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瞑想Ps125/B

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瞑想Ps125/B

  • 詩篇125篇に出てくる「主に信頼する人々」(1節)、「正しい者」(3節)、「善良な人々」(4節)、「心の直ぐな人々」(4節)は、すべて原文では複数形です。しかも、最初の「主に信頼する人々」と「正しい者」「善良な人々」「心の直ぐな人々」はみな同義と言うことができます。
  • ここでは、特に、1節の「主に信頼する」ということと、4節の「主よ、・・いつくしみを施してください」ということばがどう結びつくのかを瞑想してみたいと思います。
  • 「主を信頼する」の「信頼する」という動詞は「バータハ」(בָּטַח)は、信頼して完全に主にゆだねることを意味します。そのような人は決して、揺るがされることがなく、シオンの要害のような難攻不落の存在であるとたとえられています。新改訳ではそのような者は、「とこしえにながらえる」と訳されていますが、「ながらえる」の原語は「ヤーシャヴ」(יָשַׁב)で、本来は「座す」という意味です。岩波訳では「とこしえにとどまる」、典礼訳では「とこしえに立つ」とも訳されます。あるいは「住む」とも訳されます。
  • 主を「信頼する」ということは決してたやすいことではありません。イスラエルの歴史をみると、神のトーラーの中で、繰り返し、主が言われることを守り、従うように教えられていますが、神の民イスラエルはそうした歩みをせず、危機的な状況において、預言者が主を信頼するように語られても、それを素直に受け入れることをしませんでした。主を信頼することは、本来の人間にはとても難しいことなのだと知ることができます。事実、神の民は他の国々と同様に、神に頼ることなく、軍事力に頼ろうとしました。生存するための必要も神に頼るより、異邦人の宗教に頼るようになって行きます。
  • 主を信頼することがなぜそんなに難しいことかと言えば、それは非常識的なことが求められるからです。武器をもって大群が押し寄せて来ても、それに対抗するのに、武器に頼らず、神に信頼せよと預言者は語ります。戦いを避けて他国と同盟を結ぶほうが理にかなっているように見えても、やがてそれは神から引き離してしまう誘惑となることを神は警告しました。神とその教え(ことば)に逆らうならば、すべてを失うことを何度も警告されながらも、神の民は耳を貸そうとはしませんでした。
  • 詩篇46篇10節に、「やめよ(正確には、武器を捨てよ)。わたしこそ神であることを知れ。」とあります。そうすれば、「わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」とあります。またイザヤ書30章15節にも、「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」とあります。悔い改めて、神を信頼しなければなりません。
  • 人が神を信頼することによって、神の民が神の聖を表わす者となるということです。神は神を信頼する者に目を留めて下さり、生存の保障と防衛の保障を与えてくださいます。しかしその保障を得るためには、神をどこまでも、どんな状況の中においても、神に信頼することが必要でした。
  • さて、作者は4節で「主よ。善良な人々や心の直ぐな人々に、いつくしみを施してください。」と祈っています。この祈りと1節の「主に信頼する人々はシオンの山のようだ」ということばはどう結びつくのでしょうか。「いつくしみを施す」と訳されていることばは、ヘブル語の動詞「ヤータヴ」(יָטַב)です。礼拝用語では「正しく行なう、正しいことを行なう」という意味ですが、恩寵用語として使われると、神は「良いことをする、最善のことをしてくださる」という意味になります。新共同訳では「しあわせにする」と訳しています。
  • この「ヤータヴ」(יָטַב)が聖書で最初に登場するのは、創世記4章7節です。神がカインに語っている箇所です。「あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。」とあります。カインは神へのささげものにおいて「正しく行なわなかった」ということが前提とされています。それとは反対に弟のアベルは、正しいことを行なったことで神から目を留められています。その正しいこととは、神へのささげものにおいて、自分に与えられたものの中から、最良のものを、自分の手で持ってきてささげたことです。この行為の意味するところは、アベルは自分の生存と防衛の保障をして下さるのは神であると信じ、信頼していることのあかしだということです。神は、いつの時代においても、生きた親しいかかわりを持つ人々を求めておられます。
  • 「主に信頼する者」(すなわち、「善良な人々、心の直ぐな人々」)は、単に、ゆるがされることなく、不動な者とされるだけでなく、常に、当然のように、主からの「いつくしみが施される」(「恵みで満たしてくださる」)者となるということが強調されているように思います。

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