とよみの恐怖、滅びの穴、破滅の穴から救い出す、抜け出す、あるいは罰を免れるという意味で使われています。この動詞が聖書の中で最初に登場するのは創世記19章です。そこには「マーラト」מָלַטが5回も使われています。主がソドムとゴモラを滅ぼすときに、ロトに対してその町から命がけで山に「逃れる」ように、しかも振り返らずに「逃れる」ように言いました。
- 詩篇124篇7節では2回「マーラト」מָלַטの完了形、受動態で「助け出された」(have escaped)で使われています。ヘブル語の完了形は、預言的完了形とも呼ばれ、まだ起こっていないことでも確実に起こることは完了形で表されます。したがって、この詩篇ではイスラエルの存続が危ぶまれる事態にあっても、確実に、「救い出される」ことを語っていると言えます。
- この詩篇を瞑想する上で大切な点があります。それは2節の訳です。新改訳では「もしも主が私たちの味方でなかったなら、人々が私に逆らって立ち上がったとき、・・」とあります。後半の「人々が私に」という部分についてどう理解するかがこの詩篇を理解する鍵のように思います。というのは、「人々」と訳された部分の原文が「アーダーム」אָדָּםと単数になっていることです。そのように忠実に訳しているのは岩波訳とフランシスコ会訳です。新共同訳は単数とも複数ともどちらにもとれる訳です。関根訳、バルバロ訳は複数で「彼ら」と訳しています。もうひとつ、その後に続く「私が」(新改訳)と訳された部分の原文は正確には「私たち」です。一人の者がイスラエル(複数)に対して逆らって立つということがイメージされます。
- イスラエルの歴史においてそのような光景は、ペルシャ時代にペルシャの王の臣下ハマンによってユダヤ人滅亡計画が画策されたときに、モルデカイとエステルがその奸計を王に知らせることで、逆にハマンとその家族が滅びました。ユダヤ人はその出来事を「ブリムの祭り」として今日でも祝っています。
- これからのち、ユダヤ人は再び、反キリストによって民族的患難を受けることが預言されています。詩篇124篇にあるように、それはまさに「燃え上がる怒り」(3節)、「大水」(4節)、「荒れ狂う水―驕り高ぶる水」(5節)であり、これらは猛威を振るう力を表現しています。そうした表現に象徴される反キリストとそれに従う勢力が、ユダヤ人を「生きたままのみこむ」(3節)、「押し流す」(4節)、「歯のえじき」(6節)にしようとします。しかしそうした「仕掛けられたわな」(7節)から、主はイスラエルの民(ユダヤ人)を救い出すお方として告白されています。
- これまでもユダヤ人はキリスト教会の歴史の中で、さまざまな民族的危機から救い出されただけでなく、反キリストの支配による大艱難においても、彼らは奇蹟的にキリストの再臨によって「助け出される」のです。そしてこの地上に約束された千年王国が樹立するのです。
- 神の民の「都上り」の旅において、その到達の直前に大きな患難と同時に神の救いを経験することが預言されているのです。「私たちの助けは、天地を造られた主の御名にある」との告白は、そのような意味においてより一層の輝ける重みをもった告白と言えます。このような視点から詩篇124篇を読み直すとき。神の救いの計画のダイナミズムを感じさせます。
2011.6.21